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【小説】うつせみの代わりに

 まえがき
哲学的SFミステリーです。
ある男が哲学カフェをきっかけに奇妙な世界に巻き込まれてしまうという内容です。
第3話までのとある仕掛けが第4話目で明かされますのでお楽しみください。
どうぞよろしくお願いいたします。

第1話 霜月朝陽1


 ほどなくして、夢を見ていると気付いた。
 3人で何か言い合っているようだが、他の2人は見覚えがない。だけど何故かすごく彼らのことを知っているような、変な感覚だった。
 話し合っている内容も支離滅裂だが、僕たち3人はとても大事なことを熟議していた。自分自身の存在を懸けているような、そんな話し合い。
 スマホのアラームで目が覚めると、先程まで見ていた夢の内容がすでにおぼろげだった。朝の慌ただしさと共に次第に夢を見ていたことさえも忘れてしまった。
 朝の身支度を済ませる。メガネを拭いていると、そろそろ買い換えたいとふと思った。レンズが擦れて少し見づらい。いつ買ったのかも思い出せない。
 今度の休みにでも買いに行こう。5,000円くらいで気に入るのが見つかれば良いが。僕は顔が薄い印象のせいか、メガネを覚えてもらうことが多く、メガネはもはや僕自身と言っても過言ではなかった。誰かと話している時、相手は僕を見ているのか、それとも僕のメガネを見ているのかわからなくなる。話している最中に僕がメガネを外したら、相手は僕を見失うのではないか、とよく分からない不安に駆られることが時々あった。
 西武新宿駅から歩いて10分のところにある職場には、いつも就業開始の30分前には着いている。
 簡単な事務作業と月末の棚卸が主な仕事で、薄給だが忙しくないところが気に入っている。
 気が向いたら水曜日にTOHOシネマズ新宿やシネマカリテで映画を観て帰る。
 今日は帰りに紀伊國屋書店に立ち寄ることにした。
 電子書籍は便利だが、本と思わぬ出会いを果たしたい時はやはり本屋に勝るものは無い。僕のアカウントに対しておすすめの波状攻撃を仕掛けてくるAmazonのやり口に乗っかることもあるが、傾向が偏っていくので時々本屋へ出かける。近い未来には「VR本屋」のように本屋の中に入った感覚になれるソフトが普及するのだろう。
 2階の文庫本コーナーを歩いていると、「哲学カフェ」の文字が目の端に止まった。『哲学カフェを哲学する』という本で、帯には「承認欲求ゾンビたちへ」と書かれていた。
 僕は挑発的な謳い文句には近づかないようにしているので、この手の本は読む気がしなかったが、哲学カフェというのは前々から興味があった。
 誰かと哲学的思考を重ね合わせたり、他の人がどのようにこの世界を見ているのかがずっと気になっていたからだ。
 その時ふと今朝見た夢のことを思い出した。
 3人で話し合っていたのは哲学的な問題についてだったかも知れない。延々と答えが出なかったのは、元々答えのようなものがない問題であり、それでも延々と話し続けたくなるような問題でもあったのかも知れない。
 それこそ自分自身に対する問い掛けのような。自己の問題がそのまま世界の問題へと抵触しているような。この不思議に満ち満ちた世界へと自分を強烈に位置づけるような。そんなことを3人でああでもないこうでもないと、笑い合いながら、時には本気になってムッとしながら、でも互いに高め合いながら、何時間も話し合っていた気がする。
 『哲学カフェを哲学する』を手にし、目次を読み、レジに並んだ。
 帰りの電車の中で読む。
 身体が、背面が、実存の背骨が、少し浮き上がった感覚になった。2mmくらい。前々から哲学は好きだったが、この本はこれまで読んできたどの哲学本よりも、なんというか、面白かった。これまでのが「哲学紹介本」だとしたら、これこそが「哲学実践本」だと言えた。この著者は哲学を実践している。この著者にしかわからない、この著者だけのものである哲学を、誠実に実践している。
 よくある「私問題」は唯我論になったり答えをはぐらかす展開になりがちだ。だがこの本の著者である丸久悠は視点の層がいくつかに分かれていて、上がっていくにつれて思考がごちゃ混ぜになったり洗われたりする。そして読む前と読む後で世界の見え方が変わる。
 「マリオは宮本茂に恋焦がれることが出来るか」という章では、自我を持ったマリオが創造主とも言える宮本茂のことを思考できるか、という問いかけから始まり、マリオがゲーム内で自身を模したゲームを作成することの奇跡と不可能性について書かれている。
 つまり「私問題」の「私」は絶対に核心に迫ることができない愚問であると断言しているのだ。だが、この愚問こそが本質であるとも断言している。
 ほんの触りを読んだだけでここまで引き込まれた本は生まれて初めてだった。これを書いた人のことをもっと知りたいと思った。電車を降りてスマホを取り出し帰り道を歩きながら著者をAmazonで検索してみたが、他に本は出していないようだ。

 家の鍵を開けた瞬間「あ」と思った。スーパーで夕飯のおかずを買って帰ろうと思っていたのだった。今更引き返すのも面倒なので今日はご飯に納豆という最高のディナーにしよう。幸いなことに美味しい本にも出会えたことだし。うっかりミスも何か天啓のようなものに感じられるくらい気分が良い。メガネを外し、手を洗い、うがいをして顔を洗い、タイマーで炊けていたご飯をかき混ぜて蒸らし、ベッドに腰掛けて『哲学カフェを哲学する』をひと撫でした。

 最高のディナーを終えて食器を洗いシャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。本の続きも読みたいが、今日はこのまま思考を巡らせて眠りに落ちたい気分だった。
 横になりながら『哲学カフェを哲学する』の目次にもう一度じっくり目を通した。丸久悠に会ってみたい。いろいろ質問してみたい。出版記念トークイベントとかやってないだろうか。新宿ロフトプラスワンだったら仕事が終わったあとでも間に合うだろうし。
 まどろみの中、TOHOシネマズ新宿のゴジラの爪が脱着式だったらどうしようとか、歌舞伎町から「か」が家出をして武器町に戸籍変更しましたとか、よくわからない思考になりながら、いつの間にか寝ていた。

第2話 霜月朝陽2


 不思議な夢を見た。起きてからも夢の内容を忘れることが無かった。
 それは僕が2人の男と「AIについて」というテーマで話し合っている夢だ。3人はそれぞれ知り合いという感じではなく、初対面同士という感覚まで覚えている。
 2人とはすごく話が合うので、友達になって欲しいとすら思ったが、そこで目が覚めた。
 AIについては物申したい部分が少なからずある。恐怖をあおる記事が閲覧数を稼ぎ、AIに職を奪われることが絶対であるかのように騒がれていて、それに対して反対したい気持ちがずっとある。
 AIが人間の仕事を代わりに実行してくれるのであれば、人間は他のことに時間と労力を費やせばいいのではないか、と楽観的に考えている。例えば大切な人を笑顔にしたり、友達と会う時間を作ったり、地域に自身の能力を提供して、同じように他の誰かから能力を提供してもらうような、そんな環境を作ったり。そんなことに時間と労力を費やせば良い。そこにAIが居ても良いんだし。
 メディアは仮想敵を次から次へと吊し上げ、僕らに「これが次の標的ですよ」と提示することで儲ける組織なのだろう。それが芸能人だったり、どこかの市長だったり、巨額の税金が投入された建物だったりするだけだ。
 AIで便利になったあとで問題になるのは、かつて洗濯機や掃除機を獲得した人間がその後さらに忙しく新たな仕事をしているというこの歪さの方だろう。特に日本人は時間を空けてはならないという強迫観念に縛られているのかも知れない。楽になるために道具を使うのに、空いた時間でさらに苦労をする。現代人の皮肉な姿だ。

