文通ラジオ第10回目_予想できない日々と葛藤【あづ妙】
こんばんは。
文通ラジオ第10回目。今日はあづ妙がお届けします。
まだまだ日中は暑い日が続いていますが、夕方以降になると、突然「秋が近いんだな」と感じるような匂いがして、ちょっとした寂しさを覚るようになりました。
とはいえ、朝起きてすぐに「暑い…」と言いながら冷房をつけているので、体感的には「まだまだ夏」といった感じですね。
そして、月1回更新でお届けしている文通ラジオも、とうとう10回目…。あっという間でビックリです。
去年さきさんに「交換日記をやりませんか?」と声をかけたときのことを思い出していました。
あれから1年以上が経った今、日々はあまり変わっていないようにも見えるけど、過ごした日々を細かく覗いてみると、「それなりに頑張っていた気もする……」なんて、自分に言い聞かせながら、今日記を書いています。
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さきさんが書いてくださった第9回目の「依存先を増やす」にすごく共感しました。
どちらかというと今の私は依存先(心の拠り所)を多く作れているのですが、学生時代~20代前半にかけてはサンボマスターのライブが心の拠り所一択の人生を歩んでいて、「ここだけが自分にとってすがれる場所だ」と思っている部分があったので、そのために生きて、ただひたすらにアルバイトをしていた日々を送っていました。
そんな日々は今思い返せば愛おしいものでありながらも、そこにしか依存できなくて困ったことも本当に多かったので、大人になった今、心の拠り所を分散させることって本当に大切だなと感じています。生きる術と言っても過言ではないかもしれません。
そしてこうやって、どれも自分だけどみんな違う。違っていい。と真っすぐ言葉にしてもらえたことで、今の自分の行動を肯定してもらえたような気持ちになりました。ありがとうございます。
いろんな自分がいる人生って楽しいですよね。
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さて、10回目となる今回は何を書こうか…と、さきさんが書いてくれた第9回目の投稿を読み返しながら考えていたのですが、先日、お昼ご飯を作っているときに「あ~、これ文通ラジオに書いてみようかな」と思ったことがあったので、今回はそれを書いてみようと思います。
「テーマ」と明確に挙げられるほどピンとくる言葉は見つかっておらず、書きながら輪郭をクッキリとさせられればいいな……と思っているので、思い切って書き始めました。終着地が見えぬまま書き始めるのも、たまにはいいですね。(グダグダになってしまったらすみません)
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先日、お昼ご飯を作っていたとき、ふと頭の中に浮かんできたのが昨年の9月14日のことでした。もしかすると「2023年9月14日」という数字を見て、ピンとくる人もいるかもしれません。
この日は阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝を果たした日です。私は応援している選手が阪神にいるので、普段大きな声で「阪神ファンです!」とは言わないものの、この前後数日は自分が応援している人が大事な日に登板する可能性があることに吐きそうになったり、ソワソワしたりと、これまでの人生ではなかなか味わえなかった感覚を味わっていました。
そんな日のことが頭に浮かんできたとき、自分の視点で見つめているものは、居間にあるテレビ、そして椅子に座って優勝の瞬間を一緒に眺めている弟の姿でした。
私には2歳下の弟がいて、姉弟仲は良い方だと思います。この年齢になっても一緒に映画を観に行ったり、野球観戦に行ったりすることもあり、友人にこの類の話をすると「ほんとに仲がいいよね~」と改めて言われることもあるため、はたからみたら私たちは「仲がいい姉弟」なんだと思います。
ただ、何をもって「仲が良い」と定義するのかは難しいところで、仕事やプライベートに関する深い話はほとんどした経験はありません。だからといって、互いへの干渉もほとんどないので、いい意味で、「物理的に一番近いところにいる友だち」と捉えられているのかもしれないです。(向こうはそんなこと、まるで思っていない可能性もありますが……)
そんな弟が今年の春、突然引っ越しを決意。あれよあれよという間に家を決め、気付いたときには実家からいなくなりました。
