働き方に効くブリーチありますか
このマガジンでは、まとまりきれてない考えごとの断片を置いていきます。
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「セルフブラック」という働き方を知っていますか?
それぞれはごくホワイトな勤め先であるにもかかわらず
それを3つも4つも組み合わせることによって
自らに長時間労働を課してしまうという、
2020年にその存在がまことしやかに語られ始めた、
サンプル数は私1件の、
新しい社会現象です。
1月3日の仕事初めから昨日の2月15日まで、炎の44連勤。
正月の記事で「死亡フラグ」などと言っていた1月をなんとか乗り越えて、延長戦的な展開になった2月前半をぎりぎり生き延びて、今日こうしてこれを書けていることを、誰にともなく、たぶんお釈迦様あたりに、感謝したいと思うのです。
どうしてそんなに働くのかと問われれば端的には「払うべきものがあるからだ」ということになるのだけれど、その事情とはまた別に、仕事が力のぬけない展開になってしまったというところも確かにあって。
塾での受験生たちとの追い込みも然り、NPOでのチームづくりやビジョンづくりも然り。
去年の秋ごろに立てた「求められる場所で誠実に働き、足るを知りて貪らず、滅びるときには潔く滅びるべし」という誓願を胸に、求められていると思えるだけ働いていたところがこの展開。
こんな半端者を使ってもらってありがたい話ではあるわけだけれども、必要以上に「滅び」を手繰り寄せることのないようには警戒すべしとまた新たな誓い。
正月の読書用に買ったはずの『漂白される社会』(開沼博,2013,ダイヤモンド社)も今週ようやく読み終えたのだけれども、booksのマガジンに書くにはちょっと今日の体力がなくて断念。
歴史学者・網野善彦の「無縁」概念を思索の皮切りに、売春島、偽装結婚、ホームレスギャル、シェアハウスと貧困ビジネス、ギャンブル、ドラッグといった社会の「周縁的な存在」に迫っていくフィールドワーク。
「周縁的な存在」が現代に残る「無縁」の一つの形態だとするならば、それが本来見せていた「人の魂をゆるがす文化」や「生命力」も衰えつつあると言える。ただしそれは、凄まじい権力者や巨大な資本による抑圧、虐げを伴うダーティーな陰謀によってなされるのではなく、「自由」と「平和」を求める人々の、あるいは「豊かさ」を求める人々のピュアな欲望によって、自動的かつ自発的に構築されていく。
「偏り」や「猥雑さ」を指す「色物」「色事」の<色>が、不可視化され、見えなくなっていく現象を意味する<漂白>というその名付けと、その背景に巨大な権力や資本の力ではなく人々の「欲望」を据えるその視角に、開沼さんの社会学者らしい手さばきを見るのでした。
しかし、開沼さんと言えば『はじめての福島学』(2015,イーストプレス)での「福島へのありがた迷惑12箇条」がどうにも印象が強くて、出身者である氏によって打ち建てられた<当事者性の壁>は、少なからぬ人の、福島を「知ろう」「見よう」とするその視線を遮ったんじゃなかろうかと思っていて。
時間が経つにつれて、徐々に落ち着いてきつつありますが、それでも、根強く、「滑った善意」にもとづく「勉強」「情報発信」はあります。それならば、大変残念なことではあるけれども、何もしないでおいてもらったほうが、まだ迷惑ではないのかもしれない。
福島が「周縁的な存在」と呼びうるかは微妙かもしれないけれども、「何も語ってくれるな」と拒絶のポーズをとることは、福島の<漂白>に加担することではなかったか。
あるいは『漂白される社会』の12章のルポルタージュも、いかに誠実に取材し執筆しようとも、当事者からすれば「ありがた迷惑」を実践してしまっている可能性も否定できないのであって、そこに矛盾はなかったか。
時系列的には『福島学』の出版が後だけれども、そんなことが気になったりしたのでした。
でもとりあえず、本の読める生活が戻ってきてよかった。
もうすぐ冬も終わりそうであるし、静かに春を迎えて、僕の働き方も「漂白」したいと、そう思うのでした。