 今日は仕事が休みなので誕生日プレゼントに彼女からもらったニット帽を被って散歩にでも行こう。喫茶店で本でも読もうか。それともあてもなく一駅くらい歩こうか。段々寒くなってきたのもあり、天気が良い時は太陽を浴びに外に出たくなる。
 そういえばと思い、哲学カフェについて検索する。夢のこともあったのでAIについて気軽に語り合える場が無いか調べる。池袋駅の近くの喫茶店で定期的に哲学カフェが開催されているものを見つけた。残念ながらAIがテーマの回はやってない。気になるテーマがあったら是非行ってみたいと思った。
 あごひげを軽く整えて寝ぐせ頭にニット帽を被り外に出た。
 少し寒いが不快じゃない。陽が出ていると無条件に「今日は良い日だ」と言ってしまう。
 ふと川が見たくなったので荒川まで歩こうかと思い立つ。その後は赤羽駅まで行って何か食べて喫茶店で本を読もう。そしてぶらぶらして帰ろうか。川まで歩いて30分くらい。僕は意味もなく歩くのが好きだ。目的もなく歩くのが好きだ。彼女のひかると初めてデートに行った時も散歩をした。散歩好きなところも彼女に惹かれたポイントだ。僕に合わせてくれているのかも知れないけれど。

 荒川に着いた。晴れた日の川はほんと綺麗で、近くを歩いている人たちも心なしか穏やかそうな表情を浮かべている。
 川の流れは一度たりとも同じ姿はなく、次の瞬間にはもう下流へと進んでいる。上流から流れてくる水はまだ目の前には存在していない。川を人生に例える人が無数にいるのは、それだけ川や水が大いなる存在であるということなのか。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」というフレーズは誰が言ったんだっけ。
 川の写真を撮る。なんてことはない、ただの川の流れ。そしてなんてことはない人生を過ごす僕。それに彼女も居てくれる。十分過ぎるほどだなと思う。ひかるにLINEで今撮った写真を送った。すぐにスタンプが返ってくる。柴犬が笑顔のスタンプ。
 河川敷でサッカーをしている高校生を眺めるが、点数もどっちが勝ってるかもわからない。そもそも僕はサッカーをよく知らないし楽しいと思ったこともない。ただ高校生が一生懸命動いたり腹の底から笑っているのを眺めるのは楽しい。サッカーは好きではないが、サッカーに全力な彼らのことは好きだ。僕はたぶん人が好きなんだろう。
 もし大雨が降ったら、などと考える。川が氾濫し、河川敷は茶色い圧倒的質量の大水に飲み込まれてしまうだろう。増水した川を眺めるのが好きだ。水量が増した落差の大きい滝を眺めるのも、轟々と心地良い音を放ち続ける渓谷を眺めるのも好きだ。山頂に降った雨が何年も掛けて僕の目の前に辿り着いているという奇跡に想いを馳せる。僕は川を人生なんかに例えたくはない。人生ごときの枠に収まり切らないほどの奇跡が川には溶け込んでいる。その水をすくい上げてみても何も分からない。人間とは生きる年数も、言語も、この世界をどのように感じているかも、何もかも違う。川は人よりもむしろ神に近いと思っている。

 気付くと赤羽駅に着いていた。
 散歩をすると思考が止めどない。AIや川についての僕の考えは誰にも言ったことが無い。ひかるにも。理解されるわけがない、などという傲慢な考えではなく、ただ、誰かに理解して欲しいというものではないからだった。僕の世界観は僕だけのもので、誰かが賛同しようが拒絶しようがどうでもいいしどっちでもいい。
 カレーライスが食べたいとふと思った。赤羽駅は他の駅と同様にチェーン店が多い。味が想像できるチェーン店ではなく、行ったことがない店が良い。スマホに頼らず歩きながら少し遅くなった昼食を食べられるお店を探す。
「霜月さん?」
 急に声を掛けられて驚いて立ち止まる。知らない男が微妙な表情で僕を見ている。人の顔を覚えるのは得意な方ではないとは言え、絶対に関わりがないような男だ。会ったことはないはずだ。それとも整形とか体重増加で変貌してしまった元同級生とかだろうか。黙っているとその男は「あれ?違うか。すみません」と照れながら去ってしまった。
 僕の苗字をなぜ知っていたのかはわからないままで、のどの辺りに気持ち悪さがずっと残ってしまった。カレーライスの気分でも無くなった。歩いて帰るのも面倒になったのでパンを買って電車に乗って帰った。

 今日あったことをひかるにLINEする。
 名前を呼ばれたのは怖いね、と僕と同じことを思ってくれた。
 かと言って今更あの男を見つけ出して問いただすことなどできないわけで、また声を掛けられたらその時に質問してみようという結論に至った。もう会うことも無いだろうけど。赤羽駅の1日の利用者数を考えれば無理もない。今日すれ違った知らない人とは一生会うことはない。僕が上京して学んだことの1つだ。

 僕があの男のことを思い出したのは、僕がもうどうしようもなくなった時だった。

第3話 霜月朝陽3


 今日は最悪の日だ。
 仕事でミスをした。小さなミスなのですぐに挽回出来たが、ミスのイライラが尾を引いたのか同僚のふとした態度が気に食わず、それが表情に出てしまった。あっ、と思ったが時すでに遅く、少し険悪な感じになってしまった。
 この同僚は前々から所作や考え方の点でまったく反りが合わなかったのだが、その積み重ねもあってか僕としたことが攻撃的な面が出てしまった。
 周りの人たちにも気を遣わせてしまう形になって反省している。
 僕は今年で25歳になるが、まだまだ大人になり切れていないということなのか。
そもそもいくつになっても一向に大人になれた気がしないのはどういうことなんだ。
 20歳くらいで感覚が止まっていて、実年齢に感覚が追い付かない。今25歳という現実に新鮮に驚いているほどだ。
 どうでもいいことを考えていると勤務時間があっという間に過ぎていく。他の人は何を考えながら仕事をしているのだろうか。もちろん仕事のことなんだろうけど。他にも何か考えるだろ、普通は。
「霜月くん」
 急に呼ばれると驚く。人を呼ぶ時はその前に何か予兆が欲しいものだと常々思っている。「あ、霜月さん」みたいな。「そういえば霜月さん」みたいな。
 こんなことを考えながら声の方に顔を向けると伊藤先輩だった。
「今来てるお問い合わせに返信しといて」
 いつもにこやかな伊藤先輩は、たしか僕よりも10歳ぐらい上の気の良い先輩だ。

「霜月くんさー、いい加減女の子紹介してくれてもよくない?」
「僕の方がごねてるみたいな感じ出さないでくださいよ」
 そんな緊張感のないやり取りをしてくれる数少ない先輩の一人で、僕は勝手に友達だと思っている。伊藤先輩もたぶん似たような感覚を抱いているだろう。イラつく同僚とはご飯に行かないのに僕のことはよくご飯に誘ってくれるのがその理由。
 伊藤先輩とは現政権の不満や人生の奥深さについて話し合ったり、今期のアニメでベスト1とワースト1は何かについて話し合ったりもする。会社に行くのが苦じゃないのは伊藤先輩がいるおかげ、という理由が5割くらいある。
 いつだったか伊藤先輩に「大人になり切れない以前に、人生を生きている感じがしないんすよねー」とこぼしてみたことがある。彼は、普段社会に放ってはいけないとされている本心を引き出す雰囲気づくりが上手い。
「それはあれだな。魂のアニメを観てないからだな」
 その答えが正しいとは思わないながらも、確かに僕は心を震わせる何かにまだ出会っていないのかも知れないと思った。
 仕事の時は真面目で周囲からの評判も良く、気が抜けている時はとことん脱力し、でもしっかり大人としての厚みのようなものを放っている彼から、僕はまだまだいろんなことを学びたいと思った。彼のアニメ布教演説を聞き流しながら。

