ミドルエイジクライシス(ある中年男性の中年思春期日記)
ミドルエイジクライシス、ご存じでしょうか?人生の終焉を身近に感じるようになり、「このままで良いのか?」と中年で迎える思春期のようなものだそうです。まんまと私もそれに陥りまして、人生の迷子になるわけです(笑)。
青年期には反権力・反体制の野党精神だったのに、いつの間にか与党側になっていて、壊すべき権力が自分になっていたりして(笑)。そうか、もうれっきとした立派なおじさんになったんだなあ。不条理を飲み込みながら日々、ゾンビのように生きております(嘘)。
中年になると、理不尽なことが増え、益々頑固になっているなと感じます。その理由がようやくわかったので、ここに書いてみました。
環境が変わっていて自分のポジションに違和感が芽生える
大体の男性は、14歳の思春期ボーイのまま大人になるので、本当に幼稚です。私も例外ではありません(笑)。特に、反抗のシンボルであったロック(35年前)に夢中だった少年も、いまだに「ロックだぜ」と息巻いていますが、小学生の息子にはラップでディスられ、へこんでおります(笑)。時代は変わるものです。何かに対する反抗や抵抗が自分の行動の原動力だったのですが、いつしかそんな反逆者も正統派になってしまい(もはや、ロックがかわいい音楽になり、ヒップホップが今のゴリゴリにソリッドな音楽シーンを占めるように)、叩きやすい側に回ってしまったのかもしれません。ああ、全然自分の居たいポジションじゃないのに。。。
理不尽とは?
そんなこんなで、中二男子の反逆者がいつしか政権与党を獲得し、反権力・反体制側のやつらに袋叩きに遭う(笑)「なぜだ?こんな理不尽なことがあるのか?頭おかしいんじゃないか?」とそんな風に思うのです。おっさんでも(笑)。すると自然と「怒り」の感情が芽生えてきます。
さて、理不尽って何でしょう?私の考える理不尽とは、半生で蓄えた常識や道徳、ルールを守ってきたにも関わらず、割に合わない目に遭うこと。つまり、理不尽。この現象には二つの課題があります。
ひとつは、外界の人々の無知な行動によって因果関係が成り立たず、害悪が外界にあると認定してしまう課題。これにより、世の中がおかしい、君たちは間違っていると運動を起こしてしまう。
もうひとつは、半生で蓄えたルールのアップデートが遅れ、環境の変化に追いついていないという課題です。私たちが中二だった1990年頃には存在しなかった携帯電話がスマートフォンに形を変え、世界は一変しているにも関わらず、私のOSはBASICのままだった、みたいなものです。
因果関係が成り立たなくなるとき、怒りを覚える。それが理不尽と考えます。前者は要因が外側にあり、後者は内側にあります。
理不尽の効能
理不尽という「思い込み」が乱発するようになる私。どうやら、私のOSのアップデートが進んでいないのだなと薄々気づき、急いでアップデートするのです。思考、無意識、認知、メンタルモデルについて調べ、人を頼り、得た知見はこんな感じです。
①この中年のクライシスは本来の自分との統合のために必須のイベントのように感じる
②「怒り」という感情を深掘りすると「愛」と表裏一体だとわかる
③自分の思考はもはや私を形成しているものではなく、生存維持を促すプログラムでしかないので、思考をあてにしない方が良い
④現実は自分の潜在意識を投影したものであり、投影した現実にへこんでいるとさらに現実が悪化する
⑤この理不尽な思いは人生のフェーズを変えるために必須のイベントである
一番「なるほどぉ」と納得したのは「怒り」についてです。怒りは誰かに向けると、泥試合になる。ただ発生した怒りをため込むのも体に毒です。「怒り」は表向きには不要な感情のように思えますが、裏には「大切にしているものを守る」という「愛」が隠れているようです。自己愛や他人への愛。それを守るために怒りが発動するのです。怒りは二次感情と言われるゆえんです。ただ、この怒りのエネルギーを外界に放出するかどうかは自分次第で、必ずしも放出しなくていいのです。選択はあくまで「自分」にある。
感情を感じきる
最近では「あ、このやろ、めちゃ腹立つな」と思った瞬間に「お、怒ってるぞ俺。何にそんなエネルギーが動いているんだ?」という問いが浮かぶようになりました。大体、解釈の違いや勘違いで、話せばわかるようなどうでもいいことが「論争」や「闘争」に発展するのだと思います。
話が脱線しますが、今ラップバトルが流行っているのは、「暴力はいけません」という風潮が強すぎて、言葉の暴力が流行っているのかもしれないなと感じます(笑)。
感情をただの「エネルギー」と捉えると、怒りも非常に大切なシグナルであり、裏返せば愛情の深さに比例しているのかもしれません。
思考の役割
頭の中のおしゃべりですよね。私はシミュレーションが好きで、ああしたらこうするといろいろなパターンを展開するのが好きです。その想定外の出来事が起こると感動するようです。なので、相手もいろいろと思考を巡らせてる筈だと勝手に期待をして、期待外れを勝手に味わい、勝手に絶望するという独り相撲を取ってしまうことも多々あります。アホや(笑)。
しかし、この思考のドライブは、課題を克服するというよりも、欠けているものを見つけ、行動させるために動いているようです。不安や恐怖を糧にして動いているプログラムです。ただ、仕事(タスク)においてはこのシミュレーション能力は非常に役立ちます。ですが、この思考を「私」と認識してしまうことに、数々の問題が起こしている気がします。
考えると感じる
スピリチュアルな言い回しになりそうですが、「思考」と「自分のあり方」を分けると、頭の中が少しシンプルになって、脳内メモリを無駄に使わなくなるようです。AIが普及してきたことで、この「思考」の価値が急速に下がり、代わりに「感覚」や「感じること」の価値が上がってきたと感じます。
テクノロジーの恩恵をフルに活用するには、人間側の認知もアップデートする必要があるのでしょう。
辛辣な言い回しを避けるAIサービスもあるようですが、その未来は、人間の攻撃性を俯瞰することなく、きれいな言い回しをするAI同士が会話する世界になるかもしれません。創造的な世界はAIが創り出し、破滅的な世界は人間に任される、そんな予感がします。
思考を手放し、感性を豊かにすることが、これからの人間に必要なアップデートではないでしょうか?そんなふうに感じます。
感じるとは?美しいとは?
幸せとは?
あるものをただ感じる。これが難しかったりします。
思考がぐるぐるめぐり、現状に甘んじることを良しとしないので、
欠けているモノ・コトにフォーカスし、不安を煽るのです。
考えるのではなく、
ただただ感じる。感じきるしかないのかも。
感性の上にテクノロジーの思考が拡張されると、どんな社会になるのか?
その世界線はワクワクします