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2. オペラの演出の楽しみ方

オペラを楽しむには、何から始めるのがよいだろう?まずはあらすじを知ることが重要だと多くの入門書には書いてあるし、私もそうしてきたけれども、ではなぜ、あらすじを知る必要があるのだろう。

以前、同じ演目を何度も見る理由について考えていた。

東京で上演されるオペラの広告チラシを見ていると、見覚えのあるタイトルが並ぶ。人気の高い演目は別の劇場で同じ年に複数回上演されることもあるくらいで、レパートリーはある程度限られているようだ。もちろん上演回数の少ない貴重な公演(コロナで吹っ飛んだシッラ!!!(´;ω;`))もあるが、一度鑑賞したことのある演目を再度観ることはオペラ好きにとってあまり珍しいことではない。また、海外公演などは本当にチケット料金が高いので、ある程度メジャーで人気の高い演目の方が客席を埋めやすいという背景もあるのかもしれない。(好みかどうかもわからない未知の作品に大枚はたくよりは、オーソドックスでわかりやすい演目を楽しみたいという気持ち、よくわかる。)

ただ、物語を追う、という観点から言うと、不思議なことかもしれない。ストーリーやラストは知っているわけだから、ひょっとしたら、なぜ同じ小説を二度読むの?と同じ感覚で、ドキドキ感なくならない?と素朴な疑問を持つ方もいるのでは。

でも、オペラを鑑賞する際は、あくまで既知のラストだからこそ、そこに至る「過程」を楽しめるのではないのだろうか、と私は思う。

録画映像ではなく生の舞台を想定して、客席に座っている自分を想像してみよう。観客(自分)を前に歌手やオーケストラは、作品を表現するわけだが、その舞台はその日その場所にしか存在せず、リアルタイムで進行していく。

歌手らの表現するものが何か、その物語自体を知っておかないと、なかなか舞台の進むスピードについていくことも難しい。字幕を追って舞台の目立つものに目を奪われていたら、音楽にあまり意識が向かなかった…ということになってはちょっともったいない。だからこそ、あらすじを頭に入れておくのは大事!というわけだ。(さらに言えば、ここが聴きどころ!この時の〇〇の歌に注目だよ!というのも予習しておくとよいのだけれど、それについてはまた別の記事で。)

では、あらすじを知っておくという前提に立ったうえで、「過程を楽しむ」という先ほどの話に戻ると、これはまさに、舞台の作り手がどのように作曲家の表現を解釈したのか、という話になる。同じ作品でも、公演ごとに違いが生まれるのは、その解釈の違い、つまり「演出」の違いによるものが大きい。

ということで前段が長くなったけれども、オペラを楽しもうマガジン、初回のテーマは、演出について。

演出とは、誰が決めるもの?

演出家が、映画やドラマの撮影あるいは演劇の上演に欠かせない存在であるように、オペラでも公演ごとに演出家がつき、その演出の方針に舞台全体が従う。衣装や大道具、小道具はもちろん、指揮もオーケストラの演奏も、歌手の歌と演技、合唱団も含めた全体だ。

そのため、歌手や指揮者、オーケストラが違えば公演の内容は別物だけれど、仮にそれらが全く同じ布陣で同じ演目だったとしても、演出家が変わればがらっと様変わりする。そんな比較ができるのならば一度味わってみたい。

また、同じ劇場・主催団体が何年も前の演出(プロダクション)を繰り返し上演することも多い。それこそ、ある劇場から生まれたプロダクションはその劇場のレパートリーとなり、財産として貸し借りの対象にもなる。だから、日本で上演されるオペラの中には、海外の劇場で何年も前に作られた舞台を、その演出方針に基づき同じ舞台装置や衣装を用いて指揮者や歌手らを替えて上演するものもある。他には、例えば「ミラノ・スカラ座来日公演!」とチラシに大きく書かれるように、スカラ座のプロダクションを人と物ごとそっくりそのまま国内に引っ越しさせて上演する場合もある。基本的にこの場合のチケットが最も高い。(この辺りの上演形式の違いについての話は、詳しく書くと長くなるので今度別の記事に。)