 伊藤先輩に誘われて仕事終わりに居酒屋へ。
 今日の仕事のミスについて注意されたり励まされたり、ということは絶対に無く、ただアニメの感想を話したいだけだろう。彼とは仕事の話よりもアニメや映画の話の方が圧倒的に多い。それなのに、というか、だからこそ、というか、彼は誰よりも仕事が早く質も高かった。それに筋トレをしているため身体が引き締まっていて、身長が180cmあるため威圧感がある。なんでも中学生の頃までは身長が低く痩せていたらしい。それが今は威圧感を放っていることに申し訳なさを抱いている、というのが伊藤先輩らしくて好きだ。そしてアニメに救われたことがあるとも話していた。
「アニメに救われた俺がアニメファンの価値を下げる振る舞いをしてはいけない。そんな恩を仇で返すようなことは絶対にしない」
 別段アニメオタクに偏見を抱いていなかったが、あらゆるオタクに対して敬意を払うようになったのは彼のおかげだ。

 押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』は高橋留美子批判である、という伊藤先輩の持論をひとしきり聞いたところで、「霜月くんって哲学カフェって知ってる?」と聞かれた。
「聞いたことあります。行ってみたいなとは思ってるんですけどね」
「絶対に霜月くんに向いてると思うよ。俺みたいな一方的に自論をぶつける奴が居ないし」
「じゃあ絶対に行きます」
 伊藤先輩は笑いながら僕の肩を軽くこづいた。
「いろんな人の考えが聞けるし、いろんな人に自分の考えを聞いてもらえる。ルールは発言を遮らないとか人格を否定しないとかあって。発言しないで聞くのが専門の人も参加していいし」
「伊藤さんは行ったことあるんですか?」
「あるよ。しゃべり過ぎて変な空気になったけど」
「あー」
 容易に想像出来過ぎて笑ってしまった。

 実は池袋駅の近くに哲学カフェを開催している喫茶店があり目星をつけていたのだった。過去に「哲学的ゾンビ」や「魂」をテーマにしていた。このようなテーマに集まる人だったら僕の「生きている感じがしない」という人生観についても共有しやすい気がした。
 丁度今月も哲学カフェが開催されるそうなので参加予約してみようか。伊藤先輩を連れて行くのはやめておこう。彼とは二人きりでとことん話し合う間柄で居たい。喫茶店で彼の大演説によって変な感じになる人たちの姿も見てみたいが。

 決して安くはないはずだが今回も伊藤先輩に奢られてしまった。奢ってやる代わりに勧めたアニメ見ろよ、と言われるのだが、僕には一切のマイナスが無い。なぜこんな素晴らしい人物に彼女が出来ないのか。きっと政治が悪いんだろうな。きっとそうだ。

 家に着く。シャワーを浴びて一息つく。スマホから哲学カフェの予約サイトを確認した。「サンセットムーンライズ」は池袋駅から徒歩5分くらいの場所にある喫茶店で今回のテーマは「あなたは本当にあなたですか?」。僕がいつも感じている「生きている感じがしない」というこの感覚について話を聞いてもらうチャンスはあるだろうか。すごく面白そうなテーマだけに、集まる人によって面白さが損なわれてしまったら残念だ。1人で演説を始めてしまう奴が隣に座ったらどうしよう。僕が制する役目になってしまうんだろうか。哲学カフェについてさらに調べてみると、どうやら司会役としてファシリテーターと呼ばれる人物が進行するらしい。演説する人が居たらファシリテーターに任せよう。でももしこのファシリテーターが傾聴スタイル100%だったらうるさい人を制することもしないのかも。悩みは尽きない。さすが哲学カフェだぜ。
 そこまで考えたところでいつの間にか眠ってしまったようだった。
 部屋の明かりを付けっぱなしだったことに気付いてまどろみから目を覚ましたのは深夜2時だった。

第4話 哲学カフェにて

 サンセットムーンライズに到着し、入口で予約名を告げる。
 受付の店員が僕の顔をまじまじと見つめ険しい顔をしながら予約表をチェックした。
 店内は少し騒がしく、男2人が大きめな声で話している。驚きと喜びが混じったような声だった。
「マジでこんなことあります?!」
「いやー信じられないねー」
 店主と参加者に挨拶しようとお店の奥に進むとその2人は居た。
「あ」
 3人同時だった。もう「あ」としか言いようがない。言葉に詰まって3人の動きが止まった。
 僕とまったく同じ顔した男が2人、僕のこと見つめている。背格好も同じで、違いは服装。そして1人はメガネを、もう1人はあごひげを生やしている。
 哲学カフェというあまり人が集まらないようなイベントに同じ顔をした人物が3人集合する確率ってどれぐらいなんだろうか。雷に打たれる確率よりも低いんじゃないだろうか。
 しかも恐ろしいことに僕ら3人は名前まで一緒だった。フルネームが一緒ということだ。霜月朝陽。こんな名前で3人同時に被ることはあり得ないだろう。同じ顔で同じ名前の男が3人。足の力が抜けそうになる。
 今日の哲学カフェ【第13回】テーマは「あなたは本当にあなたですか?」というもので、今この状況に陥った僕からすると全然笑えない。
 もしかして生き別れになった3つ子なのか?でも同じ名前になることなんてあり得るのか?生き別れになったけど偶然同じ名前を付けられた3人なのか?アメリカのゴシップニュースとかで話題になりそうだな、と他人事のように考えていた。
 僕と同じ顔をした男(あごひげ)が「3つ子じゃなく6つ子かもよ」と真剣な顔で言う。
 そしたら同じ顔をした男(メガネ)が「おそ松さんじゃん」と突っ込んだ。僕が突っ込みたかった。思ったよりも深刻そうではないのは、僕よりも先に同じ顔同士で一盛り上がりしていたからだろうか。
 他の参加者たちは僕ら3人の他に4人居て、僕たちに対してそれぞれ好奇心をあらわにする人が居たり、哲学カフェどころではない盛り上がりに対してしきりにスマホで時間を確認し主催者(喫茶店の店長)に目配せする人が居たりと、反応は様々だった。進行役であるファシリテーターは本日のテーマに合わせたかのような僕たちの出現は大歓迎という感じで話に加わってきた。
「とりあえず哲学カフェ始めます?」
 僕が切り出してみると、即座にファシリテーターは、
「要らない要らない。君たちの存在がすでに哲学なんだから」
 と興奮気味に言った。

 ファシリテーターは『哲学カフェを哲学する』の著者で丸久悠という方らしい。
 僕と同じ顔をした男(メガネ)が丸久さんにサインをお願いしている。「霜月朝陽メガネさんへ」と書かれていた。あごひげと僕にもサイン入りの著書を差し上げますとのことで、それぞれ「霜月朝陽あごひげさんへ」「霜月朝陽プレーンさんへ」と書かれていた。僕だけ小馬鹿にされてないか?と思ったが、メガネもあごひげも「いいなプレーンって呼んでもらえて」と羨ましがっている。嬉しいか?プレーンだぞ?

