ぶしのはじめ①
天暦10年(956年)、源経基は、淀川沿いに陸路を下り、摂津の多田庄に向かっていた。
上古、この地域の移動は、近世に比べ不便である。
淀川を船で人を運ぶ定期便は、この時代にはない。そのため、人は陸路でも水路でも、移動時間だけでなく、輸送費も差がなかった。
その上この時代、公家は都以外の場所にほとんど用がない。
下級の公家は地方に行く。受領として財を成し、土地を開墾し荘園領主となるためである。上級の公家は国司になっても、遙任といって、自分の代理を派遣して自らは都に留まる。
そのような時代だから、交通の便を整えようとすることもない。
摂津国多田庄、今の兵庫県の東端に行くだけでも、別世界に行く感があった。
もっとも経基は、地方に住む者への差別は少ない方である。
少ないどころか、若い頃は国司として坂東に行き、平将門の乱に遭遇し、将門と戦ったりした。
清和天皇の皇子貞純親王の子として、若い頃は貴族風を吹かしもしたが、その自分が各地の国司を歴任し、最後は鎮守府将軍になるという官歴を送っている。
(何の話になるやら)
と、道々経基は思った。
経基はその館に着いた。
(大きさは、儂の屋敷と変わらんが)
経基は思った。しかし、門に櫓がある。櫓の上に郎党が立って見張りをしている。
(田舎とはいえ無粋な。それに、儂の屋敷の方が雅である)
その館の母屋は単純な切妻造りで、しかも萱葺屋根である。
経基の屋敷は辛うじて檜皮葺であり、しかも流造という、建物の一方に屋根が長く伸びた、庇のある邸宅である。
(こんな田舎で、当世風の無理をすることもあるまいに)
経基は思った。当世風とは、寝殿造のことである。
寝殿造は、菅原道真の献言で遣唐使が廃止されたことにより、この時代の頃に発生した。
いわゆる国風文化の建築面での表れだが、こと建築においては、寝殿造は建築面の自然な変化というより、はしゃいでいたと言っていい。
寝殿造と中国風の邸宅の違いは、まず土間を廃して板敷(フローリング)にし、靴を脱いで屋内に入るようにする。これはいい。
屋根は瓦葺から檜皮葺にする。柱は丹塗りを止めて白木作りにする。これもいい。
良くないのは、屋内に基本的に壁がないことである。
壁に変わるものとして蔀がある。蔀とは格子でできた間仕切りで、格子に板を張って風除けにする。
また蔀の代わりに、遣戸でいう、現代の襖を使ったりする。
蔀も遣戸も取り外し可能である。
屋内の間仕切りは、屏風や几帳、御簾などでする。
建物は柱だけが支えているのではない。壁もまた建物を支えているのである。また防風の役割も大事である。蔀や遣戸では、強風の時にガタガタ揺れただろうし、建物の傷みも早かっただろう。
それでは冬に寒すぎるからなのか、塗籠といって、屋内に小さな、三方を壁で作った空間を作って、夜はそこで寝たりする。
要するに、寝殿造とはアンチ中国なのである。壁さえも中国風として嫌い、使用を避ける。それでいて、冬の寒さなど、実際の不便さには無頓着である。日本の歴史には、海外との交流が途絶された時に、こういう無邪気な反動を見せる時代がある。
(しかしこれを寝殿造と言っていいものか…)
経基は思った。現代では、もっと適当な言葉がある。武家造という。もっとも武家造も寝殿造を簡素化したものであって、寝殿造と武家造の明確な境界線というのはない。
「前将軍、よくぞ参られた」
その館の主は、経基が鎮守府将軍だったことからそう呼んだ。
経基より5つほど齢がいっている。
その男の名は、源満仲という。
「馳走致す。我が館自慢の芋粥である」
と、満仲は言って相好を崩した。
(これは…)
経基は驚いた。天井に届くほどうず高く、芋が積まれ、その芋が大鍋で煮られている。
この時代、貴族といえども食生活は質素で、珍味と言われるものを食べる機会は少ない。
それにこの時代でも、芋粥はそれほど贅沢なものではない。ただ常に食べれるものでないだけである。
『今昔物語集』に、藤原利仁が、五位の者を自らの館に呼んで、大量の芋粥を見せたところ、見ただけで腹がいっぱいになって食べれなかったという話がある。
要するに、豪勢だが田舎じみているのである。
(同じ源氏でも、これほどまでに違うのか)
経基は思った。
ちなみに経基は、このようなもてなしができないということはない。ただ人をもてなすなら、量は少なくても珍味を馳走しようと思う。
女が鍋から芋粥をよそい、経基に渡した。奉公人というより、この日のために近隣の百姓女を集めたようである。
「紹介いたす。我が同胞共である」
