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意思を継ぐ者
※2022.8.8に記事タイトルを変更しました
先日、にじさんじ所属のVtuber「黛灰」の生前葬が、彼のチャンネルにて執り行われた。この配信全てを見れてはいないのだが、彼の登録者20万人記念配信の際ゲストとして招かれ対談したことのある「GARAGE」作者の作場知生さんが参列者として辞める直前の黛と対談していて、その内容が興味深かった。配信でのやりとりや、作場さんがTwitterで書いていた「黛灰というキャラクターの考察」を引用しながら、思ったことをつらつら書いていこうと思う。
*
「黛灰は役者」
ー自由になるための方法論
【60万人記念生前葬 後編】参列客が60人来るまで終わらない凸待ち。【黛灰/にじさんじ】〈https://youtu.be/iCA8bWiFIlQ〉
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黛「俺が辞めるってのを聞いた時、黛灰との出会いっていうのを、語ってもらえて。ありがとう。」
作場「あぁ。そうでしたね。あのあともなんか、ぶつぶつ書いてましたけども。」
作場「役者ですよね、黛さんね」
黛「おー、存在がってこと?」
作場「そうですね。あのー、そういうことをずっと思ってたんですよ。で、結局、黛灰というキャラクターと、それから、それがまず、一つの役じゃないですか。その上で、さらに役をしますよね。メタに。それが凄く、あの、自由になるための凄く良い方法論だなぁと、なんかちょっと思って。書いたことはそんなことを反映して書いてみたりしたんですけど。」
作場「何ていうんでしょうね、憑依体質というか、割と、自分の頑固な部分と、それから、人に対して寄り添う部分を、ものすごい両立してる感じがしますよね。その辺がなんか、こう、まぁ変な言い方ですけど“特殊“というか。けっこう、そういうことしようとすると、役者としての、役が外れちゃう人が多いと思うんですよ。それが、外れずにやってくということが、いつも感心しながら見ていましたけど。」
作場さんはTwitterで、黛灰というキャラクター(Vtuber)の考察をしている。
この一連のツイートは何とも哲学的で、すべて理解したとは到底言えないのだが、私なりに文章から受け取ったものを書いていこうと思う。(そのため、作場さんの意図から大いにズレたことを書いてしまっている可能性はあります。予めご了承ください。)
成熟を禁じられて生きていくのは辛いことです。楽しいことではありません。幼さは自分の中に愛するものを思い出させてくれますが、それだけでは生きていけません。そんな毎日に成熟を諦めなくてもいいんだと思わせてくれる他者は貴重な存在です。成熟も癒しになるというのはそういうことです。
— 作場知生 Sakuba Tomomi ガラージュSteam版:配信開始! (@sakuba) July 2, 2022
まず、アイドルやタレントに求められる「幼さ」や「未熟さ」が、現在に至って巨大な市場を築き上げているとし、その「幼さ」(モフモフ動画と表している)が現代のロックンロールの最先端にあると説く。そこで作場さんは、そのロックンロール(幼さ)に対立する概念として「成熟」を提示する。
「成熟」は幼さと同様に癒しを生み出すが、その前には様々な障壁(作場さんは総称して“ボス”と言っているが、両親や会社の上司や先輩など)が立ち塞がるという。そのような障壁を前にして「成熟」が癒しである為には、幼さに背を向けひたすら現実に耐え忍ぶ様な状況を通り越して、直接的に語りかける技能が必要とされるのだが、黛灰というキャラクターには、それを可能にするものがあった、と書いている。作場さんは例えとして“枕を抱き抱えてひたすら耐えるしかないような状況”にも届くような技能、と書いている。「幼さ」に身を預けることなく、自己実現のための修練のような日々を過ごしている者の、癒しとなりうるもの。
作場さんのTwitterと黛との対談を踏まえて考えてみると、「幼さ」に変わって「成熟」が癒しになる可能性を示唆したキャラクターとしての黛灰のキーポイントは
1) 黛灰というキャラクターの上で、さらに役を”演じきる”こと
2) 頑固な部分と、人に対して寄り添う部分を両立していること