 丸久さんが進行役で「あなたは本当にあなたですか?」というテーマで話し合うのだが、他の参加者もやはり僕たち3人が気になるようで、想像していた哲学カフェとは大分イメージが違うものになってしまった。他の参加者には申し訳ない。僕が申し訳なく感じることでもないのだが。ここに伊藤先輩も居たらさらに収拾がつかなくなったことだろう。
 メガネとあごひげが話しているところを見ていると段々気持ち悪くなってきた。僕は本当に僕なのか。生きている感じがしないという僕の悩みは彼らも感じたことがあったのだろうか。僕の悩みは僕だけのものなのだろうか。
 顔が似ているのもそうなのだが、僕が気持ち悪く感じたのは彼らのしゃべり方や発声法だ。僕が隠し撮りされた映像を見せられているような、僕は普段こんなしゃべり方をしているのだと指摘されているような、そんな居心地の悪さがずっとつきまとう。
 非日常に突き落とされたせいで意識しないままだったが、やはり同じ顔と名前が3人集まるというのがそもそも気持ち悪いではないか。なぜみんなこのことを無視して哲学カフェを進めていけるのだろう。二人は実は僕の顔をしたゴムマスクを着けていて、僕の名を騙り、僕を笑い者にしようとしているのでは。
 でもそんな考えはすぐに打ち消す。まず意味が無いということ。芸能人相手にするのならドッキリ番組という可能性もあるだろうけど。そして、彼らのしゃべり方や発声法は、やはりどうしても僕としか思えないのだった。

 哲学カフェの性質上仕方がないことだが、当然のように「あなたは本当にあなたですか?」という哲学的問いへの答えなど出ない。もちろん「人生を生きている感じがしない」という悩みに対しても誰も答えなどくれない。
 もし僕が今日ここに来なかったら、メガネとあごひげは2人で仲良く奇跡的な出会いを分かち合い、哲学カフェ自体もメガネが敬愛する丸久さんの進行により濃密な時間が過ぎていったのだろう。僕も彼らのことなど知らずに、相変わらず伊藤先輩とああだこうだとくだを巻いて過ごしたのだろう。
 だが現実として僕たち3人は出会ってしまった。この世界は面白いが大抵の場合面倒臭いものだな、などとアニメのセリフっぽく吐きたくなってしまう。

 あごひげの発案で、僕たち3人と店長とでLINEグループを作った。
 表示名は「メガネ」と「あごひげ」にした。きっと彼らは僕の表示名を「プレーン」にしていることだろう。
 だが表示名変更は数日後には無駄となった。
 「メガネ」が消えたのだ。

第5話 現場へ

 メガネと連絡が取れなくなって1週間が経った頃、店長から「住所を教えるから見てきてくれないか」と打診された。
 哲学カフェの予約時に参加者は住所と連絡先を記載していたのだ。メガネは「哲学ゾンビ」という名前で予約したらしい。ちなみに僕はそのまま「朝陽」で予約した。
 メガネが嘘の情報を書いていたら意味は無いが、住所を検索すると実在する建物だった。メガネは東武東上線の朝霞駅付近に住んでいるらしく、行くのはそれほど苦じゃない。
 あごひげはJR埼京線の北赤羽駅付近に住んでいるとのことで、店長の申し出にサンリオキャラクターのOKスタンプで即答していた。
 あごひげといつにするかスケジュールを合わせていると「彼女も連れて行くことになった」とチャットが届いた。「連れて行っても良いか?」ではなく「連れて行くことになった」という言葉から、おそらく彼女に怪しまれているのだろうと少し同情した。
 だがそれ以上に僕に彼女がいないのにあごひげには彼女がいるのかと思うと意味も無く腹が立った。
 でも冷静になってみると「顔と名前が同じ奴が3人集まって、その内1人と連絡が付かなくなったから2人で家まで行く」という説明で納得する彼女がこの世にいるわけがないよな、とも思った。
 それで納得するような彼女は、異常に理解があるか、すでに恋人に対し興味を持ってないかだろう。
 あごひげの彼女を見てみたいという興味もあり僕はサンリオキャラクターのOKスタンプを返した。あごひげと同じスタンプを昔僕も買っていたのだった。

 メガネ宅へ行く当日、池袋駅西口で朝10時に待ち合わせをした。
 9時50分にはお互い到着しており、あごひげの彼女に軽く自己紹介をする。
「霜月朝陽です。この度はご足労いただきありがとうございます」
 なんと言っていいかわからず丁寧に挨拶をした。
「いえいえ!勝手についてきただけなので!ほんと同じ顔ですね!」
 あまりの元気さに圧倒される。
「声も一緒だー。ねぇ」
 僕ではない霜月朝陽(あごひげ)の手を握り楽しそうだ。女性の名前は星河ひかる。
 身長は160㎝くらいで肩ぐらいまである髪を後ろで一つに結っている。年齢は25歳で同い年。その割に幼く見えるのははつらつとした元気さと飾り気のない髪形のせいだろう。
 涼し気な目元が印象的で、笑うと目が線になるところが愛嬌があって年齢性別問わず誰からも好かれそうな印象だ。
 この2人と仲良くなっておけば女友達を紹介してくれるかも知れない、というセカンドミッションを自分に課しながらメガネ宅へと向かった。達成したら伊藤先輩に自慢しよう。

 メガネの生活圏に入るということで、あごひげにはサングラスとニット帽を用意してもらった。僕はそのままの恰好をして歩く。メガネの知り合いが勘違いして僕に声を掛けてきたら何か情報を聞き出せるかも知れない、という店長の発案だった。同じ顔が二人いたら声を掛けづらいかも知れないので、あごひげには顔を隠してもらったのだ。だが特に声を掛けられる事もなくメガネ宅へ到着した。
 郵便受けには「霜月」と書かれていた。メガネの家でほぼ間違い無いだろう。家族と暮らしていたらと不安だったが見た感じ単身者向けアパートのようだ。
 部屋の前に立つと僕たちの緊張感はピークに達していた。これまで誰も口にはしていないが、もしメガネが孤独死していたとしたら。もちろん通報をしなければならないが、諸々を説明し切れる気がしない。それに、自分と同じ顔と名前の男の死体を見たくはない。
 電気メーターを見るとわずかに動いており、中に人が居ないであろうと予想できた。あごひげも同じ考えらしく電気メーターをチェックしていた。
 インターホンを鳴らすと主の不在を知らせるかのように渇いた音が響いた。生命の雰囲気が一切感じられないような反射音がずっと部屋の中にこもり、そして段々音が小さくなっていった。
 ドアノブに手を掛けると施錠されておらずあっさりドアが開いた。
「入ろう」
 あごひげが小さく、だがみぞおちに響く声で言った。ひかるは身体を縮こまらせてあごひげの手を強く握っている。
 僕は小さくうなずくとすばやく扉を開け玄関に足を踏み入れた。泥棒ではないが誰かに見つかったらもう言い訳が立たない。そもそもメガネが在宅中で鉢合わせしたらかなり気持ち悪がられそうだ。もし僕らのことが嫌になり連絡を断っていたいたとしたら。でもだったら一言くらい何か言って欲しかった。などとわずか数秒の間にいろんな思考が駆け巡った。

