マリアのエリザベト訪問はどこで起こった?【新約聖書を旅する】
【記事の概要】
・イエスを懐妊したマリアは、洗礼者ヨハネを妊娠中の親戚エリザベトを訪問しました。
・エリザベトの家はエルサレム郊外のエイン・カレムという町にあります。
・エリザベトの家があったとされる場所に、訪問教会という教会が立っています。マリアの賛歌(ルカ1:46-55)はそこで語られました。
・訪問教会には、母エリザベトと幼児洗礼者ヨハネが水を飲んだとされる井戸や、彼らがヘロデ王の放った暗殺者から隠れたとされる岩が残っています。
※前置きが不要な方は「⑥訪問教会(Church of the Visitation)」からよんでください。
①マリア、受胎告知の後にエリザベスを訪問
前回は、天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知を扱いました。
今回は、マリアのエリザベト訪問についてお話しします。マリアは天使ガブリエルから受胎告知を受け、どんな気持ちだったのでしょうか。
自分が、メシアを産むことになったのです。
天使に対しては運命を受け入れると答えたものの、その後マリアには様々な思いが去来したでしょう。
「婚約者のヨゼフになんて説明しよう…」
「両親にはなんて言おう…」
「村の人は信じてくれるだろうか…」
「神の子なんて本当に育てられるのか…」
心配は尽きません。
しかし、マリアは天使の言っていた言葉を思い出します。
そう、同じく神の力によって身籠った先輩がいるのです。マリアの親戚、エリザベトです。聖書には「親戚」としか書かれていませんが、しばしばエリザベトはマリアの「いとこ」とされます。
不安一杯のマリア。もしかすると、マリアは「親類のエリザベトを助けなくては!」とも思ったのかもしれません。なにせ、エリザベトは自分と同じく神の力で身籠った上、高齢での初産です。
②マリアは1人でエリザベトを訪問したのか?
ところで、マリアは1人で旅に出たのでしょうか。後述しますが、エリザベトの住む家はエルサレム郊外です。マリアの住むナザレからはかなり遠いです。
マリアはイエスを身籠ったとき、14-16歳だったと考えられています。この時代、まだ10代の少女が一人旅することはなかなか考えられません。
また、イエスが語られた「善きサマリア人」の話しには追い剥ぎが出てきます。
エリコはエルサレムのすぐ近くの街です。この聖句からも、分かるように当時は追い剥ぎが出るのが珍しくなかったことが分かります。
したがって、マリアがエリザベトを訪問する際に、一人旅ではなく、誰かとともに旅をした可能性が高いと考えられます。
一緒に旅をしたのはもしかすると、婚約者のヨセフかもしれません(*脚注1)。
もしくは、ナザレに住むマリアの友人かもしれませんし、道中の護衛として誰か人を雇ったのかもしれません。
③マリアの賛歌(マニフィカト)
誰と共に旅に出たにせよ、マリアは目的地に無事に到着します。マリアがエリザベトの家に着くと、エリザベトはマリアに対し、「私の主のお母様が訪ねてきてくれるとは」と喜びます。
そこでマリアが「マリアの賛歌」として有名な言葉を語ります。
マリアの賛歌はしばしばラテン語でマニフィカト(Magnificat)と呼ばれます。そして、その前半は次のように神を讃える内容です。
しかしこの賛歌は後半になると、社会正義を求める戦士のような内容に、ガラッと変わります。次の通りです。
以上がマリアの賛歌です。それでは、本題に進みましょう。マリアが訪問したエリザベトの家は、どこにあったのでしょうか?