演出の読み解き方とは…

演出の重要性を認識したところで、どのように私たちは演出を読み解くことができるのか、という大きくて難しい問いを掲げてみよう。

オペラは、歌と音楽と演技で表現する芸術であるから、「作品の作り手が表現したいものとは」「それをどのように表現できるのか」、この両方について演出家が台本と楽譜を手がかりに方向性つまり解釈を提示しているというのが私の理解。

演劇における戯曲と同じように、台本や楽譜は手がかりにはなるものの、オペラの一場面一場面における作曲家の意図が明確に書かれている訳ではない。そのため解釈の幅は広い。演出家の読み取った登場人物の性格や振る舞いは、公演ごとに少しずつ違いがあり、目に見える・聴こえてくる演技の端々にも現れている。以前見たテノール歌手(今世界中で人気のテノール歌手、ヨナス・カウフマン)の密着ドキュメンタリーでは、ハンカチの落とし方ひとつ取ってみても演出家のこだわりがあることを知った。***1 **

そうした細部の意味づけを意識すると、オペラ鑑賞とは「観客が、ある既定の物語を追う」受け身の活動というよりも、「観客が、提示される物語の解釈を読み取り、考えながら進む」能動的なものだというように私には思えてきた。

生の舞台で拍手や笑いやリアクションが出るのは、観客がこの意味づけに追いついて舞台の作り手と一体化しているから。そう考えると劇場で鑑賞する機会は、貴重かつ一瞬も気を抜けない高度な戦い(?)の場なのだ。

だからこそ、繰り返しになるが、よりじっくりと結末(必ずしもラストだけではなく、要所にある聴かせどころや物語の転機)に至るまでの過程を味わうためにも、あらすじを先に読んでおき流れを知ることが大事だと痛感する。初見でストーリーも知らないとなると、なかなか公演中に考える余裕も出てこない。私もオペラを見始めた頃は、話を頭に入れていなかったので字幕を追うのに精一杯だった。もったいない…

そんな風に解釈できるのか!その音楽はそのためにあったのか!と、深く考えたくなるような演出に気づいた時、その作品は一層観客の心に訴えてきて、その人の思考のかけらとなるのではないだろうか。まだ全然深く聴けていないけれども、 私はそういった気づきを追い求めて集中力と戦っている(?)ように思う。

では、次の章から、演出が印象的だった公演の感想を書いていく。

《チェネレントラ》「 新聞批評はこういうけれども。笑いの取り方とは。」

たとえば、ロッシーニの作曲した「チェネレントラ」という作品。これは有名なシンデレラ(元々のグリム童話の題名は「灰かぶり(=チェネレントラ)」)の童話を元にした作品なので、基本的なストーリーを知らないという観客はほぼいないはず。あらすじを読めば、最後にチェネレントラ(シンデレラ)が意地悪な継子たちと父親を「赦し」「王座に着く」ということを知った上で舞台を鑑賞するわけで、物語の展開に驚きはない。(もっとも、シンデレラ童話のままだと思って見ていたら、最後に彼女が「みんな許すわ〜」なんて歌っているのを聴いて、寛容すぎて、へ?となるかも。)

私が聴いたのは、ライブビューアンコール上映のメトロポリタン歌劇場2014年公演。これはとにかく歌唱がよい!私の耳を信用できるかはともかく、主役のジョイス・ディドナート(チェネレントラ役メゾソプラノ)とフアン・ディエゴ・フローレス(王子役テノール)は最高のロッシーニ(早口コミカル軽快感)歌いだと思う。さらに、この作品に欠かせないバスはもちろん、主要歌手の技量にも隙がないのである。。

さて本題の本公演の演出はというと、チェーザレ・リエーヴィによるもので、メト初演は1997年。インテリアや服装からわかるように1930年代に舞台を移したプロダクションで、このように設定を20世紀に移すのはよくあることだ。

