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無個性の価値はなにか(仮)

ずっと、個性がないことがコンプレックスだった。(わたしは本当にコンプレックスが沢山あるなぁと書きながら呆れる。)

最初にそれを認識したのは中学生のときで、クラスに「かわいい子」「面白い子」「頭のいい子」と判りやすいカテゴライズが出来上がってきた頃、自分に突出して優れているものが無いことに気づいた。「〇〇〇ナンバーワン」に絶対選んでもらえないような感じ。そのことが、急に恥ずかしくて悲しくなった。

一番悩んだのは20歳前後。当時、わたしはスタディツアーやボランティアに参加して海外に数週間滞在することが好きだった。その際、5〜15人ほどの(ほぼ初めましての)参加者としばらく寝食を共にすることになるのだけれど、いつだって他の全員のイキイキとした個性が、眩しくて仕方なかった。

わたしは他人から見て、どんな人間なのだろうか。得意なこともなければ、特別に尖った気質もなく、自己主張も苦手だった。個性が無いと、役割が無いみたいで、自分が居ても居なくても変わらない気がした。慣れない味の食事や水場の汚さ、現地の人とのコミュニケーションよりも、日本人の輪のなかで自分の価値が判らないことの方が苦しかった。

大人になるにつれて、個性よりも経歴が重視されることが増え、「過去になにをしてきたか?」によって、わたしの輪郭が決められてゆくことが増えた。次第に、無個性コンプレックスは隅っこの方で小さくなっていった。

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今日 omamori で、とある取材を受けた。そのなかで、「さまざまな属性のお客さんが omamori に来ていて、その人たちが自然と共存している光景がおもしろいよね」という話になった。たしかにお店には、小さな赤ちゃんも、若い(ちょっとゴツゴツした)お兄さんも、ご近所のおじいちゃんも来てくれる。それぞれの時間をお店で過ごし、ときどきおしゃべりが生まれたり、そこでお友達になったりしている。たしかにそれは、店主のわたしから見ても「おもしろいなあ」と思う。(そしてとても嬉しく思う)

「まるのさんが、その中心にいるんですね」などと言われるけれど、わたしがその場をやりくりすることなんてなく、むしろ人見知りを発動して、ニコニコ黙っていることも多い。優しいお客さんが多いので、一見属性が違う方々でも、根っこの優しさの部分で自然とつながっているのだと思っている。

ワークショップイベントのときの、好きな写真。


すると、インタビュアーの方が「燕三条って個性の強い人も多いと思うのだけど、まるのさんが柔らかいから、さまざまな方の個性の尖りを包んでいるんですね」というようなことを、言った。

(燕三条の地域性は判らないけれど)そのときその言葉が、隅っこで小さくなっていたわたしの無個性コンプレックスを、はっと呼び覚まして、さらりと撫でていったのだ。風のように一瞬のできごと。

わたしは、いままで自分が無個性でつらかった。気にしなくなった今でも、「自分はこういう人です」というのを、三条という新しい場所でどう伝えたらいいのか模索し続けていた。無個性は良いことではないと思い続けていた。

でも、今日初めて「無個性でよかった〜」と心から思った。その小さな感動を残しておきたくて、取材が終わってすぐ、この文章を書き始めた。

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わたしは本当にコンプレックスが沢山あったのだけれど、ひとつひとつ、時間をかけて着実に、それらから解放されている。「この悩みとは一生の付き合いだな」と思っていても、ふとした瞬間、だれかの言葉に、軽々とかっさらわれることもある。言葉の力も、時間の力も、すごいものだ。

ちなみに、「無個性な人なんていないのでは?」という声が聞こえてきそうだが、まあ、そう。本当はいないと思う。個性って、「突出していること」「目立つこと」ではなく、誰かと比較するものでもなく、 ”その人らしさ” そのもののことだと思うから。大人になったわたしはそのことを頭で理解しているし、もし同じように悩んでいる人が居るのであれば、その人のもつ魅力を一緒に探したいと思っている。

ひとりごとおわり。


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