この二つなのではないかと考えられる。そしてこの二つには黛灰が役者であるという重要な基盤がある。黛灰は、配信者の活動の中で、黛灰という役を降りることなく、役を貫き通して配信者生涯を終えた。
頑固な部分とはつまり彼が「黛灰」から少しでも離れないというところだ。どんな時でも、メタ的に言うと「中の人」部分を出すことなく、徹底して“キャラクター“として画面上に存在している。彼の外見の特徴である小顔で大きい目や全体的なスタイルから「幼さ」を抽出して、そこに癒しを求めて応援しているファンも少なからず居たように見受けられた。そこでのやりづらさというか抵抗を、彼自身から少なからず感じてはいたのだが。(もちろんそれも「黛灰」の要素の一つなので否定する気はないし、そういう面で応援しているファンの人を否定したいわけでも同様にない。)そのような表層的なイメージも取っ払うぐらいの技量があったように思う。作場さんの言ったように「役者」であったこと。
黛の演技の自由闊達さ、全身で演技をするさまには目を見張るものがある。何かを演じるという行為は、様々な人物の人生を、演技を通して経験できるという側面を持つ。普通だったら1人の人間(自分)の人生しか生きられず、世界を見る目はひとつしかないことになる。しかし演技をすることで、いろんな視点からものを見ることができ、現状を批判的に見ることが可能になる。これは、行き詰まった時などに、世界を別の目で見ることの助けになり、そういう視野の広さを持つことが、生きていく上で身体にのしかかる負担を少し軽くするのではないか。リスナーは彼の創作したものを鑑賞し、思考し、明日を生きる糧とすることができる。
まさに作場さんの言った「自由になるための方法論」とはつまり、このことなのではないだろうか。いろんな顔を持つこと。“ありのまま“でいれたらそりゃあいいけど、なかなそうもいかない。黛灰というキャラクターが存在全体で示していたものは、私達の生きる現代社会でも引用可能であり、真に「自由」であるための生存戦略だ。
鷹宮「なんか、めっちゃ好きー!みたいな曲ないの?」
黛「めっちゃ好きか…Queenの『ショウ・マスト・ゴー・オン(The Show Must Go On)』…かな。」
黛「“show must go on”っていうのはそもそも、向こうのことわざ?みたいなもので、直訳すると『舞台は続く』みたいな意味合いなんだけど、なんだろ、役者が、例え、舞台上でどんなミスをしたとしても、舞台を、舞台上から転げ落ちたとしても、それもまた芝居のうちで、役者が芝居をし続けている限りは、舞台は続くっていうような。例え何があろうと舞台上にいる時点で、芝居をしている時点で舞台は続いているみたいな、意味合いの。言葉、だと俺は思ってて、解釈としては。」
鷹宮「演劇をする人が使う言葉なんや、ふーん。」
黛「うん。それをなんか、Queenの晩年、かな。に、もうこれ以上は声が出ないだろうとされていたタイミングで、歌い上げた曲の一つだった、ハズ。」
鷹宮「エモいな。ほえー。そうなんだ。」
黛「…っていうのも相まって、元気をくれる曲だなって。曲も力強い曲調だから、なんか、うーん、なんだろ、『なんかやっちゃったな』、『今日はうまくいかなかったな』みたいな時でも、それも含めて一つの作品にしてしまえばいいんだなみたいな。気持ちになれるというか。」”
〈https://youtu.be/4mmvuYMRMrQ〉より一部抜粋
人に寄り添う部分に関しては、これはもう生前葬を見れば明白なのだが。
私は黛の「雑談」が好きなのだが、そこである配信で話していた家族との距離感の話が、個人的に悩んでいることだったのでとても救われた。(詳しくは→【定期雑談#12】肝試し・にじクイ・ギスギスライン感想とホンダがすげぇぞって話。〈https://youtu.be/KJrZ4Kk4LnY〉) 雑談もいいのだが、ゲーム実況などでも、黛の「人に寄り添う」部分が垣間見える。
「GARAGE」実況中のひとコマ
ガタリ「関係ない誰かさんを安心させたところで、それが一体何になるって言うんだい?出来事の理由が解明されたところで何も解決されはしない。」
「答えなんて初めから存在してるんだから、答えは解決になり得ないんだよ。そして1番やっかいなことは出来事の要因も行為の結果でしかないって事だ…。」
*
