スーツおやじの話

※この話はフィクションです。


「マイセンスーパーライト」
 またスーツおやじである。

 スーツおやじとは。私が定職に就かないまま、そして就職活動もうまくいかないまま、かれこれ5年アルバイトをしているコンビニに度々やって来る、スーツを着た40代くらいの男性である。


 しわしわでよれよれのスーツを着たおやじ、なのでスーツおやじ。我ながらセンスのないあだ名と思うが、ハゲているわけでも悪臭漂うわけでもない、言うなれば特筆すべき何かがないオッサン、がしっくりくるので仕方ない。強いて言えば「『メビウス』という名前に変わったことは俺には関係ない、俺はマイルドセブン(略してマイセン)と言い続けるぞ」という固い意思と、決して番号で注文しようとしないその姿勢だろうか。その頑固さゆえ、例えばもし彼の周りに結婚などで姓が変わった人がいても旧姓で呼び続けるのだろうか。

 とか考えながら背後のタバコが陳列されている棚から該当のメビウスを取り出し、カウンターに置く。一瞬にして消える。いや、スーツおやじが手で取り、ポケットに入れたのだ。目にも止まらぬ速さで獲物を捕らえる野生動物を彷彿とさせる。
 紙幣を受け取り、レジの機械に埋め込まれた数字ボタンを叩く。その間も彼は、カウンターに置いた指をトントントントン、とリズミカルにカウンターを叩いている。指が喋っている。「早くしてよ。」

 それなら電子マネーやらクレジットやら方法はあるだろうに、と思いながらお釣りを数える。ちょっぴり遅くしているのはせめてもの反抗だった。「番号で言わない」「旧名で注文」「急かす」という行為をされて変わらぬ穏やかな心で接客できるほど私は「できた人間」ではない。私の心が狭いのだろうが、別にどうでもよかった。それにそんな態度を取るのは私が弱々しい女だからなのかもしれない。尚更だった。


 お釣りを渡すと同時に自動ドアへと早歩きで去っていく。いつだったか、仕事で急いでいるのだろうかと思い、お客さんが店内にいない時、何度か彼を追ったことがある。果たして彼は店の前で一服していた。ではなぜ急ぐのか。今のところ答えは出ていない。

「スーツおやじ、行きました?」
 レジからバックヤードに通じる扉が少しだけ開く。顔を覗かせて私に聞いてきたのは、2週間ほど前からここでアルバイトを始めた鏑木(かぶらぎ)さんだ。
 彼女は近所の大学の1年生で、普段やっているカフェのバイトに加え、夏休みの今だけここで働いている。肩まで伸びたサラサラの髪を後ろで束ねており、長いまつ毛と整った鼻筋や唇は、さながらお人形のようだった。事実所属しているサークルや働いているカフェでも、男子陣から絶大な人気を誇っているそうだ。
 安っぽい制服と綺麗な顔立ちはなんともミスマッチで、そこがまた男心をくすぐるのだろう、仕事中に何度か客からナンパされているところを見かけた。彼氏はいないそうだがその度に丁重にお断りしていた。
 スーツおやじについては、彼女がレジに入って本格的にレジ打ちをするようになってから私が警告していた。といっても風貌と、いつも同じ銘柄を買っていくこと、急かすこと、だけだが。

「行ったよ、多分まだ外にはいるけど」
「厚木(あつぎ)さんがいる時で良かったです」
「スーツおやじは私に任せてよ、と言いたいところだけど、いつかは当たると思うから、それまでにレジ打ち、慣れないとね」
「努力します」
 敬礼のポーズを取り、つられて私も敬礼した。「なんで厚木さんもするんですか」2人でガハハと笑う。


 事件、ではないのだが、そんな可愛い後輩が痛めつけられるという私にとっては悲しい事件が起きた。

 私が休みの時、運悪く彼女がレジに入っていた時にスーツおやじがやってきたそうなのだ。「銘柄はメビウススーパーライト」の1点は彼女に教えていたので、そこは問題なかったのだが、その後問題が起きた。
「あと、『わかば』と『パーラメント』」
 なぜいつものメビウス1個ではなかったのか、なぜわかばとパーラメントを突然購入したのか。全ては謎だ。

 問題のメビウスは場所を把握していた鏑木さんだったが、この2つは把握できておらず、棚を順繰りに探し始めたのだ。
 しかしそれで瞬時に見つかるわけもなく、スーツおやじは痺れを切らし、店中に響き渡る声で
「遅えよ!」
 と叫んだのだという。

 隣のレジで別のお客さんの対応をしていた同じアルバイトの高校生の男の子曰く、鏑木さんは泣きそうになりながらもたばこを探していたという。不運なことにその男の子もバイト入りたての慣れない状態だったため、レジ打ちでいっぱいいっぱいで、助けに入れなかったそうだ。
 結局時間をかけてやっとこさ残り2つのたばこを渡してお釣りを渡すと、スーツおやじは舌打ちをして店から出て行ったのだという。
 つまり、人からすれば痛めつけられたというよりは大声でどやされた「だけ」なのだが、その「だけ」が私には許せなかった。あんなに可愛い後輩にむかってなんてことを、という憤怒と鏑木さんは大丈夫だろうか、という心配で胸がいっぱいだった。


