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友達との会話は必要だ
この間、久しぶりに友達に会った。友達はとても元気そうで、しばらく会っていないのが不思議なくらいいつも通りだった。新しくできた人気スポットに行って、地元の牧場が提供しているソフトクリームを食べながら、子供連れの家族がひたすらシャボン玉マシンからシャボン玉を飛ばすのを眺めたり、子供が芝生の中を駆け回るのを見たりして、ただただしゃべった。最近リニューアルしたという街中華に行って四川麻婆豆腐を食べながらしゃべった。だいぶ長く過ごしたので、そろそろ帰る予定の時間だというときになっても、店を移動して喫茶店でクレープを注文してしゃべった。私はもうお腹が限界だったが、友達はお茶を注文してまで店にいる理由を作ってしゃべった。とても楽しかった。
正直、何を話したのか、何を言われたのか、ほとんど覚えていない。ただむやみやたらにしゃべって、笑って、一瞬沈黙が来ても会話を延長したいが故にどちらかが話題を提供してしゃべった。そんなふうで、全く内容を覚えていなくても体がデトックスされたかのように新鮮な心地よさに包まれている。
私はかなり友達が少なく、今でもつき合いのある子供時代からの友達は四人くらいしかいない。職場の友達もいて、毎日食事を共にし、学びをくれるのでとても尊敬しているが、何せ年齢が離れていて、いつも心が同期しているような仲のいい友達特有の感じはない。二十歳前後に不義理を重ねて、仲がよく一番たくさんいた高校時代の友達は全滅なので、つき合いのある友達となると、子供時代からの友達、職場での友達、大人になってからの友達くらいだろう。この間会ったのは大人になってからの友達だった。
大人になったら、友達はできないものだと思っていた。多分三十歳くらいで出会って最近友達と言える関係になったので、大人も大人のときに友達になったようだ。とても気が合うし、考えるスピードや知識や興味の範囲がかなり重なっているのでとても話しやすい。私は本を読むせいか、昔から変に豆知識のようなものを持っていて、子供のころから賢しらな奴として扱われがちだったので、同じような人がいることがとても嬉しい。大学なら可能だったのだろうが、そういう友達を大学で作り損ねたので、大変貴重なことだと思っている。
読んでいる本の内容について話してもわかってくれるし、ニュースで見た情報で私が興味を持っていそうだと思ってくれることも当たっている。これは大事にしなければならない縁だなあと思う。
今度、文学フリマ福岡で同人誌を頒布するので、売り子として誘ってみようかなと思ったくらいには心を開いている。ただ、一人で参加するつもりだったので椅子が一脚しかなく、仕方なく諦めたが。
自分のメンテナンスに必要なのは、寝ることや食べることだけでなく、誰かと話すことなのかなあと思うくらい、とても健やかな気分だ。だから、様々な人と繋がれるSNSは、トラブルも作り出すけれど、色んな人の寿命を伸ばしているのかもしれない。
ところで、今日、Xのアカウントを削除した。Xの規約が変わることに際し、昔の振る舞いが気になってのことだが、多くの人と繋がっていたので、とても寂しい気分だ。気の合う人もたくさんいた。話していて心休まる人もいた。そういう人たちをアカウント削除という形でバッサリと切り離したわけだから、多少のストレスはある。いつかまたアカウントを作れるように、元のアカウント名を変更したので、また必要になったら使うかもしれない。
しかし、SNSやネットでの振る舞いはオフラインでの振る舞い以上に気をつけなければならないことに気づかされた。次にXの酒田青として現れたときは、少しよそよそしくなっているかもしれない。それは少し寂しいことだなあと思う。
Twitterの時代からどっぷりだったので、暇なときに何をしたらいいかわからなくなっている。とりあえずオフラインの人間関係を大切にしようと思う。とりあえず、件の友達からの誘いに応えるところから始めようか。