しかしこの演出、調べてみたらNew York Timesの劇評でまあこき下ろされている。歌手は称賛されているけれども、初演2014年も演出はいまいちの評価。新聞の舞台評は広告ではないのだから、第三者として批評するのは当然として、その内容は興味深い。辛口コメントの出た舞台を鑑賞した時こそ自分の感想を考える良い機会!ではないだろうか。自分はその舞台をどう評価したのか、良い悪いがよくわからなくとも、他人のコメントに対して全面的に賛成なのか、一部同意しかねるところがあるのか、など自分の感じ方を深掘りするには、他者のコメントはどんどん活用していくべし。舞台評がうまく見つからなければ、ツイッターで検索するのもおすすめ。オペラについて語る語彙力をそうやって増やしていきたいと私は思っている。

批評記事を読んでみると、どうやら人物のメイクや佇まいからしてシュルレアリスム的で、いかにもマグリットの絵のようだという。あ〜黒の山高帽を被った顔のない男たち!舞台を振り返ってみると、マグリットの影響は随所に見られ、山高帽を被ったスーツの男たちが群になって王子の家来として現れるシーン(山高帽の男たちが雨のように空に浮遊?落下?しているマグリットの絵を彷彿させる)、壁に現れる大きな額縁と傷跡、押し入れの中にごちゃごちゃ納まった時計、などなど。

童話のメルヘンな世界観をシュルレアリスムと重ねるのが今回の演出のようだ。ちなみに舞台設定の1930年代といえばマグリットの制作期間とも合致する。次にマグリットの絵を見るときには、この公演のことを念頭に考えるとまた発見がありそうだ。

ロッシーニ演出の好みが分かれるとすれば、ドタバタ喜劇の笑いをどう表現するのかという問題ではないかと私は思った。 笑いのセンスがずれると、観客はスベっているように感じたり、作曲家の意図を無視したものだと捉えたりする。

この演出は、全体的に目で見てすぐわかるギャグが多い。それこそ、急に始まる椅子取りゲーム(1人多い!)やスパゲティ戦争(食卓でトマトソースのスパゲティをかけあう)は音楽を忘れてしまいそうなくらいの視覚的なギャグで笑いを取りにいくもの。NYTの批評家からすれば、後者なんて、娘を王子に売り込む父親の態度として意味不明だと白けてしまったのかもしれない。一方で、全力でおかしなことをしている様は、YouTuberのようで面白いと感じる人もいるのではないかと今の私は思う。オペラ、目で楽しめるし笑えるじゃん!と敷居が低くなるような印象だった。

記事内で言及されていないけれども、がんじがらめになっている状態(これこそロッシーニのテーマ)を歌う歌手たちが一列に並び、紐を巻きつけられて文字通り身動きが取れないように見せるのは、アリだと私は思った。ロッシーニの喜劇の面白さは、まさにこの「登場人物たちが状況を理解できず困惑し」「身動きがとれない」様を歌で表現するところにあるのではないだろうか。(これはセビリャの理髪師にも通じる話。)登場人物らとは違って状況を理解できる観客は、「あはは。やっぱり仰天してる!」と安心しながら笑える。そこの乖離がコメディの醍醐味だろうから、その笑いを無視した本筋とはずれたギャグならつまらないけれども、音楽のテーマに沿っている限り、良い演出だと私には思える。

ちなみに、笑いとユーモアは文化的な違いも大きいので、海外の演出を日本に持ってきた時に伝わりづらいこともある。字幕で伝えきれないことも多い。割と容易にウケを狙えるのが、視覚的なギャグと、ローカルネタとして日本語の言葉を歌手に喋らせるというもの。ただ、文脈を無視してカタコト挟むのを何回も繰り返されると個人的には飽きてくる。。

《フィデリオ》「そんな解釈あり?何が「読み替え」なのか。」

次に紹介するのは、ラストシーンでがらっと観客の予想を裏切る演出。

2018年年5月に新国立劇場で上演された、ベートーヴェンが生涯で唯一手がけたオペラ「フィデリオ」。カタリーナ・ワーグナー(作曲家ワーグナーのひ孫)の演出だった。これは日本での新制作、つまり、彼女の演出が初めて世に出たのが東京だったということ。東京の観客ばんざい!

