【長編小説】『月は、ずっと見守っていた』第4章「微妙な距離」
前回のあらすじ
七海は、長きにわたる離婚協議が終局に向かっていた。夫の身勝手な行動が証拠となり、離婚が現実のものとなりつつあった。彼女は解放感とともに、これからの新しい生活に対する期待と不安を抱えていた。そんな中、Jupiterで過ごす夜は、久しぶりに心からリラックスした時間となり、彼女にとって少しずつ心の余裕を取り戻す大切なひとときとなっていた。
第4章: 微妙な距離
今宵、アクシデントが起こる約1時間前、Jupiterの扉が開き、二人連れの男性が入ってきた。
あのニコニコした『不思議な客』と、初めて見る男性だった。七海は『不思議な客』の顔に誰かの面影を感じたが、『誰だったかな?』と、酔った頭では記憶も曖昧で、それ以上考えるのはやめた。
二人連れは、席に案内されママさんと少し話した後、カラオケを歌い始める。
男性客は流暢な英語で、外国人アーティストの歌を歌い上げた。洋楽好きな七海は、心が躍り、歌い終わった男性客に、
彼女は屈託のない笑顔で「とてもきれいな発音ですね。何かその方面の仕事をされているのですか?」と尋ねた。
すると彼は少し照れたように「ええ、大学で英語の講師をしています」と答えた。
すかさず彼女は「もしよければ、『Beauty And The Beast(美女と野獣)』をデュエットしていただけませんか?」とノーと言わせない勢いでお願いした。
男性客は「いいですよ、でもデュエットはあまり経験がないので、どうなるか楽しみですね」と言いながら、デンモクに入力した。
洋楽のデュエットの機会に恵まれなかった彼女は、数曲歌い続けるうちに高揚感を覚え、上機嫌で「あなたは歌わないの?」と『不思議な客』に尋ねた。
すると彼は照れ笑いを浮かべ、「洋楽はあまり知らないんですよ」と言い、80年代のアイドルの曲を歌い始めた。
その声は時に力強く、時に柔らかく、懐かしさを呼び起こすものだった。
彼はちゃっかりと、彼女たちが歌っている間に、数曲を予約していた。まるで、ちょっとしたワンマンショーのようだった。
ただ、そのメドレーの中で、彼女が気になる曲が一つあった。
「僕が愛を信じても きっといなくなるんだろ?
それなら要らない 哀しすぎるから
さようならさえも上手く言えなそうだから
手を振るかわりに抱きしめてみたよ」
そのフレーズで、『不思議な客』の声のトーンが一瞬変わったように感じ、歌詞が深く心に響いた。彼女は若いころの失恋を連想し、切なさが胸に広がった。
エンディングが近づくと、
彼女に何かがスイッチが入ったかのように、『不思議な客』の膝に向き合うように滑り込んだ。
いたずらっぽい輝きを宿した『不思議な客』の瞳は、彼女の心臓を高鳴らせた。
まるで過去から呼びかける声が「おいで」と囁いているかのようだった。しかし、その声の正体を掴むことはできず、胸の中には不安が広がった。
ただ、心の奥には大切な記憶が眠っている感触があった。
さらに彼の首に手を回し、「ねぇ、キスしてくれない?」と甘えるように言った。
その場にいたママや男性客は驚き、固唾をのんで見守った。彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい微笑みを浮かべ、彼女を見つめ返した。
その瞬間、彼女の心は少し弾んだ。
彼の表情に、七海は心の奥で何かが温かくなるのを感じた。
しかし、、彼は何事も無かったかのように微笑みながら、再び歌い始めた。ママをはじめ他の客たちは心配そうに彼らの様子を見守っていたが、二人の間には旧知の仲のような親しみが漂っていた。
一頻り戯れ、満足したのか七海は曲が終わると「あ〜楽しかった」と何事もなかったかのように膝から降り、「ママ、ご馳走様」と勘定を済ませ、振り向きもせずに店を後にした。
残されたママやその場にいた人たちは、一瞬呆気に取られ、「今のは何だったのか?」と微妙な空気が漂った。
ママは七海のことを気遣い、「ごめんなさいね、七海ちゃんは今、いろんな問題が片付いてホッとしたところだったのよ」と男性客たちに言った。
去って行く彼女の後ろ姿を『不思議な客』は見送り、先ほどの酔狂を思い返しながら苦笑いなのか微笑んでいた。
後日、kickbackに行くと、Jupiterのママが彼女の酔狂のことを話してくれたが、七海は身に覚えがなく「本当に私だった?誰かの間違いじゃないよね?」と何度も聞いた。ママもその忘れっぷりに半ばあきれ顔だった。
帰り道、歩きながら月を見上げ「もう私、お酒を飲むのは止めようかしら?」と呟く。
これまでの人生、そんな絡み方をしたことのない七海が『不思議な客』に絡んだのは、酔った勢いと片づけられるとしても、あの時感じた、心のトキメキはなんだったのか?とどんなに考えて分からなかった。
黄色く光る月は、その様子を『こまったわね』という表情で、彼女を見ていた。
こうして、彼女と『不思議な客』の距離がジワリジワリと近づき、この後の運命に思いもかけない事が起ころうとは七海も予想できなかった。
To be continued
次回配信予定日は、11月29日(金)
内容予告:次回 第5章 「解放の日」では、2月初め、七海はついに離婚が成立し、解放された気持ちを抱えている。長い苦しみが終わりを告げ、彼女は一歩一歩新しい人生に向かって歩き始める。弁護士の言葉に背中を押され、過去の夫との縁が完全に切れることを実感し、旧姓に戻した本人確認書類を手にして心から安堵する。夜、ベランダから月を見上げ、重荷が解ける感覚に包まれながら「これからよ」と新たな希望を胸に抱く。
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