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【長編小説】『月は、ずっと見守っていた』第13章: 「呼び覚まされた心」

前回までのあらすじ
七海は記憶を取り戻す過程で、親友・綾香との思い出を再確認。彼女との別れとその後の後悔に心を痛める。仕事に向かう合間に、過去の記憶をパソコンに整理し、綾香の死後の自分の心の変化を受け入れようとする。涙が流れる中、綾香が生前にくれた歌『Wind Beneath My Wings』を聴き、彼女の優しさを再認識。最後に、七海は風を感じながら、綾香が今も「そばにいる」と感じて前向きな気持ちを抱く。

早朝、窓を開けると、クマゼミの「ワシワシ」という鳴き声と共に、爽やかな風が部屋に流れ込んできた。

先日、綾香の記憶を回復したのをきっかけに、七海は日常生活の中で少しずつ自らの記憶を取り戻し始めていた。
以前のような激痛はないものの、時折キーンという音と共に軽い頭痛が襲い、さまざまな記憶が次々と蘇る。
その度に彼女はそれを『記憶の回復』と呼び、「あ~また来ましたか」と構えることなく、過去の自分に戻る感覚を味わっている。

だが、回復後は、激しい体力消耗を伴うため、最近では仕事の調整に頭を悩ませている。

ある日、自宅のデスクに資料を広げ、仕事に没頭していると、ふと本棚に目をやった。
隅の方に数冊が束になって置かれている手帳が見えた。七海は若い頃から、日記代わりにその日あったことを手帳に記していた。
だが、その手帳がいつのものなのか思い出せない。少しの不安を抱えつつ、「えっと、これいつのだっけ?」とつぶやきながら本棚に近づき、束から一冊を手に取った。

ページをめくると、それは元夫と暮らしていた時期の手帳だった。
混乱していた精神状態を反映するかのように、散文で支離滅裂な文字が並んでいる。その中に「プログラム言語の復習」という言葉が目に飛び込んできた。

その瞬間、キーンという音と共に頭痛が襲い、『記憶の回復』が始まった。

目の前に大きなスクリーンが現れ、オフィスで数人のスタッフと打ち合わせをしている25歳の七海が映し出される。

次の瞬間、モニターにはプログラムリストが表示され、彼女はコードを一心に入力していた。
「ああ、私はプログラマーをちゃんとやってたんだな」と、安堵の気持ちが胸に広がる。
その後、社内報を作成中の光景が映し出され、綾香が「七海は本当に文が上手ね、私が嫁ぐ時に、やっちゃん(彼氏)と私の物語を書いてね」と冗談交じりに言った。
その言葉が耳に残り、やがてスクリーンは静かに暗転していった。

気がつくと、七海は本棚の前に倒れていた。

頭をハッキリさせるように左右に振りながら立ち上がる。
ドラマで見たことがあるような、頭を振って気を取り戻す動作を、彼女は今、リアルで体験していた。

『記憶の回復』がある度に、今どちらの空間にいるのか?時空感覚が狂うのを感じる。こんな時、洵が話し相手になってくれたらと思うが、彼はいつも現実離れした話をまともに取り合ってくれない。

それどころか「七海さん、また再発したんじゃない?」と病人扱いするのが分かっているので、期待するのは諦めた。

そして、『記憶の回復』が終わると、今見たものを無心で叩くキー音が響く。
まるでプログラムを書くかのように、過去の記憶が文字になっていく。
それを眺めながら、彼女の中の空虚な部分が少しずつ埋まっていくような気がしていた。
それでも、心の中でふと「『記憶の回復』はどこまで続くのだろう?」という不安が芽生える。

数日後、七海は心療内科の定期受診に訪れた。婚姻期間中に躁うつ病を発症し、現在は再発防止の治療を受けている。
『記憶の回復』は嬉しいことだが、その度に疑念が浮かんでいた。これが本当に喜ばしいことなのか、それとも躁うつ病の幻覚ではないのか。
女医は静かに一部始終を聞き「記憶が回復するということは、今それを受け入れるだけのキャパができたということかもしれませんね」とにこやかに言った。

「先生、これは幻覚なのでしょうか?」と尋ねると、「話の辻褄が合うのなら幻覚ではありません」と言われ、七海はホッと胸をなでおろした。

また、『記憶の回復』で蘇ったものが再度消えることがあるかもしれないという不安を尋ねると、「消えるような記憶なら、さほど重要ではないということですよ」と言われ、それを聞いた七海は納得し、安心して病院を後にした。

その日、仕事帰りに七海の家に寄った洵が、キッチンに入ってきて、「お疲れ~、今日は七海さんの好きな物を持ってきたよ」とビニール袋を渡した。七海が「酒?」と聞くと、彼は少し怒ったような顔をして「もう!匂いで分からない?」と言った。

