長い長い残暑がようやく終わりを迎えた頃、わたしたちは戌の日のお参りに行った。 長い長い石段の先に神社はあった。膝に手をやり、息を切らして登る。腰を伸ばして振り返ると、港の向こうでキラキラと海が光っていた。 朗々と響く祝詞、 夏の名残の蝉の声、 控えめに重なる虫の声。 開いた扉の間から吹き抜ける風、 巻き上がる髪、 サラサラと鳥居の御幣が揺れる。 そっとお腹に手を当てる。 なんて幸せな子だろう、と、ふと思う。 産まれてくる前からこんなに祝福を受けて。 今日この瞬間を覚
7月から始まったつわり。寝ても覚めても、横になっても立っても辛い。手に入る情報に希望を感じたり絶望したりする。できることといえば、ただ四六時中止まらない吐き気の中に身体を投げ出して、過ぎた時間を数えていることぐらいだった。 Jは優しかった。これなら食べられそうだとわたしが言えば、それが何時だろうが、その日何回目の買い物だろうが買いに行ってくれた。でも口にしてみるとまったく受け付けなくて、彼は夏じゅう偏った食品の残飯処理みたいなことをさせられていた。 わたしは声にちょっとの
「そういえば、昔、マサキっていう友達がいたんだよ」 Netflixの画面を閉じて、電気を消して、「おやすみ」と交わしたあと、 真っ暗な空間にJの静かな声だけが響く。 「うん」 「マサキはすごいいい奴でさ……」 小学生のころ、毎日毎日一緒に帰った。 流行りの漫画のあらすじを教えてもらうのが楽しみだった。 あの漫画、30巻もあるのにな。 小さな少年が二人、ランドセルを道端に放り投げて、漫画のキャラクターになり切って遊んでいる。 こそばゆくなるようなワクワクで胸をいっぱいにして
さらさらと揺れるもみじの葉っぱを、夕焼けの光が撫でていた。 公園の滑り台を、 子どもらの頬を、 それを見つめる若い母親の髪を、 信号待ちをする自転車を、 古びた団地の壁を。 夕焼けの光が優しく撫でていた。 こうやって夕陽は今日という日を、かけがえのない一日にするのだと思った。
旅先で知らない花に出会う。すごく嬉しい。 旅先で見知った花に出会う。すごく嬉しい。
わたしの目は春が好きだけれど、わたしの身体は春が嫌いだ。 背中が痛み、動悸がする。それが過ぎ去るまで、ただじっと横になっているしかない。 会社に休みの連絡を入れてから、布団に入ることもできず、その場にへたり込む。 「こんな身体じゃ普通の会社で働けないな」 そうやってままならない自分の身体を恨んでいた。 頬を当てた畳の感触。 落ちた涙が吸い込まれて小さく変色する。 日焼けして黄色くなった畳の香り。 ままならない。 自分の身体さえままならない。 桜が満開になった次の日、嵐の
朝日が希望の光なら、夕日は慈愛の光だ。
モクレンの花が咲いた。 なんだかとても嬉しい。 近所のスーパーに向かう道沿い 公園の植え込みのモクレンの樹 ふわふわの産毛に覆われた緑色のつぼみが 見るたびに膨らんでいく。 「もうすぐ春が来る」と、期待に膨らむ胸みたいに。 モクレンの花が咲いた。 なんだかとても嬉しい。 6年間暮らした花巻の日々を思い出す。 家賃3万(駐車場代500円)の木造のアパート 上の階のおじさんの携帯のバイブレーションまで聞こえた。 これからもうあんなに遮二無二働くことはないんだろうなぁと
海に行った。 黒いスウェードの靴がみるみる細かい砂にまみれていく。 なんで今日この靴履いてきちゃったんだろ。 靴を脱ぐ。靴下を脱ぐ。 足の裏が細かい砂を踏みしめる。あたたかい。 砂浜は足の下で自在に形を変えて、指の間をすり抜けていく。 砂粒が足裏の細かい皺の一本一本に入り込んでくる。 思わず「わあ」と声を上げた。 きっとこの砂浜に一日いることよりも、この砂浜のことを本で読むことよりも、ずっと濃厚で膨大な情報を、いま、足の裏でつかまえている。 ジーンズの裾を折り上げて、Jが
