檀林皇后⑧
文屋宮田麻呂は、承和8年(841年)まで筑前守だった。
承和7年(840年)、新羅の張宝高が朝廷への献上を目的に使人を太宰府に派遣してきた。
張宝高は鎮海将軍という肩書を持つが、官僚や武将というよりも多分に独立性の強い軍閥勢力であった。始めに唐の山東半島で軍閥に入って功を挙げ、後に新羅に「新羅人が唐で奴隷として売られている」と告げて清海鎮大使となった。
張宝高は海賊を討伐するよりも、奴隷貿易をやめさせて海運業に従事させるようにして、大小の海上勢力を吸収していった。後に王族の金祐徵を助け、金祐徵は神武王として即位した。
張宝高のような人物が登場するの゙は、世が乱れているからでもある。日本の朝廷も、「海賊の首領ではないか」と思っていたのかもしれない。
朝廷は、「他国の臣の貢物は受け入れられない」として、宮田麻呂に返品させたのである。
張宝高は新羅の官僚とはいえ、日本との正規の外交担当ではない。非正規の外交ルートを持たないとすればそれは筋の通ることだった。
この文屋宮田麻呂が、謀反の罪で告発されて、伊豆国に流罪となるのである。
宮田麻呂は官職についていないので、官職を利用して張宝高と私的な関係を築くことはできなかった。しかし、官職がなくても私的な関係を築いた場合、つまり私貿易に従事した場合の対処というの゙はなかった。
後の平氏政権が日宋貿易を行ったように、平安時代の日本は私貿易を規制しなかった。しかし私貿易を本音では望んでいなかったらしく、それを江戸時代のように鎖国という形で実現せず、承和の変の余波であるかのように見せかけて、文屋秋津の係累である宮田麻呂を処罰することで、私貿易に対する国家の意志を示したのだと思われる。
嵯峨系と淳和系による両統迭立はなくなり、皇統は嵯峨系に一本化されたが、皇族の連携もなくなり、天皇は藤原氏の娘を娶って、その間に生まれた子を天皇にするということが続くようになる。
天皇家の強化にはふたつの方法があり、ひとつは律令制の強化、もうひとつは皇室の連携だった。
しかし嵯峨天皇による、皇室強化が全て水泡に帰した後に、猛烈な律令制の巻き返しを図る人物が登場する。伴善男である。
伴善男は、最初に善愷訴訟事件で注目された。
善愷は法隆寺の僧である。
当時、法隆寺は聖徳太子の弟、来目皇子の子孫、登美氏の保護下にあった。しかしこの頃、登美氏は法隆寺の財物や奴婢を私物のようにみなして、勝手に売却するなどの専横があった。特に一族の中心人物の登美直名(とみのただな)は、承和11年(844年)には少納言に昇進した。登美直名はその権勢をかさにきて、登美一族の専横はさらに酷くなった。
そこで善愷は、承和12年(845年)、直名を太政官弁官局に告訴した。
審理したのは、左大弁正躬王、右大弁和気真綱、左中弁伴成益、右中弁藤原豊嗣、左少弁藤原岳雄である。このうち正躬王と和気真綱は既に登場した。承和の弁官で伴健岑と橘逸勢を尋問した二人である。
判決は、善愷の主張を認め、直名を遠流に処すというものだった。
ところが、当時右少弁、つまり最下位の弁官であった伴善男は、5点の問題を挙げて、判決の不当を主張したのである。
僧侶が法体のまま訴訟を提起するのは僧尼令で禁じてあった。善愷は僧侶であるの゙に、一時的に俗形を取らずに訴訟を提起したのは僧尼令違反であること。
善愷が提訴した時に一時的に拘束したのは不当であること。
審理の最中に、弁官が直名の有罪が決まっていないの゙に、あたかも有罪と決まったかのように、直名を「奸賊之臣」「貪戻之子」と罵倒したこと。
善愷の訴状を僧綱(僧尼を管理する役職)や治部省を経由することなく、弁官が直接受理したのは手続違反であること。
直名が不当に法隆寺の財物等を持ち出した正確な日時の記載がないのは闘訟律(提訴するにあたり、相手の罪状を正確に挙げる律)違反である。
として、判決無効と5人の弁官の違法行為を弾劾したのである。さらに善男は、5人の弁官が善愷のために「私曲」して直名を罪に陥れたと弾劾したのである。
当時の朝廷の事務慣例において、弁官が直接訴状を受理するの゙は当然のように行われていた。また僧尼令の、法体で訴訟を提起してはならないというの゙は、僧侶はみだりに人と争ってはならないとするところから作られた規定であったが、日本の実情に合わず最初から守られていない法であった。律令制定当時に時間の針を逆戻りさせるような、善男の律令至上主義の発揮であった。
弾劾を受理した朝廷は、明法博士に審議させ、明法博士は5人の弁官を「公罪」として贖銅50斤に処すべきとした。「公罪」とはいわゆる業務上の過失ということであり、贖銅とは罰金であった。