 部屋に上がると床の上にスマホが置いてあるのが目についた。その横に彼が掛けていたメガネも置かれている。懸念していた不快な匂いは、無い。
 整理された部屋で、掃除も行き届いている。それゆえに床に落ちているスマホとメガネが強烈な違和感となっている。
「スマホを置いて出かけるか?」
「メガネまで外してね」
 あごひげとひかるが推理を始めたようだ。僕は他に手がかりがないか部屋の中を物色する。サイン本『哲学カフェを哲学する』が置いてある。何気なくパラパラとページをめくる。
 同じ顔と名前同士、何か通じ合う物があるかと思ったが、僕の直感が働くことは無かった。僕と趣味が合う物があったり、全然興味が無い物が飾ってあったりする。
 念のためユニットバスの中も確認したが何も違和感は無かった。
「あ」
 あごひげが何か気付いたのか小さな声を上げた。
「何かわかった?」
 なかなか切り出さないので話を向けると「何が?」という顔をしている。
「あっ、て言ったからさ」
「昼ごはん何食べようかなと思って」
「まぎらわしいな!」
 一応突っ込んでおいたが、なんとなくあごひげが嘘をついているように感じた。それはひかるも同じようで、様子をうかがうようにあごひげの顔をチラチラ見ている。
 僕は会話中にあごひげが意識的に顔を向けていない箇所があったので、そこに何かがありそうな気がした。

 その後20分ほど部屋の中を調べたが失踪の手がかりになるようなものは何も無かった。僕らは収穫が無いままメガネ宅をあとにした。玄関から出る時は入る時以上に緊張した。誰と鉢合わせしても怪しまれる気がした。そんな心配は杞憂に終わり玄関を出て、少し急ぎ足で駅に戻った。気温が低い予報だったはずだが、身体が内側から熱くなっているのを感じる。足の裏も燃えるように熱い。
 店長に収穫が無かったことをLINEで報告し、そのままお店へ向かった。
 再び池袋駅へ。ポムの樹でオムライスを食べたかったが店長がオムライスを作ってくれるということなのでしばし我慢をする。ひかるは店長の申し出に対してにこにこの笑顔で喜びを表現している。
 お店に着くと店長が「おつかれー」と言いつつ僕らにオムライスとスープを振る舞ってくれた。
 オムライスは少し固めの卵で包まれていてケチャップが掛けられている。中はチキンライスになっていて、思わずほほが緩みそうになるほど美味しかった。一口食べた瞬間に僕たち3人は美味しさのあまり顔を見合わせたほどだ。
 おなかがすいていた僕たちはあっという間にすべて平らげた。その間に店長からの質問に短く返事をした。
 あごひげが食べ終わると「店長お店出せますよ」と真面目な顔で言うので、僕は「もう出してっから」と間髪入れずに言う。
 僕はもうあごひげのボケスピードを掌握したと言っても良いだろう。そのやりとりを見てひかるが髪を揺らしてけらけら笑う。

 あごひげとひかるは先に帰り、僕はメガネ宅から拝借してきた『哲学カフェを哲学する』を取り出しページをめくる。メガネは本に直接書き込むタイプらしく、本を綺麗な状態で保管しておきたい僕とは正反対なタイプだとこの時知った。そもそも僕はメガネのことをほとんど知らないのだが。
 さらにページをめくると「自分は本当に自分か?」と殴り書きされた紙が挟まっていた。僕らが参加した哲学カフェのテーマと似た言葉だ。メガネが書いたのだろう。
 考えたくも無かったが、メガネは自殺してしまったのだろうか。特に哲学的なものへの好奇心が強い彼は、僕らとの出会いを契機に生きる活力を失ってしまったのだろうか。
 だけど、とも思う。僕自身自殺しようと思っていないし、きっとあごひげも自殺する気など無いだろう。あの日丸久悠が目を輝かせていたように、僕らに訪れた奇跡的で奇妙な出会いはメガネを魅了したはずだ。好奇心が刺激され日常が打ち壊されたはずだ。自殺なんてもったいないことを、彼が選ぶとはとてもじゃないが思えないのだ。
 そう。不謹慎ながら僕は今の状況にわくわくしている。メガネがひょっこり現れたら、あごひげも交えて3人でとことん話し合いたい。「お前は本当にお前なのか?僕ではなく」と。メガネはなんと返してくるだろうか。LINEをチェックしたが、メガネからの反応はいまだに一切無かった。漠然と、メガネから返事が来ることはもう二度と無い気がした。
 そして、さらに最悪な事態に陥るとはこの時は思いもしなかった。

第6話 サンセットムーンライズ

 ひかるからの通話履歴が何件も届いているのに気付いたのは昼休みに入る直前だった。
 僕のただならぬ雰囲気を察知した伊藤先輩が「どうした?」と声を掛けてくれた。それに対してなんと返事したかはもう覚えていないが、すぐに会社の外に出てひかるに通話をした。何が起きたのかはすでに分かっていた気がする。答えを確かめるためと、ひかるを落ち着かせるために通話をしたのだ。
「ひかるさん?」
「あっくんが………」
 やはり。メガネに続きあごひげも姿を消してしまった。消されてしまったと考える方が妥当なのかも知れないが、次は僕の番だと思いたくないがあまり、その考えはあえて避けていた。ただ連絡が付かないだけという可能性もある。ひかるから経緯を聞いてみよう。
 状況を整理しながら話すひかるは僕と通話することで段々と落ち着きを取り戻してくれていた。だがひかるが語る不可解な状況を知れば知るほど僕の方は恐怖と混乱が増していった。ひかると通話中でなければ叫びながら駆け出していただろう。
 ひかるの話をまとめるとこうだ。家であごひげとひかるが次の休みの計画を立てていた。あごひげがトイレに立った。彼はトイレのドアを閉めないでする癖があるらしく、ひかるはいつものように閉めるよう注意した。だが何も返事が無く、音もせず、トイレを覗いてみたが誰もいなかった。玄関には鍵が掛かっていて靴も残っていた。外に出てみたが誰も居ない。あごひげはトイレに入ったまま忽然と姿を消したことになる。その間わずか1、2分のことらしい。
 それから警察には通報せずに僕と店長に通話を掛けまくったそうだ。警察に通報しなかった理由を聞いたら「意味が無いと思った」と答えた。これほどしっくりくる回答は他に無いだろう。
 財布やスマホは残されている。トイレはひかるからは死角になっていたとは言え物音を立てずに玄関から出て行ったというのは考えにくいようだ。

 ひかるにこれから「サンセットムーンライズ」に来れるか確認し、念のためあごひげの財布とスマホ、あと手掛かりになりそうな物があればそれも持って来てもらう。
 僕は伊藤先輩に早退したい旨を伝えた。先ほどの状況を見ていた先輩は「あとは気にしなくていいから早く帰んな」と言ってくれた。本当に頼りになる先輩でありがたい。
 果たして僕は今日、無事家に帰ることが出来るのだろうか。職場を出てふと「伊藤先輩とは今のが最後に交わした言葉になるのかも」と思ってしまった。
 外に出ると、この時期にしては冗談なくらい日差しがまぶしかった。嫌な汗をかいていたせいで冷たい風が身体の熱を奪っていく。

