【長編小説】『月は、ずっと見守っていた』第5章「解放の日」
前回のあらすじ
七海はJupiterで、酔った勢いで『変わった客』と親しくなり、デュエットや遊び心で距離を縮める。しかし、彼との間に芽生える感情が不安と混ざり合い、心の中で葛藤を抱える。酔いが覚めた後、記憶が曖昧なことに気づき、自己反省。『変わった客』との微妙な距離感が次第に近づいていくことを感じつつ、彼女はその先に何が待っているのかをまだ知らなかった。
第5章 解放の日
2月の始め、ついに離婚が成立した。裁判所を後にする足取りは、長い苦痛から解放されたような安堵感に満ちていた。
先を歩く弁護士の背中に「長い間お世話になり、有難うございました。」とお辞儀をしながら七海が伝えると、弁護士は柔らかい笑みを浮かべながら振り返った。「やっと一つの区切りがつきましたね。ただ、まだ気を抜かないでください。お子さんたちの養子縁組離縁が成立するまでは、気をつけてください。」と忠告した。
七海は頷いた。その瞬間、夫の冷酷な声が耳に蘇った。「お前なんか、俺がいなければ何もできないだろう」と。以前は、その言葉が響くたびに、彼女の身体は硬直し、心臓は早鐘を打ちパニック発作に襲われていた。
しかし、今の彼女はすぐさま「あの人との縁は今日で終わり、もう大丈夫、全ては過去!」と自分に言い聞かせるように自分を抱き、落ち着かせることができた。
弁護士は、何度も彼女のフラッシュバックの発作を見てきた。「七海さんも強くなりましたね。これからは自分の人生を楽しんでくださいね。」と優しい眼差しで励ましたあと、スッと背筋が伸びた後ろ姿を見せながら去って行った。
その後ろ姿を見送った後、七海は澄み切った青空を見上げ、心の中で『空ってこんなに青かったんだ』と呟いた。
周囲の人々が楽しげに笑い合う声が耳に入り、何年ぶりかに深く呼吸をした。身体中に新鮮な空気が流れ込むように感じ、心の底から安堵が広がり、まるで重石が取り払われるようだった。
今日からは、罵倒されることも、追いかけられることもない。いつ現れるか分からない影に怯えることもなくなる。はやる気持ちを抑えながら、帰る途中、役所に赴き離婚の手続きと一緒に、本人確認書類を旧姓の「伊藤」に書き換えた。
交付された書類を、大事な宝物のようにバッグにしまって、いつもよりカッカッと胸を張って、少し歩幅を広く歩いた。
帰宅し、自宅で寛ぎながら、手元の書き換えられた本人確認を見つめる。たかが姓の書き換えだが、これで、あちらと法的に無関係になった。
この事実に、長い間感じていた緊張感が和らいでいく安心感が広がった。
ホッとした心持ちで、彼女はベランダに立った。雲に隠れた月の光を柔らかく感じながら、紺碧の空を見上げる。『やっと、終わった』と肩が徐々に軽くなっていくのを感じていた。
すると、雲が流れ待宵の月が顔を出した。その光が、まるで彼女の身体中に巻き付いた鎖を解き放つように強く照らした。月が『大丈夫!これからよ』と優しくささやくように、彼女は清々しい顔で微笑んでいた。
To be continued
次回配信予定日は、12月6日(金)
次回予告:次回 第6章「再・酔狂」では、離婚が成立し気分を一新した七海は、今日は自分へのご褒美にと「kickback」に訪れる。常連客たちにからかわれつつも、次第に酔いが回り、酔狂な行動をしてしまうことになる。彼女は「蒼空」と呼ばれるもう一人の自分が出現させて煙に巻こうとしたが、そのせいで噂が広がる。その後、再び「Jupiter」で自分の酔態を見せてしまい、聖子ちゃんが撮影した動画を見せられ、恥ずかしさで満ちた彼女は自分の行動を振り返ることになる。
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