「フィデリオ」(別名「レオノーレ」)は、政治犯と見なされ不当に投獄されている夫を男装した妻が救出する劇で、「救出オペラ」というジャンルに属する作品。音楽的には、序曲が有名だろうか。

※もしも同じ制作を今後鑑賞するかもしれず、演出のネタバレごめん!という方がおられたら、次の章に移っていただければと思う。

今回、演出家は大胆にも結末をハッピーエンドからバッドエンドに変えている。幕が下りた後、カーテンコールを終えた後、の客席にはざわついた雰囲気が漂っていた。

従来の終わり方は、「夫婦は再会し、夫の旧友である大臣が現れて圧政者を罰し、政治犯らを解放する。レオノーレを称え、自らの自由と解放を歓喜する囚人と民衆の合唱で終わる」ものである。

しかし本公演では、最後に結末を導くために現れるはずの大臣、レオノーレ側に立つはずの権力者(「機械仕掛けの神」とも舞台芸術の世界で呼ばれる、結末を作り出す人)は圧政者に騙され、夫婦は殺され、全員解放されずに終わる…自由など存在しなかったのだ!!…という結末になっているのだ。

私の第一印象といえば、この演出は大分勝手すぎないか?ベートーヴェンは正義と自由を称えるオペラを作りたかったのではないか?と戸惑った。素晴らしいと評価する幾つかの批評や感想(批判するものもあった)を読みながら、これは「読み替え」(否定的な表現をすると、作曲家の意図を無視して演出家のメッセージを表現する上演。時代設定を近現代に移し現代の社会問題に照らし合わせることが多い。)演出ではないかと、評価できなかった。

現代のオペラ上映に際し、観客が求めるものは、作曲家・脚本家の初演当時の意図をそのまま再現することなのか、それとも現代に上演した場合に彼らが意図したであろうものを再現することなのか。その認識の違いで「読み替え」の定義や抵抗感は大きく変わるのだろうと思う。

私の今の考えでいえば、現代の観客が19世紀前期の観客になりきれるわけもなく、現代の諸問題について考える上でオペラから学ぶことは多いという前提に立ったうえで、音楽が伝えるものを尊重した演出を期待している。そうでなければ、演出家は別の作品として制作するべきではないかと思うのだ。いくら音楽がそれ自体言葉を持たない、意味の開かれたものだとしても、オペラには台本がつくし、特定のメロディーが特定のものと結びつく例も少なくない。明らかに歌詞の意味とずれているのでは、どれだけ斬新で鋭い問題提起があったとしても、読み替えだと私は思う。

しかし、カタリーナ・ワーグナーも、当然、単に目新しい演出を生み出したかったというわけではない。この公演には、ドラマトゥルクという、演出家とは違った立場から舞台作りのための意見交換やアドバイスを行うコンサルのような存在が関わっており、ワーグナーとの協働経験もあるダニエル・ウェーバーがその役割を果たした。公演パンフレットに掲載されている、彼のプロダクションノートからは、本公演の解釈の背景としての問題提起「もしも独裁者が解放者になりすましていたら…」が抽象的な表現で示唆されている。

さらに、この作品が生まれた19世紀初期の歴史的背景も考えてみよう。当時のヨーロッパ社会といえば、フランス革命に代表されるように旧体制は崩れ去ったが、革命は迷走し、ナポレオンの登場とともに戦争の時期へと突入していく渦中にある。

そういった世相を考慮すると、権力に抗っても無力で、自由など存在しないのだという絶望で終わる演出は、本来登場していた「機械仕掛けの神」など現実には存在せず、人権を無視した権力者などどこにでもいるのだという強烈なメッセージを残すことで、作品が世に出た時代と合っているともいえよう。

もっとも、今は権力者側でも明日には体制が変わり政治犯として虐げられる側になるかもしれない…という当時の実状、とはかけ離れていようと、理想像としての自由を希求する作品こそ観客に望まれていたのではないかと私には思えたのだが。

いずれにせよ、現実味のある結末にしたからこそ、現代の諸問題を見つめるきっかけになることは否定できない。私は、「アラブの春」を思い出した。もう10年近く前だが、アラブ諸国で一斉に民主化運動が広がり、長期独裁政権が倒れた。チュニジア、シリア、エジプト、リビア、その他の国々で体制は大きく変わり、市民の政治参加、民主化の広がり、市民の運動が非暴力的にSNSによって促進されたことから、希望の象徴として特に英米メディアでは好意的に受け止められていた。フィデリオのフィナーレが鳴り響く。

