1994年自転車と私と怒らない父
黄色い自転車
黄色いおさがりの自転車に乗っていた。
そろそろ補助輪を外して乗れるよう練習しようと、休日は父が練習に付き合ってくれた。
練習するのは、いつも川沿いの砂利道。
今日もダメだったねと団地へ戻った。
帰り道、ふと、団地の下で自転車に乗ってみたら
、どういうわけかあっさり乗れた。
乗れる乗れる!
フラフラしながらも補助輪なしの自転車で、
ぐるぐるその場を何度もまわった。
難しい砂利道で練習した後、つるつるした地面でチャレンジしたから簡単に乗れたのだ。
今思うと、砂利道で自転車に乗るのは大人でも難しい。
ガタガタするからハンドルがとられるし、バランスも取りづらい。
運動か得意でない私が人並みのタイミングで自転車に乗れるようになったのは、
なぜか最初に高いハードルを設定した父のおかげである。
自転車と怒らない父
父は怒らない。
怒らないどころか叱らない。
叱らないどころか注意さえしない。
決してこどもに無関心なわけではない。
父の話ぶりを思い返してみる。
例えば、こどもの「これ買って〜」に応じない時も、理由を伝えて買わないだけである。
言葉の中に、こどもを嗜めるニュアンスを混ぜ込まないんだな。
だから私も注意されたという記憶として残らなかったんだ。
こんなに怒らないのは珍しい父親だと、うすうす感じてはいたが、自分が親になるとその徹底した姿勢に感動すら覚える。
少なくとも私にとって、こどもを注意しないなんてそんなのもう本当に無理だ。
そんな父から、一度だけ強く注意されたと記憶しているのが、自転車にまつわることだった。
多分中学生になったころなので、2000年頃。
一緒に自転車に乗っていた。
横断歩道を渡った後に呼び止められ、
「えま、車道で自転車に乗るときは、絶対に左側を走らないといけないよ」と注意された。
注意されて当たり前の事だ。
驚くことに、今の今まで注意されたと記憶しているのはたったこれだけなのだ。
怒られないで育った私
母も私を強く叱ることはなかった。
姉は私を従えて色々教えてくれていたが、私に怒ったりはしなかった。
つまり家庭内で怒られた経験が全然ないのだ。
おかげで、中学生になっても車道を逆走するような、非常識な人間として育ってしまっている。
社会に出る前にきちんと注意され、矯正されるべきところがそのまま放置されているかもしれない。
もしくは、他者からぶつけられる怒りに対する耐性が、人よりないのかもしれない。
それでも、わたしの心の中はいつでもほんのりと幸福である。
このほんのり幸福状態は、家庭で否定されずに過ごすことができた幼少期に、家族に作ってもらった大事なプレゼントだと思うようにしている。
そして、私は母親となり、夫とともに大切な娘にプレゼントをせっせと作っている。
父のようにはできなくとも、私たちなりに精一杯。