本当の強さとは自分にある弱さを認めること
こんにちは。咲けるリーフ🌿です。
見出しの絵は、2015年に私が描いたものです。
2021年1月31日(日)
今の私は自分の自信を表に出すことをうまく出来ていません。
表に出すというのは、無理矢理にひけらかすということではなく、自信というのは、自分が信じて選んだ道に誇りを持って、たとえばワクワクしたり、やるぞ!と意気込んだりしている時に自然と溢れ出す活気のようなものだと感んじています。少なくとも私にとっては。
だから今の私が自信を持てていないと感じるのは、そういう活気に溢れた状態ではないことを意味しています。
今、こうして言語化に成功していることに、自分で驚いています。
ついさっきまで、文字に打ち出そうとしても、音声に収録しようとしても、全然言葉にならなかった。
苦しかったんです。
それがこうして、今なぜか自然と文章が完成していきます。
日本を離れて生活しながら、母国語である日本語での思考能力や文章化力、はたまた会話での発話力が年々衰えていることに危機感を感じていました。
自分のアイデンティティーが脅かされていると感じ、落ち込み、そこでも意気消沈。自信を失くす要因の一つになりました。
日本語能力が衰えたくらいでなに言ってんだ!そう言ってやりましょう。
そりゃ当人にとっては大きく感じる悩みでしょう。でも、そこに拘らなくても大丈夫。そう言ってあげたいです。
外国語の学習や海外生活によって母国語の日本語が少し変になる現象に対して、悪くいう人が一定数存在することを私は知ってしまっていました。
そんな狭いコミュニティの人間の言うことなんて聞き入れなくていい!と言ってやりましょう。
私は、他人を重要視しすぎなのかもしれないと思います。
こう言うと、重要視するのがなにがいけないの?となるかもしれません。
しかし、私は、自分より他人の言葉を聞かなければいけないと感じて生きてきました。
今もそれはなかなか抜けきっていません。
自分を大切にできていない。
自分はダメだから、他人の意見をよく聞いて無視しちゃいけない蔑ろにしちゃいけない取り入れなきゃいけない。
自分だけを信じてしまったら傲慢になって成長がないと。
どんな言葉が当てはまるのかわからないけれど、とにかく私は人に言われた通りにしないと自分が善の道をそれて人生が間違った悪い方向に行くと教育されてきたように思います。幼い頃からの教育の中で、私はそのように言われていると感じ育ってきました。
大人の言うこと、教師の言うことは聞かなきゃいけない。言うことを聞かないと悪い人間だと。
良い言い方をすれば、私はとても真面目で、聞き分けがよく、言われた通りに満点を目指そうとする人間でした。
昔からそれに苦しめられました。
本当はそんなの嫌だった。
しかも、言われた通りにしたって対して褒められるわけでもなく、大人には好かれるどころか関心を向けられることも少なかった。
私は良い人になろうと必死だったんです。素晴らしい人になりたいんです。
それが良いことだと教えられてきたと感じます。
悪いことはしてはいけない。いけないと言われたからやってはいけないんです。
本当に私は他人軸で生きているなと思います。
小学生に上がった頃から死にたいと思うほどに苦しんできたのは、この抵抗感からくるモヤモヤを感じていたことにも関係があるんじゃないかと感じます。
その頃から私はダメだとずっと思ってきました。
就学前は、行動が遅いからもっと早く行動できるようにならないとダメだとか、食べるのが遅くて毎日一人でお残りテーブルで美味しくない給食を無理やり食べていた記憶があります。
それが直接辛かった記憶はないけれど、私は思い出せる限りでは小学校の頃から、自分はダメなんだ、愛されてないんだ、死んでも誰も悲しまない、価値がない存在だと思って辛くなる時が多くありました。
なにが原因かわからない。だからそう思ってしまうのは自分が全て悪い、自分がダメなせいだと。
悲劇のヒロインになって感傷に浸っているだけだとか、可哀想な私に酔いしれているんだと言われ、それじゃダメなんだと言われました。
やっぱり私はダメなんだと思いました。思わないといけないと思いました。そう思わないと変わらない。成長しないんだと。
どうにもできないのは私が努力しないからで、どんな努力が必要なのかもわからない、バカで能無しの人間なんだと。
自分が自分なりに一生懸命生きていると思っても、ダメな自分から変わっていないのは努力をしていないからで、努力していると言うのは口だけで、言い訳をしている最低な人間だと言われ続けました。そう言ってきた人たちは、そう感じているのはお前だから、お前の捉え方が悪いのだと私に言いました。そうなんだと思いました。どんどんマインドセットされていきました。
