Essay|手帳は地層
先日noteに「あっという間に年末になりそう」と書いたところから、わたしのなかで急速に年末モードが加速している。
となると、買わねばと思うのは手帳である。
手帳は去年から、はあちゅうさんと村上萌さんの『週末野心手帳』というのを使っていて、今年で2冊目。来年の手帳もそれにしようと決めているくらい、使い心地がよくて、自分と向き合えるし、自由に書けて、お気に入り。
毎月の初めに載っているコラムを読むのも楽しみ。
年間を通してやりたいことを書いておくページがあったり、月初めのwish listにその月にやりたいことを書き出したり、自己分析をするページもあったりして、自分の願望・モード・これからに向けて、を整理する手帳としてとっても重宝している。
わたしはもともと、手帳が続かない人間だった。
というより、手帳に何も書けない人間だった。
ずっと手帳に憧れはあって、でも「手帳をきれいに使いたい」と思っていた。だから、手帳のはずなのに手帳に予定を書き入れることに緊張して。
「きれいに文字を書きたい」だとか「この予定は完璧に遂行したい」だとか、そういうことに気がいって、きれいじゃないなら完璧にできそうにないなら何も書かないほうがいい、というような思考に陥った。
手帳の空白に何か書きこむたび、きれいだったものが汚れてしまう感覚すらあったかもしれない。
今からほんの数年前のわたしでも、今よりもっとがちがちの完璧主義だったのだなと思う。
そう思うと、今はもうすこし自由になった。
予定を上書きしてもいいし、「とりあえず書いておく」ということができるようになった。
それがなぜできるようになったのかは、正直なところわからない。
でも、手帳が続くようになってから、確実に自分の「やりたいこと」や「買いたい物」が増えたと感じている。(もしくは逆で、「やりたいこと」や「買いたい物」を見つけられるようになったからこそ、それを書き留めるために手帳が必要になったのかもしれないけれど)
そして「やりたいこと」や「買いたい物」が見つかるとき、そこには自然と「なりたいわたし」という像がある。
たとえば洋服。
最近わたしは新しい洋服がほしくて、ZOZOTOWNを徘徊して服を見漁っていた。
そのときに、去年は青いニットとか赤いニットとか、パッとした色のものをほしいと思ったのに、今年はなんだかピンクとかラベンダーとか、やわらかいパステル調の色が気になるぞ? と思って。
それは、流行には関係なく、ただただ本当にわたしの気分、そして、やわらかい色を着ていればやわらかい人になれるのではないかという、若干のスピリチュアル。
というところから、わたしは、「そうだな、たしかにやわらかい人になりたいな、今までのようにこんな自分でありたい! というたしかな信念のようなものを捨てて、もっと自由に、もっとやわらかく、どんな自分でも大丈夫、って思えるような、やわらかくて優しい自分になりたい」と思った。
それは「なりたい自分がいなくても大丈夫」というわたしなりの新境地。
つまり、「なりたいわたし」がいなくてもいい、という状態が今のわたしの「なりたいわたし」だということです。
複雑なようで、でもきっとこれはシンプルなんじゃないかなぁと思う。
毎年毎年こうやって、軽やかに自分を更新していけたらいい。その地となる部分に、なにげない日々をたとえ薄くとも積み重ね、ささいな楽しみ、ささいな望みを手帳や日記に記していけたら、それが自分の地盤になったら、そんなに信頼できるものはない、と思う。
手帳は地層だ。
どんなに歪でも積み重なってから見ればきっと美しい。そう信じている。
わたしはわたしの日々を、薄っすらとでもいいから、積み重ね、織りなしてゆく。
そんなこんなで、すこし気は早いけれど、2024年の初詣にはやわらかい色の服でコーディネートを組んで出かけたいなぁ、などと考えている。