前時代の人間になるみなさんへ
"平成"が終わる。
残り32日だって。
単に元号の改正だって割り切ってしまえば簡単だし、たぶん地続きの日常は変わらない。それでも、平成に生まれて平成にしか生きたことのない私たちにとっては、ちょっとしたビッグニュースである。
自分たちの人生をすべて内包してくれた平成が終わる。
私たちは前時代の人間になる。
それに際し、ちょっと自分なりの「平成とはなんだったのか」を考えてみた。
ものごとの境界が曖昧になった時代
私は、平成を、ものごとの境界が曖昧になった時代だと思っている。
性別も家族も仕事も結婚も…今まで当たり前だったカテゴリを疑い、その境界を緩め、様々な人・価値観を受け入れようという考え方ができた時代だと思っている。
例えば、わかりやすいのが結婚。
平成まではざっくりといえば主に男性・女性の2つの性だった。女性は男性を好きになり、男性は女性を好きになり、大人になってタイミングが合えば結婚する……。そういう考え方が当たり前だった。
でもここでふと思う、
どうして結婚は男女ですることが当たり前になったんだろう?
ちょっと堅い話になるけれど、結婚の歴史を遡ってみる。
武士の時代からあった家父長制(父親が絶対的な権力によって奥さんや子どもを支配・統率する家族形態)が敷かれることによって夫が稼ぎ、妻がそれを支える、もっと暴力的にいえば妻は子どもを産むことが至上使命!の価値観ができあがっていく。明治に入ると、武士のみに適用されていた家父長制は庶民にまで浸透し、お父さん絶対主権・家族はそれに逆らってはいけないという考えが強まっていく。ここで国民全員に対して広く「家族」という最小の社会構成が強固なものになった。戦後、憲法に結婚は男女平等と明記されたが、戦前の考えはベースに踏襲されたまま、今日まで至る……
ふう、乱暴だけどざっと書くとこんな感じかしら。
要するに、結婚とは子どもを産むため、また「家族」という社会の最小構成単位を作るために、男女で行うことが必要だった。そしてそれが普通になり、当たり前になっていった。だから、同性同士が好きになるとか、体と心の性が違うとか、女性も男性も好きとか、社会のカテゴリに対してイレギュラーなことに対しては目をつぶって、見ないふりをして、時には「常識と違う」と攻撃して、社会を運営・維持することに徹していたのだと思う。
でも、今はその形が当てはまらなくなってきた。社会もだいぶ豊かになって、それまでの家族構成も結婚も、従来のカテゴリに当てまらない部分に焦点を当てる時間が来たのだと思う。
ちょっと不自由になってきた紋切り型カテゴリ
平成という時代の中で、私たちは従来型のカテゴリから解き放たれようとした。それはどうしてだろうか?
簡単にいえば、乱暴に区切られた紋切り型のカテゴリ(男女とか夫妻とか学生社会人とか…)に不自由を感じ始めてきたからだと思う。結婚の例で言えば、これらは社会をうまく回すために、歴史の文脈にあわせて行政が敷いた区分であって、一個人の事情を配慮していたわけではない。社会が引いたカテゴリの中に入っているマジョリティの人たちは幸せだけれど、その幸せの裏でそのカテゴリに合わない人たちの歪みが生まれていた。そして、その人たちは、普通の人と同じような社会から与えられる権利を受けられない現実も見えてきた。
これは不自由。
だって、自分の自由に生きれないんだもん。せっかく社会をうまく回してみんなが生きやすくするための仕組みなのに、生きやすくない。だから、私たちは従来からの"〇〇であるべき"と言うカテゴリの当たり前を疑い、今躍起になって声をあげている。
うるさいくらいに言わないと重い腰を上げない社会に対してえい、えい、と焚き付けている。
すべては、生きやすい社会にしたいから。
そのおかげか、社会だってずいぶん変わってきたと思う。
まだまだ途上だけれど、平成初期やその前から比べたら、ものすごく深い深い溝があった男女の差も、結婚や家族という決まり切った概念も、徐々に徐々にその境界が曖昧になってきた。
社会のカテゴリだけではない。昨今では、"男らしさ""女らしさ""先輩らしさ"とか目に見えないけれどぼんやりと私たちを縛ってきたカテゴリにも焦点が当たってきている。私たちは、そのようなぼんやりとした型や縛りにはてなを浮かべて、疑問を呈し、その縛りや境界を緩めることができるようになってきた。
前時代の人間になる私たちへ
私たちは長い時間をかけてその境界を緩めるようにつとめてきた。
もっと一人一人が住みやすい社会に、
もっと個人が生きやすい社会にするために。
でも、次第にその境界を緩めたことによる弊害がかならず出てくる。今だって出てきているはず。例えば、選択肢が増えたことによって、自分で自分の人生を設計していかないといけない、とかね。今までの大手に就職してマイホームを持てば勝ち組、なんていう画一的な幸せはもうなくなった。従来の紋切り型カテゴリを疑った私たちはこれから自らの倫理観で考えて、選択して、生きていかなきゃいけない。それはとてもストレスフルなことだ。
すると、その大変さに疲れて私たちが緩めてきた境界をまた線引きし直そうという人が出てくるかもしれない。または、「人間とAIの区別」とか時代とともに新しい境界が必要になってくるかもしれない。
ここで間違ってはいけないのは、せっかく緩めた境界を変化をさせることが悪なわけじゃないってこと。時代とともに社会の境界は柔軟に形を変えていくべきだと思う。
大切なのは、私たちが従来のカテゴリのままではなく、どうして社会の境界を曖昧にしようと考え、行動したのか、を伝えられるようにすることだと思う。私たちは社会のどんなことに何に嫌だと思い、どのように変えたかったのか。きっとその考えは新しい世代の子たちにとっては、実に古臭い、と言われる時がくる。その時に、当時私たちは私たちなりに生きやすくするための戦い方をしたんだ、と胸を張って言いたい。そして、それは平成を生きた私たちが新しい時代に伝えるべきことなんだと思ってる。
平成が終わる。
あと32日だって、
自分たちの人生をすべて内包してくれた平成が終わる。
センター試験に平成の話題が出て、新元号が決まって、平成は時代から歴史に変化していく。
私たちは前時代の人間になる。
あの平和と激動の平成はなんだったのか、その時代を生きた私たちがそれぞれの視点で言葉で語れる。
そんな前時代の人間になりたいと思うのです。
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ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
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