しかし、それから10年で、生まれた政権は不安定で内戦が勃発、イスラム国が生まれ、当然のように旧宗主国だった英仏やアメリカが介入した。正直「春」以前よりも混乱を極めている。フィデリオの政治犯たちが解放されるときの歓喜の合唱が中東の市民の歓声に、大臣が欧米に重なるように私には見えた。突如現れる大臣による救済は、レオノーレと夫フロランタンの立場からすれば必然で正義だが、それほどの力を持つ者が今後自分と同じ方向をずっと向き続ける保証はない。今手にした新しい自由は、果たして自らの手で得たものなのか。そうでなければ、いったい誰がもたらしたものなのだろう。それを信じてよいのだろうか。カタリーナ・ワーグナーとダニエル・ウェーバーの演出を受けて、絶対的な正義、道徳観の逆転などがいかに危ういものかと考え始めた。

もはや読み替えの新しい可能性まで考え出すと、フロランタンを幽閉していたドン・ピツァロがフロランタンになりすまして大臣を騙す演出は、群衆や囚人が喜び、レオノーレたちが解放されて喜んだところで、、実は大臣も裏でドン・ピツァロと手を結んでいたのだった、という一層無情な仕打ちで終わらせることもできたかもしれない。どの時点でユートピアの幻想に気づくが最も残酷なのだろう。

また、今まで言及しなかったがこの物語のキーパーソンである看守とその娘についても、独裁の無力な被害者としての描かれ方には興味が惹かれる。看守という立場が現代社会で象徴するものとは?

このようなことを考えていると、読み替え的な演出も示唆に富んでいて、音楽を楽しめないこともないよな…と思えてきた。むしろオペラを活性化しているのかもしれない。上演形式(演奏会形式であれば演出は関係ない?)に絡めて、しばらく寝かせてからまたこの問題を扱ってみたい。

ちなみに、"Eyes wide shut"というニコール・キッドマンとブラッド・ピットが出演する映画がある*2。その中の秘密の仮面会で用いられる合言葉が「フィデリオ」。あのベートーヴェンのオペラだよね?と劇中でも言及されている*3

偶然にもオペラ《フィデリオ》鑑賞の少し前に、この映画を家で見ていた私は、なぜこの場面で「忠実」を意味するキーワード、オペラのタイトルが使われたのだろう…とぼんやりと頭の片隅に残したままこのオペラの鑑賞に臨んだ。夫が秘密組織に関わり窮地に立たされた後に、「夫婦愛が全て解決するのよ」という妻のシンプルなメッセージを伝えて何事もなかったかのように終わるこの映画は、ベートーヴェンのオペラで最後に登場する「機械仕掛けの神」を妻のポジションに当てているのではないかとオペラ鑑賞後に考えた。

おわりに

それにしても、同じ公演を鑑賞しているとも限らない、むしろ、基本的にそうでない方向けのオペラ鑑賞の入り口となる文章を目指している書き手からすると、特定の公演について紹介し描写する難しさをひしひしと実感する。

この記事では、あらすじの重要性から始めて、演出から考えられることの一例として、チェーザレ・レーヴィの《チェネレントラ》とカタリーナ・ワーグナーの《フィデリオ》を例に挙げた。これから先の記事では、こうして特定の公演について語るのだけではなく、他の切り口(歴史的背景・作曲家・原作・オケ・舞台装置・踊り…エトセトラ)からも作品を語っていきたいと思う。

*1:「トスカ」に出てくるハンカチを落とすシーンを演出家と歌手が何度も練習していた。(トスカはお気に入りなので度々マガジンに登場させる予定。)
*2: この映画は主役2人が実生活でも夫婦だった期間に撮影されたこと、さらにキューブリック監督の遺作ということでも話題を集めた。原作は、フロイトの友人シュニッツラーの『夢小説』の表題作で、岩波文庫で読める。 幻想的だけれども抽象度は低めで、同時代のホフマンよりも個人的には好き。
*3: ちなみに、原作の合言葉は「デンマーク」だった。

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