何をしてもダメと言われて努力していることを訴えても否定されて。
だから今、自分軸で生きることが大切なんだと切実に思います。
どんなに他人に罵倒されても、否定されても、自分が自分のことをわかっていれば振り回されない。
私は、自分はダメだから他人の言うことを聞いて自分がもっと成長していかなければいけないと思って生きてきました。
本当はもう物心ついた時から、他人に自分を否定され罵倒され制限され強要され無視される、そんな人生が嫌だと思っていたんです。
自分でも気づいていた。だから苦しくて、辛くて、死にたい、解放されたいと思っていた。
でも同時に、それは自分の中の自分を守りたい気持ちでもあった。
もっと堂々と、自分を大切にし、守りたかった。
社会で、私の価値を、誇りを、証明していきたかった。
他人から否定され続けたと感じた分、そうじゃないんだ!と、自分のために、証明したかった。
でも、、自信がない。
こんな私、社会に通用するはずがない。
私の努力なんて、他人に比べたら努力と呼べない。
考えすぎだとか、行動が足りないとか、だから変わらないんだとか、何もしてないじゃないかとか、私も自分でもそう思うと思ってしまう。
だって、考えるよりも行動に移して成功したと主張している人に言われるのだから、確かにそうだよなって。
そうだよいつだって私はダメだ。
何も出来てない。成し得てない。
他人と比べると落ち込むってのは、いつだって理想像を見ているから。
私はいつも自分にできてないことを出来るようになろうとして、他人から学ぼうとする。
もしも、自分よりできてない人を見つけて比べたら、自分はよくやってるって思える。
でもそれって次元が低い行為なんじゃないかとか、悪いことだって感じてる。
いつだって他人を上だと思って、自分は下げて考えなきゃいけないと思ってる。
対等って言うのがどういうことかわからない。
私は誰よりも下だから。
いつだってみんながすごいから。
私はダメだから。みんなから学ばなきゃ。成長しなきゃ。変わらなきゃ。気づかなきゃ。
でもそんな思考がなぜか辛い。自分を苦しめてる。解放されたくて何十年ももがいてる。
こんな状態なのも、大切なことに気づいてないからだと思う。
「他人からなんて言われたって、自分に誇りを持っていれば、倒れない。関係ない。もし多少傷ついたとしても自分を取り戻せる。」
全く揺るがない自分にはなれるのか?
なれたとして、本当にそれは尊いことなのか?
それだけが尊いことなのか?
変わるって良いことなのか?変わらなきゃいけないのか?
変わらないのはダメなことなのか?努力をしてないってことなのか?
努力をしてないってダメなことなのか?
ダメではいけないのか?
善悪や良い悪いで物事を考えていると自分で思う。
でもそれって、みんなあることではないか?
合っているか間違っているかで考えたり。
それがまた良い悪いで判断される。
正義っていうのは、個人個人にあって、個人個人でその価値観が違うと思う。
正義っていうのは、その人の信念なのか、それとも、たまに見栄であったりもする。
自分の見せたくない部分を隠そうとする虚栄心。
みんな自分に自信を持とうとしてる。
でも自信って持とうと思って持ってるものでもなかったりする。
持とうと思って持っている自信というのは、頑張って自分をガードしてる甲羅のような鎧のような。
私は、そういう状態にいる人から、よく私の誇りを傷つけられる。
本人は自身に自信があると思っていて、でもそれは脆いものだから、他人に踏み込まれるとすぐに崩れ落ちてしまうため、踏み込まれる前にダメージを与えようとする。
本人は無意識だ。
本当に自信がある人は、他人をも癒す懐の広さと余裕がある。安心感がある。
私には今その余裕がないね。
攻撃されると辛くなるもん。
その人さえも癒せるように、自分に誇りを持ちたい。
成熟したオーラを放つのは生きた年月ではないんだなと感じる。
また、成熟したオーラがあるからといって成熟しているとは限らない。
成熟がいいということでもない。
でも私はそうなりたいと思っているようだ。
私よりも若くて、なんなら二十歳とかの子が、すごくしっかりしているように見えることも多い。
そんな時、相手をすごいと思ううちに、だんだん自分が恥ずかしくなるのだが、
それはきっと負けたくないとか、負けてる自分が‘悔しいとか、そういうことなのかもしれない。
でもそれは、年上の人に対しても同じだ。