そう言って、満仲は自分の兄弟を紹介した。
「満政におじゃる」
「満季におじゃる」
「満快におじゃる」
「満頼におじゃる」
この時代、諱は現代の日本人の名前に近づいている。諱をつける際、兄弟で同じ字を使うことが多かった。
次いで満仲は、一人の子供を紹介した。
「文殊丸におじゃりまする」
と、10歳くらいの子供が挨拶をした。
「この多田庄は大きくはないが、祖父からの荘園でおじゃってな」満仲は言った。
「満仲殿は都に屋敷はおじゃらぬか」
経基は言ったが、そういう経基も少し意地が悪い。満仲が無官であることを知っている。
もっとも、満仲の妻の邸宅はある。この時代、結婚は通い婚によって行うので、男は基本入婿であり、妻の家の財力でもって官職を得て財を成す。満仲も源俊の娘という妻がいた。今回、経基が満仲の館を訪れたのも、源俊の紹介があったからである。
だから満仲には、都に屋敷はある。ただ無官では肩身が狭くて、行きたくないのだろう。
「まろは淳和源氏におじゃる」
満仲は言った。
ちなみに筆者言う。源氏は嵯峨源氏に始まり21流ある。経基は清和源氏である。しかし淳和源氏というのはない。
淳和天皇は嵯峨天皇の弟で、一時嵯峨天皇の子の仁明天皇に皇位を譲ったが、代わりに淳和天皇の子の恒貞親王が皇太子に立てられた。
仁明天皇は自分の子供の道康親王に皇位を譲りたかった。恒貞親王の身を危惧した伴健岑と橘逸勢が、皇太子を東国に移そうと画策した。
しかしそれが、皇太子を東国に移して謀反を起こすという話になって露顕した。承和の変である。
この変によって、恒貞親王は皇太子を廃され、淳和天皇の系統は皇統から外された。
満仲は、恒貞親王の三代目の孫である。
以上のような背景があるため、淳和源氏は除目に預かることなく、満仲の頃には無位無官になっていた。
経基は同情しないでもない。
経基は清和天皇の孫、貞純親王の子である。淳和源氏のような不遇な身分ではない。それなのにその半生をかけても、殿上人になれなかった。
皇族に生まれ、経基王と呼ばれた頃に比べ、落魄の思いが経基には強くある。
「貴公が羨ましくておじゃる」
満仲は眉間に皺を寄せ、首を振りながら言った。その様子がいかにも田舎臭く、率直な印象がある。
経基は、そんな満仲に好意を持った。
「貴公は武勇の誉れ高い」
満仲に言われて、経基は少し気色ばんだ。
経基は平将門と戦ったことがある。
その時は、散々に負けた。経基は京に戻って将門の謀反を訴えたが、逆に経基が罰せられた。
その後、将門が常陸の国府を襲撃し、反逆の意志が明らかになった。経基は征東大将軍藤原忠文の副将として、将門の討伐に向かったが、坂東に着いた時には既に、藤原秀郷によって将門は討たれていた。
実は経基が罰せられていた時に、将門を批判して官職を剥奪されていたのが源俊で、俊が失脚している間でなければ、無官の満仲がその娘に手を出すことはできなかった。そうして源俊と満仲、経基の縁ができた。
そういう苦い思い出が経基にある上に、経基は平安貴族である。武力を見下して成立しているのが平安貴族であり、武勇を讃えられるのは嬉しいことではない。
「貴公は宮中で鹿を射止めたことがあるではないか」
(その話か)
経基はさらに不愉快になった。
宮中の貞観殿に鹿が現れ、帝が怖がって騒然となったことがある。
居合わせた者が刀を抜いたが捕まえられず、弓で射よと言ったところ、経基が一射で捕まえた。
鹿は春日明神の遣いなのにそれが妖怪となって現れたというのは、氏人の誰かが逆心を持っているのではないかと噂されたが、それから数年して、藤原純友の乱が起こった。
経基は純友の乱にも追討使として出向き、多少の功を立てている。
(まろは武者になどなりたくないのに、将門や純友のせいで、皆まろを武者として扱う)
経基は、それが不満で仕方ない。
「このまま俵藤太の一族をのさばらせておいて良いものか」
そんな経基の心を読んだように、満仲は言った。経基ははっとした。
将門や純友のために駆け回らされたのは腹立たしいが、それでも功を藤原秀郷に奪われたのは悔しいのである。経基にはそういう、ないものねだりなところがある。
「それで、御用はいかに」
経基は本題を切り出した。
「わが弟満頼を、貴公の養子にして頂けぬか」
満仲の言葉で、経基は満頼を見た。
30くらいで、親子としての齢の頃は合いそうである。
「変わりに、この多田庄を差し上げる」
と言ったから、経基はぎょっとした。
(この者達、我が清和源氏を名乗りたいのか?)