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【長編小説】『月は、ずっと見守っていた』第6章「ふたたび酔狂」

前回のあらすじ
2月初め、七海はついに離婚が成立し、解放された気持ちを抱えている。長い苦しみが終わりを告げ、彼女は一歩一歩新しい人生に向かって歩き始める。弁護士の言葉に背中を押され、過去の夫との縁が完全に切れることを実感し、旧姓に戻した本人確認書類を手にして心から安堵する。夜、ベランダから月を見上げ、重荷が解ける感覚に包まれながら「これからよ」と新たな希望を胸に抱く。

第6章 ふたたび酔狂

七海は先日の酔狂を猛省し、テンションが上がっている時ほど飲まないように決めていた。
だが、離婚が成立し解放感に満ちた今、頑張った自分に『ちょっとしたご褒美』をしたくて、上機嫌でkickbackに足を運んだ。

暖簾をくぐると、すでに安定の常連客たちが先に来ていた。先日のJupiterでの酔狂のことは、ほとんどの常連客が知っている。
「七海ちゃん、酔った勢いで男を襲ったんだって~」とニンマリとしてからかうが、彼女は酔ったことすら記憶にないため、何を言われても仕方ないと諦め、軽くかわしていた。
しかし、うやむやにするほどしつこく言われ、面倒になった七海は、「それは私じゃない、もう一人の私の蒼空(そら)がしでかしたことだわ!」と言い放った。その瞬間、逆に笑いが起き、元の木阿弥となってしまった。

それ以来、七海に「今は七海ちゃん?蒼空ちゃん?」と聞かれるのが定番になり、中にはわざと酔わせて蒼空を出現させようという輩もいた。
七海は、『人の噂も七十五日』と、この時期が早く過ぎ去ることを願いながら、なるべく静かに過ごしていた。

今日も例に漏れず、常連客たちからお約束のようにからかわれ、適当に相手をしてから、いつもの席に座った。

「今日だけは静かに呑めますように」と心の中で祈りながら。

その時、ま~ちゃんが七海の隣に来て「今日はなにか良いことあった?」とにこやかに聞く。
七海は思わず笑みがこぼれ、抑えきれずに顔がほころぶ。
心の中で『ついに解放されたんだ!』と思いながら、「今日というか、やっと、離婚成立でした!」と答えると、ま~ちゃんは「おお、長かったね~、それなら今日は思いっきりお祝いしなきゃね!」と目をキラキラさせて言った。

離婚で「おめでとう」と言われるのも妙な感じだが、めでたいのは事実なので、気持ちを受け取った。
響のロックを頼むとま~ちゃんが「ちょっと待っててね、肴はこちらで見繕うから」と言い残し、カウンターの向こうに行った。
ま~ちゃんと楽しいやり取りをした後、七海はぼんやりと店のチラシを眺めながら、この数年『離婚』のことばかり考えていた自分を振り返る。
改めて、これからは新しいテーマを見つけて生きようと思い、運ばれたロックを一口含む。

舌にジーンと染みてくるその感覚は、生きている実感を与えてくれる。
他愛のないことでも嬉しく感じてしまうのは、自由の身になったからだ。

ふと、店の戸が開き、新しい客が店内に入ってきた。ま~ちゃんの「いらっしゃいませ~」の声に振り向くと、先日の英語講師と『変わった客』、そして女性客の聖子(しょうこ)ちゃんがいた。

七海は心の中で『ナニ?今このタイミング!?』と思いながらも、何事もなかったかのように挨拶を交わした。

三人連れだと思ったが、聖子ちゃんだけは単独だったらしい。「七海さん、隣いいですか?」と聞いてきた。
何か良からぬことがないか心配になりながらも、笑顔の可愛い彼女を無碍にできず、「どうぞ」と少しスペースを譲った。

聖子ちゃんは鞄を置き、にっこりと笑うと、目を輝かせながらこう言った。「七海さんの蒼空ちゃん変化(へんげ)のこと、話題になっていますよ~」と。
七海は『やっぱり…仕方ないか…』と半ば諦め、話を合わせた。
最初は斜に構えていたが、そのうち、聖子ちゃんと話が弾み、調子が上がっていった。

