代わりになる存在と代わりにならない存在
仕事復帰をして、3 ヶ月がたった。
仕事復帰は、2 度目だ。
前回は長女、今回は次女の出産からの復帰。
この 2 回で、私の働き方は、ずいぶん私らしくなった。
「無理をしないはたらき方」を自分でアレンジすることができるようになったからのように思う。
家庭を一番にしながら仕事を楽しむ、時間と心の余裕のつくり方が、すこしずつ、わかってきた。
代わりになる存在と、代わりにならない存在を
自分のなかでうまく共存させる
それが、心地よい働き方の源のように感じている。
*
前回の育休復帰のとき、体調がデフォルトで悪かった。
娘との時間はものすごく楽しくて、むしろ元気の出るものだったけれど、単身赴任をしていたのもあって、
「この子を私ひとりで守っていなければならない」
という緊張感が、四六時中、ずっとあって、緊張がゆるむ時がなかったように思う。
そのふだんのプレッシャーが体にきて、出産での体の変化も加わって、ずっと体調が悪かった。体調がいい日は、梅雨の晴れ間のように珍しかった。
でも今回は、ちがう。夫が一緒に暮らせるようにと、転職してくれたのだ。
単身赴任を終えて、夫がいつも隣にいてくれている。
私が体をこわしたって、夫がいるから大丈夫。
もし夜中に地震がきたって、夫が娘たちを守ってくれるから、なんとかなる。
いつでも私がダメになっても大丈夫。
その安心感が、すごく、大きくて。今回はとても健康的に過ごせている。
「お母さんはひとりしかいないから、まずはお母さんの体を大切にしないと」
そうよく耳にするけれど、私は、
“お母さんだって人間だから、いつダメになっても、大丈夫。そのときはいつでも代わってくれる人がいるから”
その安心感が、とても大きかった。
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こうして今回の仕事復帰では、心の余裕とともに、体の余裕を得ることができた。
でもそれとは別に、もうひとつ課題があった。
前回の仕事復帰のあと、仕事量が、すごく、多かったことだ。
時短 (9 時〜16 時半) で働いていたけれど、実際には仕事量は、以前 (8 時〜23 時頃まで働いていた頃) と、変わらない量、舞い込んできていた。
…無理だ。物理的に、無理だった。
そのはずなのに、前回はそこを、やりくりして、こなしていた。ほんとうは、できないはずなのに。
今回は、それを、やめた。
やめると言っても、「無理をしないで」働くためには、この仕事量を、どうにかしなければ、どうにもならない。そこで、タイマー作戦に出た。
…チン! (16 時)
……チン!(16 時 15 分)
16 時半、帰る。
こうして私は、「16 時半に帰る人」になった。
こうすれば、帰る 30 分前の時点で、まだディスカッションの途中だったりしても、「まだ帰る時間まで少しあるので」とワンクッション置くことができる。そして 16 時 15 分のチンで、「いよいよそろそろ」となって、さいご 16 時半には予定どおり帰れる。
実際には、私は夜も仕事をしている (研究職なので、仕事自体は楽しくて、それは全く苦ではない)。でも、見かけ上、仕事をしていないことになっている。
昼は作業する時間、夜は考える時間
そう区別することにしたのだ。
昼間、職場では「作業」をする。メールをしたり、ディスカッションをしたり。やらなければならない仕事をする。だれかとやりとりしたりもする。
でも、ひとたび家に帰ったら、そこは私の時間。私だけの自由な時間。
メールもしないし、仕事場とは切り離された世界にいる。
夜のこの時間帯は、私は、はたらいていない人。自分の世界で過ごす時間。
この時間は、自分のやりたい仕事をやったり、仕事をせずに、こうやって note を書いたりもする。
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育休中、考える時間って、とても大切だと思った。
考えるには、心と時間の余裕が必要だ。
育休中は、毎日が終わりのない時間だった。
朝、長女を保育園に送って行くというミッションがあるけれど、それさえ終われば、あとは赤ちゃん (次女) との自由な時間だった。
何時になにをしなければならないという決まった予定がなくて。
そんな終わりのない時間に、私の思考は、とても豊かになった (このとき、note を始めて、たくさんの思いを綴らせてきてもらって、育休中の宝になった。)
仕事を再開したいま、「終わりのない時間」は、昼間にはない。次から次へとやるべきことで埋まっている。
でも、夜がある。夜は、終わりのない時間。
そんな夜を、自分のための「考える時間」に充てることにした。
一日の終わりに、好きな時間まで、好きなふうに、考える。
こんな毎日を過ごしているうちに、心も、そして働き方も、だんだんと余裕がでてくるようになった。毎日が豊かになってきた。
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そして徐々に、昼間の「作業」の仕事量が、私に見合う量になってきた。
私の川幅に合った水流になるように。
昼間の作業時間の範囲内でできる仕事量に、だんだんと落ち着いてきた。
ときに溢れてしまいそうになった時は、仕事をだれか (たとえば学生さんたち) に割りふって任せ、自分の本流から派川に流せるようにもなってきた。
私の川は、アマゾン川のように大きくもないし、勢いよく流れる川下りをするような川でもない。
小川のように、ちろちろと、流れている。
でも、その川は、澄んでいて、潤っていて。私らしい川だった。
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最近は、その先に
仕事での役割と母親の役割が、似ていていいんじゃないか
と思うようになった。
ただ単に時短だと、働く時間がただ短いだけの人になってしまう。
だから「なにか、私にしかできない役割」が仕事場にあったら、仕事場での私の存在意義があるんじゃないかと思っている。
娘たちにとって、母親は私しかいないように。
『仕事場にとっても、私にしか成し得ない事』があったら、それで十分、時短であれなんであれ、その仕事場にいる価値があるのではないか。
母親の役割のような、代わりのない存在感を、仕事場でも持つことができれば、自分らしく生き生きと働くことができるように思う。
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いま、単身赴任を終えて、夫がいつでも私の代わりになってくれるという安心感を得た。
その一方で、やっぱり、お父さんはお父さんで、お母さんはお母さん。お母さんは、私しかいない。
代わりになることと、ならないこと。
自分にはそういうふたつの側面があって、代わりに「ならない」ことというのは、『存在だけでいい』ということのように思っている。
いつでもだれか、代わってもらえる存在がいてくれているということは、とても大切で、有難いこと。
でも、同時に、自分はなくてはならない存在であって、代わりのない存在でもある。
代わりになる存在と、代わりにならない存在というのを、自分のなかでうまく共存させていくとき。私らしく働ける環境を生み出せるように思っている。
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この春、仕事復帰を前に note を書いたとき、ある方から戴いたコメントのお言葉が、ずっと励みに残っている。
”これから時間をかけて
ご家庭とお仕事とのバランスを
いい感じにしていかれることかと思います”
「これから時間をかけて」
そうだった。この先、長い。私はまだ仕事を再開して 3 ヶ月。まだ始まったばかり。
これからずっと、長く、長く、はたらいていく。
だからこそ、私らしい働き方で、2 度目の今回こそは、無理なく、そして『楽しく』いこうと思った。
長い目でみて、だんだんと私の川の川幅を変えたり、自分の川独特の生態系をつくり上げていくことができるようになったのなら。
きっと、そのときには、なにか、外側から見た自分の役割としても、自分の内面から湧き出てくるものとしても、キラめくものをもつことができるようになっていると思っている。
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