中身を確認しようとすると、ふわっと甘いタレの香ばしい匂いが漂い「鰻重」だと分かった。
突然、七海は吐き気をもよおしてトイレに駆け込んだ。
「えっ?」と洵は驚き、立ち尽くした。戻ってきた七海は「ごめんね、私、鰻が苦手になったみたい。
記憶が回復したら嗜好も変わったみたいで」と申し訳なさそうに言った。
洵は信じられないという表情を浮かべ、眉間にしわを寄せたが、すぐに気を取り直し「じゃあ、酒の好みも変わったの?」とニヤリとしながら尋ねた。七海は「それだけは変わらないみたい」と悪戯っぽく返した。

リビングで、二人前の鰻を食べ、晩酌を楽しんだ洵は、明日が休みということもあってそのままソファに横になり、うたた寝を始めた。
七海は洵の無垢な美しい寝顔を見ていると、疲れが癒されるような気がした。

そっと洵にブランケットをかけ、時計を見ると午後7時半。
夜はまだ早いが、残りの仕事を片付けるために静かに別室に入った。
最近、『記憶の回復』の入力作業が深夜まで及ぶことが多くなっていた。

翌朝、寝不足気味の七海がリビングにいる彼を見ると、彼の寝顔に柔らかな朝の陽ざしが差し込み、睫毛の先で光が遊んでいた。そのどこかで見たような横顔に、そっと触れた瞬間、キーンという音と共に激しい頭痛が七海を襲い「ううっ」と呻きながらその場に崩れ落ち、気が遠くなった。

目の前に広がった大きなスクリーンに次々とシーンが映し出されていく。飛行機のタラップを降りている場面で、微笑みながらこちらを振り向き、「ナーミ、こちらへ」と手を差し伸べる男性。
太いガッシリした腕にバックハグされて幸せそうに笑う七海、オレンジ色の光が倉庫を照らす美しい街並み。
そして、その男性が「七海、ワタシのお嫁さんになってくれませんか?」と頬を赤らめながら真剣な表情で言っていた。

フィルムの速度が落ち、実家の廊下を引きずられる七海、病院のベッドで猫のように身体を丸め、「ごめんね、ごめんね…」とすすり泣く彼女。

ゆっくりとスクリーンは暗転していった。

意識が戻った七海は、よろけながらトイレに向かい、吐き気に耐えながら、這うようにしてトイレを出た。流れる涙は、身体の辛さなのか、それとも記憶の映像のせいなのか、理由も分からぬまま止まることはなかった。

倒れたような音で目を覚ました洵は、七海の後を追い、洗面所に入って「七海さん、大丈夫?またなの?」と声をかけながら、しゃがみ込んで彼女の顔を覗き込んだ。

いつもなら、「ごめんね、大丈夫よ」と言うのだが、今、目の前にいる七海は、唇を震わせ、顔面蒼白で、ただ静かに涙を流していた。洵はその異常な様子に、ただならぬ気配を感じていた。

一先ずリビングに連れて行こうと、力のない彼女を抱えようとするが、彼女は手を振り払って抵抗した。仕方なく、洵は強引に彼女を抱き上げ、ソファにおろした。

洵は彼女を落ち着かせようと飲み物を準備するためにキッチンへ向かった。

その間、彼は心の中で「一体何があったのだろう?」と考えていた。
『記憶の回復』で嫌なことを思い出したのだろうか。

一方、ひとりになった七海は、洵が目の前からいなくなったことで、少しホッとしていた。
今の彼女は、洵の顔を見るだけで、懐かしさと悲しさが入り混じり、感情を制御できなくなりそうだった。

回復した記憶は、遠い昔に引き裂かれた婚約者のアディだった。
そして、洵を見るたびに感じた懐かしさは、アディの面影があったのだ。

ほどなく洵がカップをトレーに載せて戻ってきた。トレーをテーブルに置き、カップを渡そうとすると、七海は涙で濡れた顔を上げることなく、震える声で「今日は、一人にしてくれないかな?」と頼んだ。

その声は、洵の心に突き刺さるようだった。
「一人で大丈夫なの?」と心配そうに問いかける洵に、
七海は涙声で「ごめん、止めて…洵を見ていると、アディとごっちゃになってしまうの」と言いながら、クッションに顔を埋めた。

洵は驚きながらも「アディって誰?」と尋ねる。
七海はクッションから顔を少しあげ、
「忘れたくなかった人なのに。洵とよく似ていたの…もう何がなんだか分からない。だからお願い、一人にして」と力なく言った。

その言葉に、洵は戸惑いながらも、今は詳しく聞き出すそうとすると、不味いタイミングと判断し、帰ることにした。

To be continued

次回のお知らせ:
配信予定日: 1月26日(日)
内容予告
七海は、アディの記憶が蘇り、心の中で戸惑い続けていた。過去と現在が交錯し、洵との関係に深まる一方で、アディとの思い出が彼女を混乱させる。特にアディに似た洵の存在が、彼女を複雑な感情に引き込む。記憶が回復する度に、七海は自分がどこにいるのか、誰と共にいるのかが分からなくなる。洵の優しさに触れる度、彼女は不安と戸惑いを感じながらも、過去の自分と向き合う覚悟を決める。しかし、その過程で新たな問題が浮かび上がり、七海は再び記憶の迷宮に囚われ、心の中で葛藤を繰り返すことになる。

これ以前の章はこちらにまとめてあります

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