【エッセイ】酔うために飲んでいる。
日本酒を好きな人たちの中にも、「酔うために日本酒を飲んでいるわけではない」という人がいる。
日本酒の味が好きだから飲んでいる。料理を美味しくしてくれるから飲んでいる。発酵というカルチャーが好きだから楽しむ。
いちばんの親友は、アルコール耐性はあるのに、お酒をほとんど飲まない。「酔って自分を見失うのが嫌」なんだそうだ。
いずれの言うこともわかる。酔うことは、ときにかっこ悪い。恥ずかしいことや、取り返しのつかないことをしでかし、コミュニティや社会で制裁を受けることもある。
それでもわたしがお酒を飲むいちばんの理由は、やはり「酔う」ためだ。
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人類は有史以来お酒とともにある一方で、その弊害ともまた闘い続けてきた。お酒を飲むことは、健康を害し、正気を失わせ、依存症を引き起こす。研究のために論文を探ると、それらの対策ばかりが目につき、アルコールは基本的に悪しき者であることが前提とされているのだな、と思わされる。
20世紀初頭、世界的に禁酒法というものが広まった。その発端は、アルコール中毒や飲酒が引き起こす犯罪が社会問題となったことだとされている。わたしがいたアメリカではいまでもアルコールに関する厳しい規制があり、人前で酔っぱらうことを犯罪のように見る向きが残っている。
お酒には悪いところがたくさんある。時には生死にかかわることもある。だからこそ、お酒の仕事をするひと、そのイメージを良くしたいひとは、「酔って失態を起こす」「お酒で健康を害する」ことに最大限気をつけ、「そうならないお酒の飲み方もあるのだ」と提案するのかもしれない。
しかしわたしは酔うためにお酒を飲んでいるし、それこそがお酒のいちばんの魅力だとさえ考えてしまっている。
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多くの人間は、日常を歩いているかぎり、自分たちの思考や行動を理性によってコントロールできていると思い込んでいるのだろうが、それは驕傲だろう。わたしたちの理性に先立って、身体がある。無意識のことだ。意識が忘れてしまったと思っていることも、この身体は確実に通り抜け、記憶している。
お酒はわたしたちを非日常へと連れ込み、違和感を与える。ひたすら歩き続けていた旅人を、ふと、立ち止まらせる。アルコールのポジティブな作用として、「リラックス」と表現されることがあるが、そんなやわなものでもないだろう。アルコールが引き起こすのは日常の弛緩であり、押さえつけられた身体性を呼び覚ます。
わたしはこの酩酊の感覚が好きだ。精神に作用する多くの薬物が禁じられた中で、国ごとに許されているのがアルコールだったり大麻だったりする。お酒が引き起こすのは一種のやわらかい狂気で、しかし、戻ることのできる一時的な狂気だ。
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お酒を飲むようになってからひとつ楽になったことがある。「わたしなんてこんなものだ」と諦められるようになったことだ。そうして同じように、酩酊する仲間たちと許し合う。限度はあるし、人によって程度は違うだろうが、酔っぱらいは酔っぱらいに優しい。彼のしたことはまた、わたしのしうることでもあると知っているから。
めっぽう飲んで、起き抜けにひどく気分が悪くて、便器に向けて顔を突っ伏しながら、我々はこの不快感を目指して酒を飲んでいるんじゃないかとか、酒飲みは死のシミュレーションを何度もしているんじゃないか、とか考える。とかく、二日酔いというのは、吐き続けるか突っ伏すしかないので、頭ばかりが働いて、妙にクリエイティブになるのだ。
お酒を飲むことで、人間は少しだけ愚かになることを許される。もちろん、社会的な役割はまっとうする必要があり、他人に迷惑をかけることは許されないのだが、自分を毒することができるのも選択肢であり、自由のひとつではある。お酒によって死にたい人はたくさんいるし、「ああやっぱりあの人は酒で死んだね」と納得されながら送られたい人もいるだろう。
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「ザ・マスター」という映画を観た。監督はポール・アンダーソン。主演はホアキン・フェニックスで、2012年に公開された。太平洋戦争で日本と戦っていた海軍の兵士が、精神を壊してアルコール依存症に陥り、その中である信仰宗教の教祖に出会うという話だ。
主人公のフレディが飲むお酒は、よく言えばカクテルで、悪く言えばデタラメに作った合成酒。そこらにあるものをやたら突っ込むので、登場人物のひとりはそのせいで重体に陥ってしまう。教祖との出会いは、気絶する彼の荷物に入っていたそのお酒を試しに飲んでみて、いたく気に入ったことがきっかけだった。トリップ性が高いのだろう。
彼らは乾杯するときに、「To poison.(毒に乾杯)」と言ってグラスをぶつけ合う。この映画が好きだと思った。