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忘れない才能

岸田奈美さんの「かぞ・かぞ」。 出版当初、くいついて拝読し、noteやTwitterも楽しませてもらっている。 ドラマが地上波ではじまり、ドラマ内でもSNSでも、あらためてたくさんの言葉に共感したり救われたり。 その中で目にした 「忘れる才能」 「忘れるから書く」という事柄。 私はその真反対だなと。 私はそこが欠落している。 まだ妹が存命だった頃のことから、子どものころに周囲の大人たちにかけられた声、母親にされたこと。 思春期時代の友達関係、大学時代に異性から向けられた目

    • 大当たりか大外れか

      低確率な事象に高確率であたる人生だと思っている。 一卵性双生児 きょうだい児 きょうだいと死別 会社倒産 一斉リストラ 駐車中に車ぶつけられる×3回 自転車運転中に他人に投げられたモノに当たる×2回 小学校入学式を風疹で欠席 妊娠中期流産 娘発達グレーゾーン 娘ギフテッド疑い 娘不登校 夫が指定難病 夫が中途障がい者 40代で夫の介護 etc 運が悪い人間とは思っていない。 小さな抽選とかよく当たるし、ライブの席運とかはわりとよい。勝負をかけた日にアクシデントが起きるなん

      • 本当に自立=母からの決別

        充実した大学4年間。人生で最も楽しかった時期だが、最後に待っていた就活という試練。 超就職氷河期とか言われた時代、かつ芸術系学部在籍ということもありなかなか内定にこぎつけられない。 頑張れば何でもできる!という考え方が染み付いた私にとっては、初めての挫折だった。受ける会社、受ける会社に自分を否定されている感覚に押し潰されそうになりながらも、落ち込む暇もなく次々に試験を受ける日々。 ここでも、私が頑張る原動力、いや反発力になったのはやはり母なのである。 昔教員だった母は、

        • 母にされて嫌だったこと

          こんなことを書いて何になるのか? 母親を責めて楽しいのか? たったこれくらいのことを恨んでる? 色々思われてしかたない記事です。 自分でもよくないことをしている自覚は有り。 自分が娘に同じことをしないようにするために書き残すという苦しい言い訳をしておく。 ** 私立中に進学したので、地元の友達は皆無。なので成人式は行かないと決めていたが。 記念写真くらいは撮って欲しかった。 思い切って母に願いでたら 「写真なんて欲しいの?まさかそんな馬鹿馬鹿しいこと言われるとは思わなかった

        忘れない才能

          二番手以下

          重度身障者だった双子の妹と死別。 母の期待を背負い、2人分がんばって生きてきたつもり。 中高一貫の女子校で、早々に人間関係構築に失敗。残り6年間は身を潜めることに徹してサバイバル生活を乗り越えた。 この頃から母との関係が悪化。母との距離を少しずつ離し、自分の心を守りながら大人になっていった。 まだまだ私に理想を求める母はまだあれこれ干渉してきたが、本音を隠して自分に嘘をつき、母にも都合よく嘘をつき…嘘の鎧で固めた私が出来上がっていたわけだが、当時はそんなことにも気づいてなか

          二番手以下

          ゴールデンウィークは苦手

          ようやくゴールデンウィークが終わる。今年もやっぱり連休中私の情緒は不安定。仕事が休みなことが嬉しい以外、ゴールデンウィークは苦手。 家族で旅行。 家族でレジャー。 家族で買い物。 帰省。 BBQ。 ニュースを見ても、SNS眺めてもそんな話題ばかり。 幸せな家庭、お金のある人が正直うらやましいだけですが。 私だって家族旅行したい。 テーマパーク行きたい。 食べ歩きしたい。 BBQできるくらいの、仲の良い友達ファミリーがほしい。 子どもが小さい頃、夫は休日出勤でいなかったし、

          ゴールデンウィークは苦手

          母との関係④自立

          重度身障者の双子の妹が家族の真ん中にいた。 人に迷惑をかけないように、空気を読んで生きることを余儀なくされ、手のかからない子だと言われて育った。 当然身辺自立は早かった。 母はそのことが自慢だったし、もっと自立を進めようと仕向けてきた。 1人でおつかいに出したり、地域のイベントに参加させたり回覧板を持って行かせたり、近所におすそ分けを配りにいかせたり、父の会社に電話をかけさせたり。 「1人で出来てえらいね、しっかりしてるね」 そうやって褒められて喜ぶのは母。 そして褒めて

          母との関係④自立

          母との関係③母のせい

          前回の続き。 芸術系私立中学に進学したものの、母はそれをよく思ってはいなかった。 「勉強できる子の集まる学校じゃないんだから、1番になって当たり前」 と私にプレッシャーをかけ続けた。 母に嫌われきるほどの覚悟はまだなかったので、私はまた勉学に励んだ。やりたいことをやるために選んだ学校なのに、何かおかしいと嫌悪感を抱きながらも、専門科目よりも5教科の勉強の方をがんばった。 中学では親友をつくろう!とはりきっていたのに、人間関係もイマイチうまくいかなかった。中学の授業をくそ真