「今まで当たり前に近くにいた人が家からいなくなる」という経験をするのは初めてで、弟が家を出てからの数日は心がぷかぷかと浮いたような感じでした。そこに明確にあったのは寂しだと思います。
でも、「寂しいだけじゃない。よく分からない気持ちがここには浮かんでいる気がする…」。そんな謎の葛藤を抱えたことを良く覚えています。
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私は高校生のときに寮生活をしていたり、1人暮らしを始めたり、突然中期的にどこかに滞在してみたりと、家の外に出る機会が多い人生を送ってきましたが、弟はどちらかというと家にいるタイプだったので、”帰ればそこには必ずいる人”といういイメージがいつの間にかついていたのかもしれません。
そんな弟が引っ越しをしたとき、「さすがに20年以上一緒にいるから、そりゃ寂しいわな」という気持ちを抱きながらも、心にぷかぷかと浮かんでくるのは、掴めそうで掴めない葛藤でした。
そんな葛藤を探ってみたとき、「自分ではどうしようもできない環境の変化って、やっぱり面白いな。不思議だな」という気持ちがあることに気付いたんです。
今こうして、弟が引っ越したことを書いていると一つ蘇ってきた記憶がありました。お世話になっていた職場の先輩が突然異動になったときの寂しさ。そして、先輩ががお店からいなくなった日に覚えた感覚です。
この感覚は、弟が引っ越したときに浮かんできた感覚とほぼ同じであるような気がしていて、ぽつりとその場に自分だけが置いてけぼりにされているような感覚。突然視野が一気に広くなって、すごく遠くから自分のことを見つめているような、そんな感覚です。
自分の人生に関わっている人の影響はどんな人であれ大きく、そしてその影響を自分では止めることができない。ただ受け止め、ときには流していくしかないときだってある。
「自分だけの人生」と思っていても、この世界には自分だけではどうしようもできないことがあって、ときには予想できない日々が突然やってくることだってある。むしろ他者の影響を受ける日々が多いのが人生なのかもしれません。
こうやって書いていると、きっと私は自分の人生を”自分ひとりの視点”で捉えていて、自分の意志で選び、動いてきた自負があるんだろうなと思いました。だからこそ、他者の影響で自分の生活が動き始めることに、大きな違和感を感じていたのかもしれません。
弟の引越。先輩の異動。当時感じていた不思議な感覚は、「ここからまた、新しい生活のルーティーンを組み立てなきゃいけない」みたいな焦りだったのかなあと、書きながら一つの答えみたいなものに辿り着けた気がします。
きっと、あのときの私は、焦っていて不安だったんですね。
ただ、先輩の異動と弟の引越しに直面したとき、たしかに葛藤みたいなものは感じたのですが、受け取り方は全然違うかったなとも思います。
先輩が異動したときは今からざっと5年以上前の話で、当時は自分が考えてもみなかった方向に日々が動いていくことが本当に苦手だったので、そのたびに疲れたり、いろんなものを手放したくなったりしていたのですが、弟の引越のタイミングでは、「自分で舵を切らなくても新しいことを知れるって、なんかいいな」って思えていた気がします。
やっぱり自分の選択と意思だけで辿り着く場所には限界があって、いつも新しい世界を広げてくれるのは、外からの影響と、思いがけない日々の始まりなんだと思います。
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そういえば先日、自分のnoteに「パラレルワールドに行きたい」と思った夜があったことについて書きました。(最近これを考えるのがマイブームです)
いろんな「もしも」のパターンがあるのなら、今、目の前にある出来事すべてに向き合うことは大変かもしれないけど、味わい尽くせるだけ味わい尽くしたい。
そんな想いを最近抱えていたからこそ、「去年だったから一緒に優勝を見届けられたけど、今年だったら一緒に見届けることはできなかったのか…」といった感じで、優勝のシーンが突然頭に浮かんできたのかもしれません。
長々とまとまりのないことを書いてしまいましたが、あれだけ受け止められなかった予想できなかった日々が今の私には魅力的なものに変わっていることに気付けて、少し驚いています。
さきさんには「もしもあのとき、ああじゃなかったら」「もしもあのときああなっていたら」と思うことってありますか?
私は今これを書いていて、真っ先に思ったのが「もしもあの日、金沢のライターの集いに参加していなかったら、私はさきさんに確実に出会っていなかっただろうな」でした。
▶次回更新:2024年11月中(担当_さき)