 サンセットムーンライズに到着するとひかるがすでに店長と話しているところだった。
 ひかるは僕を見てほんの一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐに絶望的な雰囲気を目元の辺りに漂わせていた。
 現れたのが僕ではなくあごひげだったら、と思っているのだろう。僕がひかると同じ立場だったらたぶんその感情を隠せない。だからひかるに嫌悪感を抱くことはあり得なかった。ただただ残念でならなかった。
 あごひげが死んだと決まった訳では無いのだが、メガネの状況から考えるとあごひげとはもう会えないことがほぼ確定している気がする。もちろんこんな事はひかるに言わない。理由は無いが確信めいた何かがあるのだ。顔だけじゃなく名前まで一緒であるということが、その理由なき確信を揺るがないものにしていた。もちろんこの感情もひかるに伝える気は無かった。

 店長もひかると同様「警察に通報をしない」という考えのようだ。あごひげとひかると僕はメガネの家に不法侵入したため、差し向けた店長も含めて警察に説明するのは控えたいという現実的な理由がひとつ。
 もうひとつの理由はひかると同じく、警察が解決できるような事件ではないと感じているようだった。日本では1年間に約8万人もの人が行方不明になっているらしい。だがその後見つかる人も多いとのことだ。捜索願を出せば探してもらえる。だけどそれは痕跡があってのことだろう。メガネやあごひげに関してだけは捜索願を出しても手掛かりは見つからないと思えた。あごひげが消えた時の状況を踏まえると、メガネもあの部屋から忽然と姿を消したのではないか。そう思えてならない。人ならざるものの存在が2人をどこかに消し去ってしまったのだろうか。
 ひかるが持ってきたあごひげの私物を一通り調べてみる。iPhoneはロックが掛かっていたが僕がいじると難なくFace IDが解除されて驚いた。ひかるはあらかじめこうなることを予想していたようだが、僕の方はいまだに自分と同じ顔の人物が2人居たという事実に慣れていない。他人のスマホを触っていたらロックが解除されてしまった、という純粋な驚きの方が勝る。
 ひとまずあごひげのiPhoneをひかるに返した。SNSアプリやメモアプリなど一通り調べていたが、手掛かりが得られないのが表情を見ればすぐにわかった。
「私も確認していいかな」
 店長がひかるに声を掛ける。店長がLINEアプリを開き僕たちのチャットルームを確認する。
「プレーンというのは君のことかな?」
 そう言いながら店長が僕の方を見る。哲学カフェの日に丸久悠から呼ばれたことを思い出しながら「たぶんそうです」と答える。
「君宛に何かメッセージを送ろうとしてたみたいだ。送る前の文章が残ってた」
 メッセージ入力欄に僕に向けた言葉がつづられていた。交換日記のようでもあり、独白のようにも感じられた。
 内容を要約すると、メガネと同様に自分もいずれ消えるだろうということと、プレーン(僕)に謎を解明して欲しいということ、そしてひかるに手を出すなよと冗談っぽく書かれていた。
 どうやらあごひげはあの日メガネのスマホを持ち帰っていたようだ。ロックを解除しており、同様に自分のスマホを僕が解除すると見越していたらしい。
 メガネのスマホはあごひげが家に隠してあると書かれている。あごひげは一人でメガネ消失の手がかりを探し続けていたことも書かれていた。そして最後に、店長にこれらのことがばれないように行動した方が良いかも知れない、ということも記されていた。
 ひかるにはこの文章を読ませても良いと思いスマホを渡す。店長には「プライベートのことが書かれているので」と言い、それとなく読まれないようにした。
 ひかるはあごひげから僕へのメッセージを読んでいると少し身をこわばらせたように感じた。おそらく店長に対して警戒心を強めたのだろう。
 僕はそれがばれないように「つらいけど出来るだけ冷静になろう」となぐさめる素振りをする。
「店長すみません、ココアをお願いできますか」
 店長がカウンターに向かう。その隙に僕はひかるに目配せをした。ひかるの目の奥に固い決意のようなものを感じた。メガネとあごひげが消えてしまったのは、この店で3人が会ったのがきっかけなのではないか。そして店長は僕らのことを事前に把握していたのでは。あの日グループチャットに店長が加わったのもよく考えると不自然ではないか。なぜ僕たち3人だけにしてくれなかったのか。
 なぜこの不可解な対応に今まで気付かなかったのかと悔やんだ。メガネの家に探しに行くよう促したのも店長だ。その後あごひげも消えた。店長がこの事件の鍵を握っているのではないか。
 僕の中で店長黒幕説がすごいスピードで構築されていく。どこか高揚感を伴って。

「お待ちどお」
 コトと耳心地の良い音がしてカップに入ったココアが3つテーブルに置かれる。
 その後は僕とひかると店長とでこれまでの経緯や状況を確認し、これからどうするかを話し合った。
 ひかるを1人にするのは心配だったが僕の家に呼ぶわけにもいかない。どうやらひかるは友人の家に泊めてもらうことにしたらしい。あごひげが消えたことはまだ周囲に黙っていた方が良い気がしたが、ひかる1人の心の中に収まり切るものではないだろう。その友人に何を話すべきかは彼女の判断に任せることにした。
 それよりも一番の心配は僕が今すぐにでも消されてしまうかも知れないということだ。かと言っていつどのように消されるかわからないし、言葉を残すべき人もいない。せいぜい伊藤先輩にお礼を告げるくらいか。勧められたアニメを観なくてすみませんと謝っておくか。でもそんなこと言うと心配されてしまいそうだな、と思った。ただでさえ血相を変えて飛び出してきたのだ。今も心配してくれてるかも知れない。とりあえずLINEで状況報告でも送っておくか。

「探偵を雇うのはどうだろうか。実は昔似たようなことを調査した探偵を知っているんだ。探偵は君たちのように消えた人物を追っていた。その消えた人物たちはみな同じ顔をしていたんだ」
 唐突にこのようなことを店長は語り始めた。どこか白々しい言い方のように聞こえたのは、僕が彼を疑っているからだろうか。店長が思い描いている既定路線に僕をはめ込もうとしているような、そんな嫌なものを感じてしまう。
「同じ顔って、僕らの前にも似た境遇の人が居たんですか?」
「私はその探偵にしか会っていないから消えた人物についてはよく知らないんだ。探偵が言っていた顔が同じというのは誇張表現かと思っていたが、君たちのことを知って探偵が言っていたのは例え話ではなく本当に顔が同じだったんだと思ったよ」

 店長が言うにはその探偵は同じ顔で同じ名前の人物たちを調査していたらしい。その後なぜか依頼人であるその内の一人から突然調査打ち切りを告げられたそうだ。探偵という仕事を越え、個人的に興味が湧いていたところに調査打ち切りと言われたため消化不良だったのだろう。その後店長に雑談のような形で触りだけ話したことがあったようだ。守秘義務違反ではないのかといぶかしむ。店長だけではなく探偵も怪しく思えてしまう。
 メガネとあごひげが消え、僕もいつか消されてしまうかも知れない。ひかるにだけ全てを背負わせるのも忍びない。それに店長の申し出を強く断るのは怪しまれそうで得策ではないとも感じた。僕らが店長を疑っていることを店長にばれてはいけない。探偵が店長とグルだとしたら警戒心を強めなければならないが、探偵の話を聞くことで二人が消えた原因をつかめるかも知れない。
 いざという時の為に僕も伊藤先輩にメッセージを残しておいた方が良いだろう。巻き込みたくはないが僕のことを理解してくれてるのは先輩くらいだ。