それに対し善男は「私罪」であるとした。「私罪」とは私的な犯罪のことだが、私的な犯罪のために公務を利用したと考えれば、相当に悪質な犯罪となるだろう。
なお、5人の弁官は翌承和13年の除目により、弁官を離れていたが、新しく弁官になった者の中に、権左中弁小野篁がいた。
篁は「私曲を犯していなくても、元々弁官に権限のない裁判を行ったのだから、公罪でなく私罪である」と善男の主張に同意して、太政官もこれを了承した。
善愷訴訟事件を審理した弁官は解官の上、銅10斤を課すことになったが、和気真綱は判決前に死んでいたので、4人が処分を受けることとなった。
当然、登美直名は無罪になった。善愷は罰に受けたと思われるが記録はない。
伴善男は決して正議の人ではない。むしろ目的のために手段を選ばず、人を平気で陥れる人物である。
しかし善男の正議は、誰が善を為し誰が悪を為したかではなく、律令そのものにあった。律令がその人を罪があると判断すれば、それが真実と違ってもその人は悪人であり、律令がその人を罪がないと判断すれば、実際に罪を犯していてもその人は無罪であるというのが善男の信念であるかのようだった。ともかく、承和の変で伴氏は受けた打撃を、正躬王と和気真綱に報復することで返した。
この徹底的に利己的な伴善男が、偶然にも律令制度維持派の最後の巻き返しとなるのだった。
以上、嘉智子とは関係のないことになる。
さらに関係ないことながら、応天門の変までを見ていきたい。嘉智子のしたことにより、律令制の最後の、そして最も強力な守り手だった伴善男がどういう運命を辿ったかを見るの゙は、充分意味のあることだと思うからである。
善男は順調に昇進し、承和14年(847年)には蔵人頭兼左中弁、翌嘉祥元年(848年)に従四位下参議兼右大弁となる。
嘉祥3年(850年)に従四位上、仁寿3年(853年)に正四位下、斉衡元年(855年)に従三位、貞観元年(859年)に正三位、翌貞観2年(860年)に中納言、貞観6年(864年)には大納言となる。大伴氏(伴氏)から大納言が出たのは、大伴旅人以来130年ぷりのことだった。
善男の昇進のための次の狙いは、左大臣源信だった。
善男は貞観6年に、源信に謀反の噂があると言い立てたが、これは取り上げられなかった。
そして貞観8年(866年)3月10日、応天門が炎上する事件が起こった。
応天門は、「弘法も筆の誤り」のことわざで有名な、空海が揮毫した扁額が掲げられた門である。「應天門」の「應」の字の、まだれをがんだれにしてしまったため、空海は筆を投げて点を足したという。
そして応天門は、大伴氏(伴氏)が造営した門であり、大伴氏を象徴する門だった。
善男は右大臣藤原良相に、応天門放火の犯人は源信だと告発する。
応天門は大伴氏(伴氏)が造営した門で、源信が大伴氏を呪って放火したと、善男は訴えた。
良相は源信の捕縛を命じて兵を出し、源信の邸を包囲した。
ところで、藤原良相は藤原良房の弟である。
ならば良房が良相の一味かというよりそうではなく、良房は清和天皇に源信を弁護してかばった。
良相は源信の邸の包囲を解いた。
この件は、5ヶ月間進展しなかった。
ところが8月になって、大宅鷹取という者が、応天門放火の犯人は善男とその子の伴中庸の親子だと告発した。
鷹取は、善男と中庸、それに紀氏でありながら善男の従者となっていた紀豊城の3人が、応天門から走っていくのを見たと証言した。
鷹取は、備中権史生という下級の官人で、善男の従者の生江恒山に娘を殺害され、また自身も負傷して、善男を恨んでいたという。
中庸は、生江恒山と占部田主に命令して、鷹取に負傷させて娘を殺させたという。しかし動機が不明である。
中庸が鷹取の娘の殺害に関与したというの゙は、薬子の変に関与した藤原仲成が、伊予親王の変の黒幕でもあったと後に言われたように、後になって罪をなすりつけられたという心象を私は持っている。ただ本当は善男が鷹取の娘を殺害するように命令したということにしたかったのだろうが、大納言の善男が下級役人の鷹取と争うの゙は不自然すぎるので、このようにしたのだと思われる。まだ若くて官職も低い息子の中庸の命令でそうしたという話にしたのではないかと思う。
いずれにせよ、政敵源信を追い落とす画策をする時期に、従者が殺人事件を犯しているというの゙はうかつな話だとは思う。もっとも護衛でもある従者というの゙は、こういう乱暴な者ばかりだといえばその通りであるし、また生江恒山がこの時まで逮捕されておらず、善男の従者を続けていたというの゙は、平安京に遷都して約70年の間に、相当治安が乱れたのかもしれない。ただ我々はそういう背景を善男からだけ見るから、善男の周辺のみが異常なように見えるのかもしれず、これが一般的な公家と従者の姿だったのかもしれない。