東日本大震災 わたしの経験した3.11
※このnoteは2017年に自身のフェイスブックページへ投稿した内容を一部改変して投稿しています。
https://m.facebook.com/misssakeiwate/photos/a.1756721997987615/1786870271639454/?type=3
被災の経験をこのような形でまとめられるまで6年かかりました。
なぜなら上京当時は、震災を語りたくても自分自身にとってあまりにショックなできごとでしたので、上手く人に話すことができなかったからです。
ですので、2017年に記したこの文章が、わたしの心の中をまとめた最も古い文章になります。
一人でも多くの方の目に留まるよう、note上にも投稿したいと思います。
2021年 1月 28日
三浦まなみ
2017 ミス日本酒 岩手代表 三浦愛実です。
長くなりますが、ミス日本酒岩手代表としてみなさんに最も知ってほしいことであり、わたしの活動の原動力になっていることについてお話させて下さい。
6年前、わたしは東日本大震災で被災しています。
みなさんがどれほど3.11のことを知っているか分かりません。
今日はわたしの経験をみなさんに伝えさせて下さい。
当時わたしは18歳で無事に大学入試を終え、入学に向けて大学に思いを馳せていました。
進学先は東京で、そこは修学旅行とオープンキャンパスでしか足を踏み入れたことのない地でしたから、浮足立つ思いと初めて家族と離ればなれになる不安とが混在しながら、ふわふわした気持ちで入学書類を書き進めていました。
3月11日のあの時間、わたしは岩手県宮古市の実家に一人で、父は仕事に、母は市内へ通院に、弟は同じく市内の学校にそれぞれおりました。
突然とてつもない地鳴りが轟き、これは危険だと察知したのもつかの間、かなり大きい揺れに襲われました。
反射的に靴も履かずに外へ飛び出すと、電柱は弾性があるかのようにぐにゃりぐにゃりと揺れており、すぐさま防災無線が鳴り響いて津波の恐れがあると告げられました。
放送はどんどんと津波の予測高さを増し、予想される津波の高さは10メートル以上と言われました。
わたしの住んでいる地域は宮古湾の切れ込んだ先でしたから、「ああ、ここで一人死ぬのか」と絶望しました。
携帯電話の電波が途絶える前に連絡を取った父と合流して共に高台に避難しました。
結局津波は実家までは到達せず、帰路にも津波のかげはなく、津波の届かない地に家を建ててくれた両親に心から感謝しました。
その日の夜は地鳴りと余震が続く、寒くて暗く、心細い夜でした。
岩手の3月は冷え込むので、暖房のない夜というだけでも厳しいのです。
わたしはこれからの不安を感じながら、いつ余震で家が倒壊してもいいように、リビングの机の下に布団を敷いて眠りました。
家族の無事を知るまでは気が気ではありませんでした。
次の日の朝に父親と共に母と弟を迎えに行くことにしましたが、家から市内に続く国道45号線は海岸線沿いのため通行止めでしたので、一度も通ったことのない山道を車で走りました。
どうにか市内が見えてくると、被害の爪あとを目の当たりにしました。
斜めにゆがんだ電柱に養殖の牡蠣の網がぶら下がり、車が何台も積み重なり、線路は引き千切れ、防波堤は崩れてボロボロでした。
見慣れた街並みはどこへやら、どこまでも家屋のない茶色のがれきと悪臭が覆う泥の街になりさがっていたのです。
みなさんが震災の写真を見たときとわたしたちの感覚の違いがあるとすればここで、がれきの街しか映し出されていないそこに、わたしたちの住んできた、文化の伴った「まち」があったのです。
わたしたちの営みである「まち」は、震災と津波によって完全に失われてしまい、がれきに取って代わられたのです。
その様変わりした光景を見て、わたしは初めて母と弟に二度と会えないかもしれないと震えました。
母は揺れの起こった時間に病院にいたかの確信が無かったので、帰宅途中であれば沿岸部を車で走る必要がありますから、ほぼ確実に死んでいると思いました。
弟の高校も湾のほとりでしたから、死んでいてもおかしくない状況でした。
その事実はわたしにとって視界が白むほどショッキングな懸念でした。