          母との関係③母のせい

          母との関係②反発

          前回の続き。 「亡くなった妹の分まで」と、私に頑張りを求めた母。母が中でもこだわったことは、勉強ができる子であること。 首都圏住みだったこともあり、中学受験をする流れが自然にできた。 小3で大手受験塾のテスト生になった。日曜日に本科生に混ざってテストを受け、その解説だけ聞いてくるというもの。なぜ本科生ではなかったのか?それも妙な母のプライドで決められたことだ。 私が小学校に上がった頃から、寺子屋のような小さな学習塾で講師の仕事を始めた母。 「寺子屋で働いたお金で、我が子を

          母との関係②反発

          母との関係①

          一卵性双生児(姉)として生まれたが、脳性麻痺で重度身障者の妹とは子どもの頃に死別。 育ちの過程で背負ったものをこじらせたままおばさんになった。 自分の本音を言えない、人に甘えられない、頑張っていないと不安になる、自分を労われない…。そんな自分との決別を目標に書いています。 *** 育ち①〜⑤の章で記したように、私はとにかく頑張って子ども時代を生きた。母に愛されたい、母に認められたい、母にとっての一番手になりたい、その一心で。 一方で、どんなに頑張っても母の思うようにできな

          母との関係①

          一人っ子のイメージ

          日本という国の中では、一人っ子のイメージはどうもよろしくない。 わがまま、マイペース、協調性がない、空気読めない…ネガティブな単語が並ぶ。 「一人っ子はかわいそう」と決めつけられ、子どもを一人っ子にした親には罪悪感、劣等感がつきまとう。 きょうだい児からの一人っ子となった私も、ずっとコンプレックスを持っている。 周りの様子をうかがってから動いているだけなのに、協調性ない人扱い。 我先に大声で意見を言ってそれを押し切る、言ったもん勝ち系な人に限って、どんくさいこの子!みたいな

          一人っ子のイメージ

          きょうだいは?

          「きょうだいは?」 少し親しくなるとかならずといっていいほど交わされる、挨拶みたいな問答。古今東西、老若男女、他人を知るための入り口に使われている。 この質問に答えにくいと感じる人間は圧倒的に少数なんだろうが、ここでははっきり言う。私にとってはすごく答えに困るあるあるNo.1。 ①「双子の姉です」と答えた場合。 「えっ?双子?妹さんはどこにいる?何してる?」 「もう亡くなっていて」 …沈黙。聞いてはいけないことを聞いてしまったという重たい空気が流れる。 ②「双子の妹がい

          きょうだいは?

          育ち⑤

          重度身障者の一卵性双生児(妹)がいなくなって変わったこと。 今まで父と私の2人だった、休日のおでかけに母も時々一緒にくるようになった。 自分の家に友達を呼んで遊べるようになった。 母が、現代でいうママ友たちの井戸端会議に参加するようになった。 私がよく風邪をひくようになった。 反対に、変わらなかったこと。 母が私に「よい子」な言動を期待すること。 ひとりで公園に遊びに出されること。 ファミリアの青系の服を着せられること。 私が母に甘えられないこと。 「妹の分もがんばら

          育ち④

          お通夜、お葬式、火葬、納骨。 妹との別れの儀式の記憶は断片的にしかない。 「妹さんと本当にそっくり」 初めて会う親戚や父の職場関係者が遺影と私を交互に見て必ず口にする。 一卵性双生児だから当たり前なのだが、寝たきりで何もできない妹と似ていると言われることが恥ずかしいような、悔しいような気持ちだったことは今も忘れていない。 一段落したあと、母がしばらく寝込んでいた。ちょうど年度替わりの頃で私は幼稚園入園だったが、入園準備は祖母と近所の人がすすめてくれていた。 私と妹はいつも

          育ち③

          重度身障者の妹は寝たきりだった。 その傍で育つ生活は突然終わった。 5歳になることなく、妹は亡くなった。睡眠時に呼吸が止まり、そのまま目覚めることはなかった。 真夜中の、母の叫び声。 救急隊の人の話し声、足音。 何度も開く玄関のドア。 寝ていた部屋で聞こえた音で、ただならぬ空気を感じていた。 朝になり、父に声をかけられる。 「妹ちゃん、死んじゃった。」 部屋から出ると、知らないおじさんが数人いた。 当時「おじさん」が苦手だった私はすぐに逃げたい気持ちを我慢して礼儀正しく

          育ち②

          2歳の頃に我が家は引っ越しをした。障がい児がいることを理由に、住んでいた戸建て賃貸を追い出されたらしい。さすが昭和!不適切!! 父が奮起して購入した新築マンションで私の社会は大きく広がった。 同じ年頃の近所の子がたくさんいて、親しくなった近所のおばちゃんおばあちゃんが我が家の事情を察して何かと世話をやいてくれる。 毎日1人でマンション内の公園に行き、そこにいる子と遊び、昼食と昼寝のあとまた公園か誰かの家に行くのが日課だった。 雨の日も、カッパを着て公園で1人遊んだ。やること