すごいなと感じた相手と比べて自分で悔しくなり、相手は完璧のように見え、自分は何て未熟なんだと落ち込む。
そうやって、自分はダメだと思うほど、何も行動できなくなっていく。
過去の環境のせいで自分が苦しむような影響が与えられたのだとしても、それを転換させて自分を救って行くのは、自分なんだ。
他人の意見を聞いて救われても、人に話を聞いてもらって元気が出ても、前に進むという決断をするのは自分で、前に進めると信じるのは自分だ。
他人の言葉によって自分が変われると思っていた私は、様々なひとの言葉を学ぼうと求め続けた。
みんな素敵な言葉をくれるが、どれも知っている言葉だった。
自分の中にあるその言葉を、自分に落とし込んで納得するのに時間がかかっているから、人の口から改めて聞くことで、自分の背中を押したいという思いもあると思う。
で、本当は私は悩んでなんかないとも言えたりする。
あえて色々な角度から物事を考えて実験のつもりで研究しているという感覚もある。
それがどっかのタイミングで、私を落ち込ませることで目的を忘れて迷ってしまってるときに悩んでる状態が作り出されている。
私は元々自信があるし、誇りもある。
だからこそ人々をさまざまに観察することができるし、あえて私の主張をして他人に作用することを嫌う。
だから強く主張をしない。
ただ、主張をしないでいると自分の目的を忘れがちになる。
目的を忘れてしまうことで、相手から攻撃的に接された時に、びっくりしたり悔しいとか思ったりしてしまうのだろう。
衝撃にも動揺せず目的を忘れない意識を持っていたいものだ。
私は悩んでないし、苦しんでもないんだ。
目の前に現れた難題を面白いと楽しんでいけばいい。それには強さがある。
強さでなくても、自分の目的と使命について自覚し忘れなければ、冷静に役割を果たしていける。まぁそれが強さだと思う。
こうして、ある種のマインドセットが完了したわけだが。
途中、書いていて、ものすごい勢いで泣いた。
弱い自分を自分で認め許そうと、思い切って正直に自分を曝け出した。
綺麗に繕わないで、ありのままに弱いままに。
自分の中の自分に訴えかけるように。
わかって欲しかかった、知って欲しかった、それでもいいよって、自分で思いたかったんだ。
そんなことはとっくに知っていたけど、弱くちゃいけないって思いが、実は今もまだある。
弱音を吐いちゃダメだし、誰かを頼って弱くなっては本当に強くなれないと感じたりしてる。
でもそれを、訴えたくなる度に、ちゃんと訴えていいんだね。
ただ、他人っていうのはどこまでも他人なんだってことを最近、痛感してるんだ。
それは最初はとても寂しい気持ちにもなることではあったのだけれど、
最後の最後は、自分で決めることになるんだってことを、私に納得させてくれる出来事だった。
最後の最後と感じたけれど、何度も考えていくと、それはつまり、どんな時も自分で決めればそれでいい。それが正解。それが最高。ってことなんだって。
自分の思いを訴えたくなる時、自分ではどうにもできないと感じてきた。それはとてももどかしく苦しい感覚だ。
幼少期から今まで、死にたい逃げ出したいと思うほどにもどかしく息が詰まるように苦しかった感覚がこれだ。
その感覚をどうにかしたくて試行錯誤してきて、自分一人ではどうしたらいいかわからないから、他人を頼ってきた。
もちろん、とても救われてきた。
ただ、私が一番に求めていることというのは簡単には他人から得られなかった。
私自身が自分でどうにかできるようになったら完璧になりそうだった。
それは自分から得るしかないようだった。私が一番わかっているようだった。
本来元々私が大切にしたかった思いを大切にするだけでいいみたいだった。
でもそれではゲームが終わってしまうような気がしていたのかもしれない。
どうにかしてクリアしないようにしていたのかもしれない。
迷っているフリをしながら
何度も何度も同じステージを繰り返し。
そろそろクリアしてもいいんだよね。
だってきっとクリアしてもまた次のステージがあるんだもん。
私は終わりかと思ったけど、終わりじゃなかった。
もっとずっと続くゲームだったんだ。
もっと早くクリアして次のステージに行けば良かった!
でもまぁきっと、ここで鍛えさせたのが次のステージでは大いに役に立つはずだ。
まだまだ続く私の物語。
こんなこと言ってまたすぐ落ち込んで同じ繰り返しなんじゃないのか?と思うこともあるけれど。
いやいや。大丈夫。それでもいいんだよ。
まぁしばらくは、こんな感じに日記を書いて、マインドフルネスしていこう。
I'm enough.
thank you