 店長は探偵に連絡。ひかるは友達の家に泊まるため友達とLINE通話。僕はその間に伊藤先輩へ「もし僕に何かあったら警察に連絡してください」と短くLINEを送った。
 すぐに先輩から「俺に何か出来ることはないか?」と返信が来た。質問攻めにされないことがとてもありがたい。「今のところ大丈夫です。とりあえず明日から普通に出勤する予定です。」と返した。
 店長が「探偵を交えて今後どうするか話し合おう」と言うので「日程調整はまたあとで送りますね」と答えた。ひかるにお店を出ようと目配せする。
「友達がこれから来て良いって言うんでそろそろ行きますね」
「じゃあ僕もこれで帰ります」
 お会計を払おうとすると店長が「いいからいいから」と受け取らなかった。

 店を出て池袋駅に向かって歩きながらひかると今後について話し合う。探偵とは僕だけが接触すること。店長は怪しいかも知れないがまだ確証が持てない。そして僕らが店長や探偵を怪しんでいることを悟られてはならない。もし気付かれたら強硬手段に出られる可能性がある。
 あごひげからのメッセージにあったように、メガネのスマホを今度ひかるに持って来てもらおうとすると、
「家に寄りませんか?メガネさんのスマホを預かってください」
 とひかるに提案された。確かにスマホを受け取るためだけに会う日をまた調整し合うのも億劫だな、と思った。ひかるもメガネのスマホが家にあるのは気味が悪いかも知れない。だが僕にとってはあごひげが消えた家でもあるのだ。怖すぎる。でも変なプライドが邪魔をして強がってしまう。
「そう、ですね」
 もう絶対にひかるに「友達を紹介してください」とお願いできる雰囲気ではないな、とふと思った。それについても伊藤先輩に謝ろう。
 あごひげとひかるが住む北赤羽駅へ。池袋から近い。北赤羽駅まで着く間、ひかるは泊めてもらう友達とLINEをしながら、店長にもLINEを返している。家に到着しメガネのスマホを預かる。幸いなことに僕が消えることは無かった。だがこの空間であごひげが居なくなったと聞いているだけに恐怖で顔が引きつっているのが自分でもわかる。緊張がピークになると、なんでもないただの物陰から妖怪が飛び出してきて僕のことを喰らっていくのではないかと、子どものような妄想が止めどなくあふれてくる。
 ひかると別れ帰路につきながら心の底から安堵したのだった。僕もあごひげのようにあの家から忽然と姿を消してしまうかも知れなかったのだ。ひかるの目の前で消失するのだけは避けたかった。なぜならすごく恥ずかしい。消える瞬間に情けない声を漏らしそう。そしてその言い訳をする機会が永遠に訪れないかも知れないのだ。これは恥ずかし過ぎる。ひかるの目の前で消えなくて本当に良かった。
 「あひゅ」とか言って消失してしまったら。ひかるには僕が「あひゅの人」として記憶されてしまう。良かった、「あひゅの人」にならなくて。

 あごひげはどこに行ったのだろう。さっき玄関からあごひげが消えたとされるトイレの位置などを見せてもらったが、ひかるが言う通りあの場所から気付かれずに外に出るのは難しいと感じた。トイレから天井裏へ行ける構造になっている可能性はあるだろうか。いや、天井裏に行けたところでひかるに気付かれずに潜むことなど出来るだろうか。
 あごひげとひかるの家から離れ北赤羽駅が近付いてくると徐々に焦燥感が薄れていった。同じ顔をした僕があの周辺にいることで予期せぬ出来事が起こらないとも限らない。例えば、あごひげが誘拐されたとする。誘拐犯側としたら同じ顔をした人物がまたあそこに居ると知ったら再度誘拐を強行するかも知れない。
 僕にはもう何が妥当で何が妄言なのか判断が付かなくなっていた。現実味が無い。口の中にさきほど飲んだココアの余韻があり、やはりこれは現実なのだとかろうじて実感できる。その度に自分が消失する恐怖と絶望感が強まっていくように感じる。
 メガネもあごひげも消えてしまった。自ら失踪したのか、それとも誰かが関与しているのか、何もわからない。

 無事僕の家についた。ベッドに倒れ込む。
 サンセットムーンライズについてネットで調べてみた。
 すると驚くべきことに、あの店長は数か月前に代わったばかりだということが分かった。哲学カフェのテーマが今の店長になってから大きく趣向が変わっている。以前は「時間とは?」「愛とは?」「気遣いとは?」というような大味なテーマだったようだ。
 メガネの家に僕らを行かせた時も、僕を変装させなかったこともよく考えたらおかしいではないか。メガネの家の周りに同じ顔をした僕が居るのだ。もし誘拐犯が存在するとしたらあごひげではなく僕の方が狙われる可能性が高い。
 そしてさらに、店長が僕らの住所を把握しているという点が何より薄気味悪い。哲学カフェの予約フォームに住所入力欄があったため、そういうものかと思い特に気にしなかったが、今となってはすべて店長が計画していたのではないかとすら思えてきた。警察に頼らない態度も、僕らのことも考えてくれてのことだと思ったが、店長自身に捜査が及ばないようにするためかも知れない。
 あごひげも僕と同じ結論に至ったのだろうか。だから店長にばれないよう行動しろと助言を残してくれたのだろうか。
 店長に関連する様々な断片が急速に集まり、想像しなかった形へと成長していく。なぜその時に気付かなかったのだ。すべてが怪しい。メガネとあごひげの事件について、店長が関与しているとしか思えない。
 思考が熱を帯びて身体が落ち着かない。そんな時、店長からLINEで「探偵と連絡がついた。来週あたりお店に来てくれ」とメッセージが届いた。
 直接対決と行こうか。だが彼に僕が怪しんでいることを悟られてはならない。

第7話 探偵マリスとその助手チャーミー

 あごひげが消えてから1週間後。サンセットムーンライズで探偵の男とその助手の女に会った。
 助手の女はかなり若く見え、女子高生と言われたら信じてしまうだろう。化粧気がなく髪型が幼い印象を際立たせている。15歳にも見えるし、25歳と言われたら信じるだろう。不思議な雰囲気の女だ。
 助手の女は僕たちの会話をメモっているのかと思ったが、探偵にメモ帳を見せ「落書きしないで」とその都度たしなめられている。なんなんだこの女は。子どもか?
 探偵は店長から大体の経緯を聞いていて、それを踏まえて以前探偵が調査していた男たち、名前は文月源太郎という同姓同名同顔の男たちの話をしてくれた。
 文月源太郎たちも元々3人居たとされている。お互いのことを知ったのは自分と同じ名前の人物の訃報からだったそうだ。自身と同姓同名の人物の訃報をきっかけに出会った文月たち2人は、探偵と共に自身の存在の謎を調査した。その後さらに1人が消失し、文月源太郎は1人だけになった。その後突然調査が打ち切られた。
 探偵は謎が謎のまま解決しなかったことに居心地の悪さを感じながらも、調査料が出ない依頼をいつまでも追ってはいられず、それから何年も経ちいつしか思い出すことも無くなったそうだ。先週店長から連絡が来るまでは。

