ゴミ箱に棄てるのはブサイク、ではなくその蓋なのに。
娘が3歳の当時、ママゴトの相手はすでにSiriだった。YouTubeのSkipボタンを5秒になったと同時にクリックして『ミスタービーン』に釘付けになる。
そんなスマホネイティブの彼女(4歳)が現在、ハマっているのが洋服の柄やカーペット、ドアノブなどありとあらゆるものをクローズアップ撮影して”素材”集めをすること。そのなかには、たまにわたしのドアップ写真も紛れている。発見するたびにギョッとする。半目だったり、鼻の穴とシミに焦点があったそれは変顔というレベルを超えた代物である。その気持ちを今風に表現するなら、矢印のマークは急下降を指してうなだれている。
そんなことが数回づついてから、わたしは目を細めながら定期的にスマホのアルバムをチェックするようになった。目を細めるのはしょーもない自己防衛だ。何を隠そう、見たくもない瞬間の自分を直視して、認めたくないからだ。わたしの脳内クラウドには存在しない、くすんだわたしをこの世から完全消去すために。
わたし以外見ない、
写真を撮った娘しか知らない
”わたし”を架空のゴミ箱へと投げ捨てる。
便利な世の中になったものだ。
しかしなかなか、心の奥底は不思議なものでスッキリしない。
なぜなら、この変な映りの自分はもちろん、自分なんてものは不完全で凸凹だからこそ味があるってもので。悩むから努力するし、うまく出来ないから達成した時の喜びがある。老いて行くからこそ柔らかくなれる。そしてこの世のみんなが美男美女だったら、それは結構つまらない。映画やドラマの登場人物のキャラを想像すればわかるように。
そんな一見、ネガティブな性質や事柄、経験から満ちる重層で柔軟な感情の裾野が、他者や社会への理解へと広がっていく。などと言うのは、きれいごとだろうか。すると、正直に言えよ、という心の奥底のスッキリしないキミ=わたしが小突いてきた。
「半目でやつれている自分も馬鹿笑いしてあげたい。
めっちゃ変顔やん、って自分で自分にツッコミを入れながら。
健やかさや清らかさや、美しさに溢れたSNSのタイムラインに、
自分の見たいものしか映し出さない幻想のタイムラインに、
思い切りぶっ込んでやりたい」
そんなわたしが心の奥底で「おーい」って存在をアピールしそうになると、打ち消しては蓋をする。そんな自分が寝っ転がってまだまだ居る。ブサイクな自分ではなく、そんな蓋こそゴミ箱へ捨てて完全消去したいのに。どうせ全部、幻だし。
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不完全を全肯定している過程のわたしに、”自己受容”という直感やメッセージがたくさん来たので思うことをつらつらと書いてみました。この文章を書いた後に出合ったのは、まさに”自己受容”の豊かさを説いたお二人からのメッセージ。ピンときた方はぜひ。
YOKOさん・願ってもないのにうまく回り出す。宇宙に任せる超具体的な方法解説。
大野ゆきさん・自己受容のワーク