黛「俺、この考え方好きだね。俺も…物事には絶対何かしら過程とか理由とかあって生まれてきてると思うんだけど、その過程や理由っていうのを形作っていくのはいろんなことの結果の連鎖というか、結果の積み重ねによって、過程や理由っていうのは形作られて。今もその連鎖の最中でしかないっていう。」
「…だから今が結果だと思ってそれをあげつらう様なマネをするのも、早計だし、逆に、それまで行ってきたその結果の連鎖を見ずに今だけで物事を判断するってのも、浅い考え方なんじゃないかなってのは。結構思ったりするね。」
「…(コメント)『黛もしかしてガタリのカゲ?』…可能性あるね。」
(https://youtu.be/aByK9NOctpw)より一部抜粋
「GARAGE」の実況は黛を好きになったきっかけの一つ。黛の実況は、多くは語らず、しかし、ゲーム内を隅々まで探索し、キャラクターのセリフなど一つ一つ丁寧に読んで進めるプレイスタイルだ。このゲームの登場キャラクターの話す言葉はどれも哲学的で、それを読みながら自身の解釈や思ったことをその場その場で聞かせてくれる配信は、とても心地よかった。ゲーム内のキャラクターにも寄り添っているし、配信を見ているコチラ側にも語りかけてくれる。あまりゲーム実況など見る方ではないのだが、黛くんのそういうプレイスタイルが好きだった。「大衆へ向けて」という思いも、もちろん本人にはあるんだろうが(数字が多いと純粋に嬉しいとは言っていたので)、「特定の人へ向けて」のベクトルもあって、「1人の心に強く残り続けるもの」を生み出せる人だったと、個人的に思う。
エンタメにおいて幼さが癒しになる現場では、演者と観客が依存の関係にあり、内側に閉じた関係性になってしまっているイメージがある。が、黛はリスナーと、そして他ライバーと交流し、お互い影響を与え合う、そんな関係を目指していたのではないか。(インディーズゲームを紹介したり、海外コラボをしたり)関係性が内輪だけに留まらず、円の外に向かって広がっていくイメージ。その瞬間だけの癒しを盲目的に消費し/消費されるのではなく、未来に向けて線を限りなく引いていくイメージ。だからこそ、黛灰は消滅してしまったが、彼が与えた影響は、リスナーや同僚、関わった人々すべてに残り続けるのだろう。枝葉を広げて。創作はどこまでも続いていく。
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黛「誰か、俺のこの意志を継いでくれ。これを見ているお前たちでもいい。誰か俺の意思を継いでくれ。」
「声に揺れがある」
ー言葉の射程距離が長い人
黛の声に揺れを感じる
作場「例えば、『ありがとう』って言うじゃないですか。その『ありがとう』って言う時に、嘘をつきたくなくて、今本当に感謝の気持ちだけですよ、って言う時の『ありがとう』って言い方とか、今、自分が『ありがとう』という言葉の先に、なりたい自分を想定して言っている『ありがとう』ってやっぱり微妙に違ったりしますよね。言葉の届く距離が違うんですよね。それって恐らく。で、その言葉の距離が遠いと、やっぱりその現時点からの、揺れが見えるんですよ。」
黛「あ〜、成る程。」
作場「で、それが凄く魅力的だな、というふうに、思って見てましたけど。」
黛「うん。確かにそういう意味で俺は、遠くへ遠くへ言葉を投げかけるようには、してるね。」
作場「それが、何て言うんでしょうね。例えば、『ありがとう』とかだったら分かりやすい言葉ですけどれも、例えば自分が迷ったりとか、分からないことがあるときでも、同じようにその言葉の距離っていうのは、別にどこを見て何かを喋ってるかって言うのは、すごく、その人の人となりを、言葉以上に語るものだというふうに、思っていまして。で、その距離感が魅力的だなってふうには、いつも。見ていました。」
さっきの言葉が発される時の射程についてちょっとだけ補足。言葉の射程の長い人というのは信頼に足る人なんです。優しさとか、親切とか、全部これが前提。そしてその射程はその言葉を発する人の孤独において担保される。それ無しには言葉の射程を伸ばすことは出来ない。
— 作場知生 Sakuba Tomomi ガラージュSteam版:配信開始! (@sakuba) July 27, 2022