病院へ向かう道中、母の車が積み上がったガラクタの中に無いことを確認しつつ、「二人とも生きてるよね」と何度も自分に言い聞かせるように父へ問いかけながら渋滞を進んでいきました。
病院につくと母の車があり、避難場所にいた母と抱きあって無事を喜びました。
高校に向かうと疲弊顔の弟に迎えが遅いと皮肉られました。
級友の家族が次々迎えに来てくれる中で、いつまでも取り残されていた弟には寂しい思いをさせてしまいましたし、学校の備蓄米と数の足りない毛布で一晩過ごさなければならなかったことに申し訳なさを感じました。
わたしの家の隣の集落は全滅でした。
「沿岸部の人は頭の形が綺麗で楽しい」と東京から開店し懇意にしていた美容院も、マイホームを建てたと招待してくださったお宅も、一面のがれきの世界に消えてしまいました。
母方の祖父母の家も跡形も無く流されてしまいました。
本当に家財一つ、梁一本も残りませんでした。
慎ましく生活していくためのお金も、成人したら譲り受けるつもりだった着物も全て無くなりました。
毎週と言っていいほど祖父母の家に遊びに行っていたので、祖母のまいっている姿には目もあてられませんでした。
祖父は震災前に亡くなっていましたが、祖父の位牌も一緒に流されてしまいました。
「祖父は二度死んでしまった」という事実が今でもつらく心のしこりとなって残っています。
今でも祖父母の家で遊んでいた頃の夢を見て目覚めた朝は、切ない気持ちになります。
震災の被害の全容が見えてきて、これまで築かれたまちが跡形なく消えてしまったことへの終わりの見えない絶望を感じていました。
唯一電話がつながる消防署から電話を掛けたり、交通の足であり暖を取る手段であるガソリンや灯油を買ったりするために何時間も並びましたし、お米は農家の知り合いから分けてもらわなければ手に入りませんでした。
そんな中で震災のせいでお金が銀行からおろせない、お金が流されてしまったなどの人のために無料で秋刀魚を提供してくれる漁師さんや、全国からの支援物資、ラジオから流れてくる応援メッセージは、わたしの大きな精神的な支えになりました。
また、わたしの家は最後まで電気も水道も電波も来ない地区でした。
しかしながら、親戚に無事を知らせて回っている折に、水道と電気が復旧したお宅の方に「お風呂はどうですか」と声を掛けて頂きました。
山水を汲んで絞ったタオルで身体を拭いていた当時の何日ぶりかのお風呂は、それはそれは涙が溢れるほど嬉しくて、暖かくて…。
この方の優しさと、純粋に暖かいお湯に触れた安心感から、もうすぐ、もう少し耐えればこのつらさから抜け出せると感じたことが思い出されます。
震災は記憶に鮮烈に残っています。
「生きたい」とあれほど願った経験はありませんでした。
当時は汚いことも見たし、心無い行動をされたりもしました。
それでもわたしを助けてくれた人たちの親切ゆえに、私が人間に絶望することはないと思います。
ここまで読んで下さったみなさん、もう一度みなさんの周りにいる大切な人を思いながら、わたしの震災体験を読み返してみてください。
こういったことが起こったときの、わたしたちの気持ちを想像してみてほしいのです。
「被災地」という語感に慣れて3.11を分かったつもりになるのではなく、いつものなんでもない風景が一つも残らなくなったときに、ああ、想い出の詰まった光景だったのだ、と気づくわたしたちの絶望を、車でどこまで走っても震災前の景色が残っている場所なんて無い寂しさを、そんな虚無感を抱いている仲間がいることを知ってほしいのです。
正直な話、被災した次の月にはわたしは進学のために上京しましたので、そこに後ろめたさをずっと感じていました。
つらい日々が今も続く地元の人たちに「逃げた」と思われているのではないかと自責の念に苛まれていました。
しかしながら、東京に出てみると、勿論周りは震災をダイレクトに体験しているわけではないので、震災の話は電車の遅延が大変だった話がメインで、今もなお続く震災の爪あとについて話せる人はいなかったのです。
だからこそ、わたしは被災した身としてみなさんにこの事実を共有したいと思っています。
2017年 2月 19日
2017 ミス日本酒 岩手代表
三浦愛実