④マリアのエリザベト訪問があったのは、エイン・カレムという町
マリアはナザレの実家を出て、エリザベトの家へ向かいます。では、エリザベトの家はどこにあるのでしょうか。ルカはこのように記しています。
ルカは、マリアが「ユダの町」に行ったと記しています。「ユダの町」とはいったいどこなのでしょうか。
イスラエルに、「ユダ」という名前の街はありません。この「ユダの町」とは、「ユダ部族の土地にある町」を意味すると考えられています。
出エジプトの後、イスラエルに帰還したイスラエルの民は、預言者ヨシュアの下で、土地を12部族に分配しました(ヨシュア記13-21章)。
どの土地がどの部族に分配されたかは、概ね以下の図の通りです。
真ん中あたりのオレンジ色がベンジャミン族で、そこにはエルサレムが含まれています。そしてそのすぐ下のクリーム色が、ユダ族(JUDAH)の土地です。
ちなみに、マリアの実家のあるナザレは、ゼブルン族(ZEBULLUN)の土地です。
マリアが訪れた「ユダの町」とはこのユダ族の土地のどこかになるわけですが、伝統的に「エイン・カレム」(עין כרם)という町だとされています。(*脚注2)
なお「エイン」は泉、「カレム」は葡萄畑を意味し、エイン・カレムは葡萄畑の泉という意味です。
ナザレからエイン・カレムまでは、おおよそ150km。車で2時間弱、徒歩だと1日かかります。
以下がそのルートです。
※左下の正方形の写真部分をタップすると、空撮写真に切り替えることができます。
また、右下の➕➖をタップすると、倍率を変えることができます。
⑤エイン・カレムのマリアの泉
ナザレを出発し、ようやくエイン・カレムに辿り着いたマリア。伝承によれば、エリザベトの家は丘の上にあるので、丘のふもとにある泉で水を飲んでから登っていきました。
この泉は、「マリアの泉」と呼ばれています。
エイン・カレム(עין כרם)という町の名前は、葡萄畑の「泉」という意味です。このマリアの泉は地域の重要な水源であり、町の名前(の「泉」部分)の由来になったと言われています。
⑥訪問教会(Church of the Visitation)
さて丘の上には、エリザベトの家があった場所に立っているとされる教会、訪問教会(Church of the Visitation)があります。
この場所に立っています。
※左下の正方形の写真部分をタップすると、空撮写真に切り替えることができます。
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ストリートビューでも見てみましょう。
この訪問教会がどのように作られたかははっきりしていません。
しかし一説によれば、前回取り上げた受胎告知教会と同じく、聖ヘレナがこの場所を特定し、教会を建てたとも伝わっています。(聖ヘレナについては受胎告知の記事を参照ください)
というか、イスラエルの聖書にまつわる教会は由来がはっきりしていなければ大抵聖ヘレナが見つけたという話になりがちです。実際に教会が建てられ、整備されたのは十字軍の時代、12世紀ごろと思われます。
⑦母子が水を飲んだ井戸
この訪問教会には、二つ面白いものが残っています。一つは、エリザベスと幼子の洗礼者ヨハネが飲んだと伝えられる井戸です。
⑧母子が隠れた「隠れ岩」
もう一つは、母エリザベトと幼児であった洗礼者ヨハネが隠れたとされる岩です。
これは、ヘロデ王がベツレヘム周辺一帯の二歳以下の男児を皆殺しにした話(マタイ2:16)に関するものです。
なお、エイン・カレムもベツレヘムもエルサレム近郊であるので、エイン・カレムも暗殺の対象地域(ベツレヘム周辺一帯)であったと考えることは可能です。
このマタイの話から派生して、「ヤコブ原福音書」22章に、このような話が記されています。(なおこの「ヤコブ原福音書」は、前回の受胎告知の記事でも登場しました。)
母エリザベトは生まれたばかりの洗礼者ヨハネを連れて、ヘロデ王の放った暗殺者から隠れようとします。そして救ってくれるよう、山の前で神に祈ります。
エリザベトの祈りは聞き入れられ、山が割れて彼らを取り込み、母子を匿いました。
山が割れた際に、入り口として割れ、エリザベトと洗礼者ヨハネが入った岩とされるものが、この岩だとされています。
関心のある方のために、本記事末尾に「ヤコブ原福音書」の関連部分を引用します。
なおこの訪問教会は、洗礼者ヨハネの両親である父ザカリアと母エリザベトの住んだ家のあった場所だとされていますが、実は彼らの家は二つあったという話があります。
これについては、次回に洗礼者ヨハネの誕生について取り上げる際に紹介します。
⑨参考聖書箇所
ルカ1:39-56
⑩参考外典(ヤコブ原福音書)
ヤコブ原福音書 22章
*脚注1
『Catholic Encyclopedia』(1913年)の「Visitation of the Blessed Virgin Mary」の項には、「ヨセフはおそらくマリアに同行した」とあります。
*脚注2
このエイン・カレムという街は、なぜユダ族のテリトリーにあると言えるのでしょうか?
エイン・カレムはエルサレムのすぐ西にありますが、エルサレムはベンジャミン族の領地にあります(ヨシュア18:28)。エイン・カレムもベンジャミン族のテリトリーにあるようにも見えます。
しかし、エイン・カレムはぎりぎりユダ族のテリトリーなのです。
ヨシュア記15:59で、「ケレム」という町がユダ族の土地として記されています。そしてこの「ケレム(Carem)」という町は、現代のエイン・カレムを指すと広く認められています。(下記Catholic Encyclopediaの「Carem」の項より)
したがってエイン・カレムはユダ族のテリトリーにあり、「ユダの町」(ルカ1:39)であると言えます。
なお上記のヨシュア記15:59の後半は、マソラ本文やラテン語訳・ウルガタにはなく、ギリシャ語・七十人訳にのみ存在するものです。
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