雪が降った。 雪が積もった。 「あそこ見て。ああやって木の枝一本一本に雪が積もってるのがきれいだよね…… 」 午前中いっぱいかかった牛の競りの帰り、雪景色に目を輝かせて彼は言った。 雪玉を作って遠くの木に投げる。 幹に当たって砕けるパーンという音が響く。 雪玉はまん丸の型を残して木に張り付いている。 「あっ、手前に当たった!遠くのやつに当てたかったのに」 そう言ってまたせっせと雪玉を作る。 「旦那さんの名前なに?相合傘書いてあげるよ。この遊び、やったことない?」 ふかふ
「クッキー作ったことある?」 「ない」 「えーっ!ないの?じゃあ一緒に作ろう」 バターを溶かす、グラニュー糖を混ぜる。 ジャミジャミした砂糖がだんだんと滑らかに馴染んでいく 小麦粉とベーキングパウダーをふるい入れる。 粉が煙のように少し舞い上がる 卵を割る、慎重に黄身だけを取り出し、生地に混ぜる。 薄い黄色をした生地が、少しずつまとまっていく 花形に型を抜く 「楽しい?」 「うん」 Jの視線と神経が手元に注がれているのがわかる。 型を抜いて残った生地を丸めて、伸ばして、
アラームが鳴る。 「あと10分だけ……」と布団の中でぐずぐずしていると、リビングから”We are the wolrd”が聞こえてきた。 Jがカチャカチャと料理をする音がする。 ふわふわとハミングをする声が重なる。 寝ているより起きた方が楽しそう。 降参して布団から出る。 陽気な朝にまんまと誘い出されてしまった。 Jは昨日半額で買った黒ごまベーグルをトーストし、フライパンで目玉焼きとベーコンを焼きながら、変なステップを踏んでいる。 「おはよ」 「おはよ」 朝からノリノリだ
「なんか眠いから昼寝するわ」 Jがあくびを噛み殺しながら言う。 「わたしもー」 つられてあくびをする。 昼の光でほかほかになった寝室へ。 並んで布団に入る。 首まですっぽりと羽毛布団にくるまる。 横を向くと、Jもまったく同じに布団からぴょこんと顔だけ出している。 おんなじ角度で横になった顔。 視線がぴったりぶつかってふふふと笑う。 「靴下脱がないで寝れるの?」 布団に入るときは靴下を脱ぐのがマイルールらしく、そのルールをわたしにも適用してくる。 「いいの、このままで」
身体が重かった。頭痛がした。気晴らしにyoutubeを見ていたはずが、どんどん暗い内容のものになっていく。最終的に「自己愛性パーソナリティ障害」の動画にたどり着いて、「わたしはそうなのではないか」などと考え始めていた。身体がだるい。呼吸が浅くなる。このまま布団に沈み込んで1日を過ごしたい。 ダメだ。 ぜんぶ自分の頭の中で起こってることじゃないか。外に出よう。買い物メモをポケットに突っ込んで、重たい身体を無理矢理押して外に出た。 あたたかい。 太陽の光が明るかった。 ス
「何分の電車だっけ?」 「48分」 二人で足早に玄関を出る。 「わ。今日はあったかいね」 「ほんとだね」 階段を駆け降りて車に向かう。 向かい側のマンションからかわいい声が聞こえた。 「パパァーー!行ってらっしゃあーーい」 見上げると2階のベランダにお母さんに抱っこされて手を振る女の子がいる。3歳か4歳ぐらいだろうか。 「お仕事頑張ってぇーー!バイバァーーイ」 小さな手を不器用にぶんぶん振り回している。 シルバーの車がゆっくりカーブを描きながら駐車場を出て行く。 お母さんが
9時57分。よかった、予約時間にギリギリ滑り込めそうだ。 エレベーターの「閉」ボタンを押そうとすると、バタバタと走ってくる男性の姿が見えた。 仕事の途中で抜けてきたのかな。 息が上がって、ジャケットもヨレている。 3階、不妊治療専門クリニック。 彼はわたしと同じ階で降りた。 クリニックでパートナーと待ち合わせていたようだ。二人でわたしの後ろに並んだ。 オレンジとベージュ、お花のデザインでまとめられた院内は若い女性たちでいっぱいだ。パートナーと一緒に来ている数人の男性たちは肩