 その話を聞いた翌日、鏑木さんと出勤が被ったので彼女を慰めようと近づくと、意外にいつも通りの様子だった。
「おはよう。大丈夫だった?その…スーツおやじ…」
「あ、おはようございます。いや、まあ大変でしたけど、でもその後ちょっと不思議なことというか、良いことというか、あのー、ちょっとあったんですよ」


 彼女の話では、こうだ。
 スーツおやじが出て行った後、後ろに並んでいた男性の番になり、商品の入ったカゴをカウンターに置くと同時に
「すみませんでした。本当に」
 と、謝られたのだ。
「え、何がですか」
 見ると「冴えない男」という言葉がぴったりの、30歳くらいの男性が立っていた。髪を額の真ん中でかき上げた、無造作な髪型が悪い意味で似合う、お世辞にも2枚目とは言えない男だった。
 ここで「例えるなら『インディーズバンドのボーカル』って感じがぴったりです」と鏑木さんは例えたが、私はピンとこなかった。

「いや、さっきの男性」男は話し続ける。
「お知り合いなんですか?」手を止めて質問してしまう。
「あ、やりながらで、大丈夫ですよ」
 微笑みながら手で促す仕草には急かす様子など感じられず、スーツおやじに怒鳴られた時とは別の意味で泣きそうになったらしい。
「知り合いではないんですけど、男性代表として、やっぱり、申し訳ないから」
 謎の理由に「?」のマークが大量に頭の中で踊り出した。
「いやお客様は悪くないわけですし」
「まあそうなんだけど、ほら、関係なくても誰かから謝られると、少しスッとしませんか?」
「そういうものですかね」
「そういうものです」

 お釣りを渡しながら彼女は、ナンパかと思い身構えたのだという。弱っている女性につけ込むのはナンパや口説きの常套手段だからだ。
 ところが彼はお釣りを受け取り、「それじゃ」とだけ言って店を出て行った。
 その頃にはスーツおやじに怒鳴られたことよりも、この「関係ないにもかかわらず謝る」という謎の行動を取った男性のことが印象的すぎて、そこまで落ち込むことはなかった、ということだった。

「それで面白かったのが」
「面白かったのが?」
「その人もスーツを着てたんですよ、しかもスーツおやじとすごい似てるやつ」
「スーツ男だ」
「スーツおやじからあやかってるみたいで嫌なあだ名ですけどね」
「じゃあ、スーツマン」
「スーツマン、なるほど…?」
「なんだったんだろうね、その人は」
「謎ですね」
 その後、話は彼女の所属するサークルの小旅行の話になり、次第にスーツマンのことは忘れていった。

 それから数週間後、いつものようにレジに立っていると、怪我でもしたのだろうか、漫画みたいに、頭と手に包帯をぐるぐる巻いた男性がやってきた。
「すみません、23番のたばこを1つください」
 かしこまりました、と言って23番のメビウススーパーライトを取り、渡す。
 そこで気がついた。スーツおやじだ。


 なぜ気がついたかというと、メビウスの銘柄もそうなのだが、渡す際に「なんとなくこのお客さんが着ているスーツ、あのスーツおやじの物に似ているな」というふとした発想からである。ここで改めて顔をまじまじと見てしまう。
 
 漫画でよく見る、頭を包帯でぐるぐる巻きにする形で頭部が包帯で隠されており、目の上は晴れ、真紫色になっていた。
 面影がほぼ消え失せているが、この顔立ちはたしかにスーツおやじである。何よりしわしわよれよれのスーツがあのスーツおやじであることを裏付けている。しかし今の彼は人間から虐められ人間に恐怖を覚えた保健所の犬のようで、何より彼の口から「マイセンスーパーライト」の単語が出てこないのはなんだか不思議な感じがした。

 ふと彼が財布から千円札を取り出す所作を見て、血の気が引いた。
 左手で財布を持ち、右手で紙幣を取り出しているのだが、包帯の巻かれた左手、これが拳骨の上から包帯を巻いたように、親指以外の指が折り畳まれているかのようだった。
 と思ったのだが、拳骨にしては厚みがない。言ってしまえば「4本の指を切り落として包帯を巻いたらこんな風になるんだろうな」という具合である。

 なぜスーツおやじがそんな手になったのか、顔面がボコボコなのか、考えながらレジに千円と打ち込み、お釣りを渡す。答えは出ない。かわりに、ひょこひょこと足を痛めているのだろうか、かつての早歩きの面影もないスーツおやじが店から出て行っただけだった。

 それから一度もスーツおやじは来ていない。
 結局夏休み終了と同時に鏑木さんはバイトを辞め、私は晴れて事務職に就くことができた。

 スーツおやじがどうなったのか、あのスーツマンは何だったのか。大怪我をしていたスーツおやじとスーツマンは関係していたのか。

 今となってはわからない。ひとまずあのスーツマンはインディーズバンドのボーカルでないことだけは、なんとなく漠然とした確信があるのだった。


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