これは先に作場さんのおっしゃった「人に対して寄り添う部分」の一端だと思われるが、単に耳ごごちの良い言葉とか、意味において優しい言葉をただ無感情に発するのではなく、いろんなことを考慮して、思考して、初めて発せられる言葉のこと。そうして発せられる言葉には現時点からの距離がある。その距離感こそが、黛の優しさであり、魅力だと作場さんは話す。名越先生が対談で黛の話し方を「リズムが普通じゃない」と評したが、これも同じような意味あいだろう。
名越「なんか…こういう言い方してファンの人に失礼かも知れないけど、黛と話してるの楽しいね、なんか。」
黛「あー、そう思ってもらえるのは、嬉しいな普通に」
名越「あの、リアクションが、ちゃんと聞いてくれてるのに普通じゃないからでしょうね。」
黛「普通じゃないんだ、俺のリアクション。」
名越「普通じゃない、ちょっと、でも何だろう、そのタイミング、リズムが普通じゃないんだよね。そういう人って大体人の話聞いてない人が多いやん? でもちゃんと人の話聞いて普通じゃないこと言う人って、レアだと思う。」
黛「俺…ちょっと、なんだ、“プログレ”、みたいな感じなんだ。ジャンルで言うと。」
名越「あー、そうそうそう! 近い。プログレ的な。」
黛「変拍子なんだね、俺。」
【黛灰/にじさんじ】〈https://youtu.be/y7vX3Km396U〉
真に誠実だと言えるものには、常識や言葉を使って語ることのできない「間」がある。それを黛は配信上で示していたし、それが魅力でもあった。
“そしてその射程はその言葉を発する人の孤独において担保される。それ無しには言葉の射程を伸ばすことはできない“ このことについても考えてみて、あぁ、確かに、と思った。黛は年齢の割に落ち着いていて、いろんな立場からものを見れる人。彼より長く生きている人でももしかしたら到達できないようなものの考え方をできる人だ。それは黛という人間が、孤独であることを享受し、それとひたすら向き合ってきた結果なのではないかと思った。
名越先生との対談の際、「黛は探求することを運命づけられている人生」と名越先生に言われていたが、彼は、生きていく過程で一般的な人々があまり考える必要なく渡るレールから外れ、何度も立ち止まり、考えざるを得ないような人生だったのではないか。(キャラクターの性質上、黛灰という人物を深く知ることはできないのであまり踏み込んだことは言えないし分かったようなことは言えないが)多数派と異なる道を選ぶというのは、それだけ苦労がつきまとう。が、その試行錯誤の過程で人間としての厚みが生まれるのだと思う。その厚みが優しさだったり信頼だったりする。で、その根本にあるのがおそらく「孤独」である、ということなんだろうなぁ、と考えた。独りであることは辛いし寂しいが、その時間が人を成熟させる。
少し色々書き過ぎた。全部いちファンの独りよがりの妄言だと思って受け流して欲しい。なんか彼のことやその周りの人々の発言など考えているとどんどん書きたいものが溢れてくる。それだけ彼の残していったものは大きかった。
黛灰くん、
— 鈴木くるみ🐑 (@doubututokani) July 28, 2022
短い間でしたがとても充実した時間を過ごすことができました。落ち着いた雰囲気や人間性に惹かれ、特に人との接し方の面でとても尊敬していて、私もこうでありたいなという、憧れです。
この先の未来に、たくさんの幸せが訪れることを願って止まないです。出逢えてよかった。では。 #灰画 pic.twitter.com/a4b431tBcK
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これからのエンタメ
ー私たちは次に進まなければならない
結局、生前葬がすべてを物語っていた。黛灰が黛灰を突き通したからこそ、あの奇跡のような対話の連続を、私たちは見ることができたのかもしれない。
作場さんの指摘するように、エンタメにおいて「モフモフ動画」が暴力的支配をする現代社会には、黛灰のような存在がこれからの時代必要なのかもしれない。しかし、きっと黛が残した可能性を今後、誰かが引き継いで行くのだろう。私もその一人でありたいと、彼に比べるとちっぽけな存在である私も何か成し遂げることができたらと、静かに願いながら、こうして文章を書き続けている。
▼引用・参考
◯にじさんじ黛灰 YouTubeチャンネル
◯作場知生さん twitter