すると、聖子ちゃんが「実は高橋さんのこと気になっているのかな~?」と尋ねてきたが、七海は『高橋さんて?誰?』と思いながら「昔付き合っていた人に似ているから、懐かしいだけよ」とうっかり口が滑ってしまった。

なんとか鎮静化しようと思っていたが、この発言が、逆に焚きつけてしまう結果になってしまった。

丁度いいタイミングで、「七海さん、今日はピッチが速いよ~」とお冷をカウンターから渡してくれた。

しばらくして、七海は、Jupiterのママが「大丈夫?」と心配そうに声をかけるのが、遠くからぼんやりと聞こえてきた。
その声が次第にハッキリし、朦朧とした意識が戻り始める。
気がつくと、自分がJupiterの店内に座っていた、驚いて椅子から立ち上がろうとした反動で、派手な音を立てて椅子がひっくり返る。その音に動揺しながら周囲を見回すと、先ほどの男性客二人と聖子ちゃんがいる。
右側にいた聖子ちゃんが椅子を戻しながら「今日は七海さん、しっかりしていたから、Jupiterに誘って、4人で来たんですよ」と、信じられないといった表情で言った。

その瞬間、七海は、自分がどこで何をしていたのか、まるで記憶が途切れたことに気付く。
左側に座っている『変わった客』の理解不能な表情を見て、再び蒼空が現れたことを理解した。
その狼狽ぶりを見ていた三人とママは、驚きの表情を浮かべて彼女を見つめていた。
聖子ちゃんが「どこから記憶がないの?」と尋ねるので、七海はしばらく考えた後「kickbackの後半かな…」と答えた。
すると、周りから「嘘でしょう~」とため息交じりに驚きの声が上がった。

聖子ちゃんが続けて説明を加えた。「kickbackから4人でJupiterに移動して、七海さん、どこでスイッチが入ったのか分からないけれど、急にテンションが高くなって、前回と同じように高橋さんに絡み始めたらしいんですよ。
高橋さんは相変わらず冷静に対応してましたけど、皆は『これが噂の蒼空の酔狂か?(笑)』って、七海さんがワザとやっていると思ってニヤニヤしてたみたいです。」

その後、しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。
沈黙を破ったのは聖子ちゃんの言葉だった。「七海さん、蒼空ちゃんのこと、ちゃんと動画撮っていますよ!」と、確かな証拠を手に入れたと自信満々の彼女がスマホを手渡した。七海は、恐る恐るスマホの画面に目を落とした。映し出されていたのは、まさに自分、いや、別人のように振舞う自分の姿だった。

七海は「これ、私?」と自問自答しながらも、自分に対する怒りと恥ずかしさで、思わず顔が熱くなり、体が震えた。
酔狂とはいえ、こうも自分の意識が無いのには情けないやら呆れるやら、もう笑って済まされる次元ではないと痛感する。

その思いが突如、喉に詰まり、七海は激しく咳き込み始めた。
聖子ちゃんは慌てて背中をさすりながら、「大丈夫?」と優しく声をかける。その言葉も、七海の耳には遠く響くようだったが、身体の震えを感じながら必死に呼吸を整えようとした。

七海の様子を見守る三人とママは、顔を見合わせながら、どうするべきかを考えていた。そのうち「今宵は、この話題に触れてはいけない」という共通認識が生まれ、何事もなかったかのようにお開きとなった。
七海は『変わった客』にお詫びもそこそこに、逃げるように店を去った。

七海は、「もう、どうしてこんなことに…」と思いながら、なかなか治まらない咳を止めるためにコンビニで温かいお茶を買った。一口含んだ途端、また咳き込みが始まった。
鼻から出そうになるのを必死にこらえ、鼻の奥がツーンとして涙目になった。
ハンカチを取り出しながら『もう、踏んだり蹴ったりだわ、禁酒必須ね…』と思いながら、家路を急いだ。

その様子を、『アラアラ、困ったわね~』という表情のハーフムーンが静かに見守っていた。

                        To be continued


次回配信予定日は、12月14日(土)

次回予告:次回 第7章「四月の病」
七海は喘息の発作に苦しみ、病院で安静を指示される。忙しい日々で無理を続けてきたが、体調の不調に直面し、娘たちが心配して駆けつける。禁煙・栄養管理を助けられ、七海は家族の温かさに触れ、改めて自分の生活を見つめ直す。自由になった今、新たなスタートを決意する。
  

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