 助手の女の落書きが止まらない。この女は何しに来たんだ。学生に見える容姿を活用し学校への潜入捜査みたいなことがあれば活躍しそうだが。
 人が消える事件。文月源太郎が1人死に、1人は消えた。霜月朝陽はメガネとあごひげの2人が消えた。残りは僕だけだ。大事件が起きているのにのんきに落書きとは。文月が3人中1人だけでもいまだに消えずに存在していると知り少し安堵したせいか、その分助手の女へのイラつきは止まらなかった。
「助手の方は何を?」
 我慢できず聞いてしまった。
 探偵は申し訳なさそうに、
「彼女は頭脳担当でして」
 と言った。
 答えになってないと思ったが、天才肌的な振る舞いなのだろう。奇行が天才の証とでも思っているのだろう。ここにあごひげが居ればな、と思った。がさつな感じでこの女の振る舞いを指摘していた気がする。メガネだったらなんと言っただろう。
 この時ふと、僕はメガネとあごひげのことをよくは知らないのだな、と少し悲しくなった。彼らが何か起きた時どのように反応するのか、僕はよく知らないのだ。彼らと少しでも「人生を生きている気がしない」という僕の人生観について話し合いたかった。思わずLINEを開いたが、当然のように彼らからメッセージは来ていない。
 助手の女は店長が用意してくれたオムライスをほおばっている。食べる姿は少女そのもので、微笑ましいのが逆にイラつかせる。探偵はスマホを取り出し助手を撮影している。動画も撮っていた。僕は何しに来たんだ。あごひげだったら「親子水入らずかよ」とか言うのかな。
 探偵がスマホを使っているのを見て、メガネのスマホを預かっていることを思い出した。昨日も改めて中身は一通り見てみたが特に気になるところは無かった。店長や探偵に見せても大丈夫と判断し持ってきたのだ。それとメガネの家にあったサイン本も持ってきた。
 メガネによってページの各所に線が引かれたその本を取り出すと、助手の女はオムライスを食べるのをやめた。
「そちらの本を拝見してもよろしいでしょうか」
 その少女のような声と話し方は穏やかだが隙が無い雰囲気をまとっていて断れなかった。元々見てもらうために持ってきた本とスマホだ。本を貸すと表紙と帯をじっくり眺め、1ページ1ページ丁寧にめくって読み始めた。なぜか分からないが僕は「メガネもこうしてこの本を読んでいた気がするな」と思った。
 その後助手の女はメガネのスマホも操作した。あらゆるアプリを立ち上げては閉じていた。インターネットのブラウザも開き履歴を調べ始めた時には思わず全身の肌がぎゅわぎゅわと震え上がった。僕も消失したらこの女にスマホを隅々まで覗かれてしまうのではないか。でも僕と同じ顔をした人物がいないからFace IDが解除されることは無いのか。でも新たに同姓同名同顔の霜月朝陽が現れたらそいつを利用して解除するだろう。嫌な緊張で思考がまとまらない。メガネのスマホが覗かれているのだが僕のスマホが覗かれているような気がしてとてつもなく居心地が悪い。
「なるほど」
 助手の女はゆっくりと顔を上げた。
「あごひげさんのスマホは彼女さんがお持ちなんですよね?」
「そうです。彼女さんはお友達のところに泊っているみたいです」
 探偵と助手と僕とが話している間、店長はちらちら僕の方を見ているように感じた。

 助手の女、名前はチャーミーと言うらしい。もはや名前の意味など聞き返すのも面倒だったのですべてを受け入れた。ちなみに探偵の名前は神在月マリスらしいが100%偽名だろう。二人の名前を聞いた途端に一気に信頼性が失墜したから探偵業を続けるのならば改名すべきだ。
 チャーミーは「大体わかってきた。あごひげさんのスマホも見てみたい」と言った。神在月マリスはにこにことしながらうなずくのみ。マリス感はもちろんのこと神在月感すら皆無のこの男は一体何しに来たんだ。にこにこ撮影おじさんめ。以前依頼していた文月という同姓同名同顔の男もこいつらの名前を知ったから依頼を取り下げたのでは?
 ひかるに連絡をすると1時間くらいでお店に行くとのことだった。
 その間チャーミーは再びメガネの本を丁寧に読み進め、マリスはチャーミーの読書中の姿を映像に収めるのだった。

 店長はその後は特に怪しい動きを見せないが、もし探偵たちと組んでいた場合はすでに何か手を打っているのかも知れない。ひかるには先ほど連絡した際に危険かも知れないことと、失踪した時のためにひかるの友達に定時報告するよう念を押しておいた。何かあったらその友達が警察に通報してくれるだろう。警察が何とかしてくれるような事件ではないと感じているが、頼れるものが警察しかないからしょうがない。多少は心のそわそわ感を紛れさせてくれている。

「遅くなりましたー」
 ひかるが入店するとチャーミーがすかさず、
「私はチャーミー。この人はマリス。あごひげさんのスマホをお見せいただけますか?」
 と話しかけた。
 ひかるも僕も店長も「なんだこいつ」という顔をしている。
「あ、はぁ」
 断れる空気ではないのを察したのか、ひかるはチャーミーに従う。チャーミーはスマホを受け取ると「なんだこいつ」という顔のままの僕にそれをかざしFace IDを解除。そしてすごい早さでいろんなアプリを立ち上げてはスクロール、立ち上げてはスクロールを何度も繰り返すのであった。その間体感にして1分。大会の記録保持者か。なんの大会かわからないが。

「メガネさんとあごひげさんのスマホを確認したところ、お二人は事前に消失の前兆を感じ取っていたと考えられます」
 ゆったりと、静かに語り出したチャーミーに店内にいる人全員が釘付けとなった。もちろん神在月マリスも釘付けになっている。せめてお前は分かってましたよ顔をしておいてくれよ。
「自分が消えると知ってて消えたってことか?」
「私にはそんなこと言ってくれなかったけど」
 ひかるは少なからずショックを受けている。あごひげが消えてからずっと自分を責めたり何か出来なかったのかと後悔し続けていたのかも知れない。明るい表情しか知らないひかるの悲痛な表情は、どこか別人に思えるほど悲しかった。不謹慎ながらとても美しいとも思ってしまった。そしてそんなひかるを見てもチャーミーは表情一つ崩さない。
「あなたに危険が及ばないようにそのことを伏せていたのか。あるいは」
「あるいは?」
「どうにもならないことだと達観していたのかも知れません」
 それを聞くとひかるは納得したような、だけど少しさみしいような、そんな表情をして、そしてその表情もまた美しかった。

 チャーミーがココアをひと口飲み、そして立ち上がった。
「メガネさんもあごひげさんもご自宅で消失しています。文月源太郎さんの話も合わせると、やはりご自宅が消失のポイントになっていると考えられます」
 それを聞くと今まで僕の周りにまとわりついていた、見えないが重くて苦しい何かがふわっと軽くなった気がした。今この場で僕が消失することは無いのだ。チャーミーの推論でしかないのだが、僕はこれに全力ですがりついた。意味もわからず消えるのは怖い。例えば死ぬのは怖くないと言ったら嘘になるが、人は死ぬものだから受け入れることが出来る。でも同姓同名同顔の人たちと出会ったら消えてしまうというのは意味が分からな過ぎるし納得が出来ない。
 知らない内に前のめりになって座っていた僕は、安堵から首と肩と背中の筋肉の緊張が解け、ずっと力んでいたのだと気付いた。深く座り直す。
 ふと店長を見ると青ざめた表情をしながらスマホを操作していて、僕は再び全身に緊張が走るのだった。安堵と緊張の変化を察知したひかるは僕の目線の先にいる店長を見て、彼女もまた警戒心を強め僕に目配せをする。やはり店長は何か知っている。
 マリスもチャーミーも僕らのことを観察しているようだが、気にしてはいられなかった。
 メガネもあごひげも自宅で消えた。僕は自宅に居なければ恐らく消えることはないだろう。そのことが店長にとって何か不都合なことがあるのか?僕を消すための段取りが狂ったということなのか。
 チャーミーの発言で店長が動揺したということは、店長と探偵側。少なくともチャーミーとはグルではないのかも知れない。とりあえずチャーミーに従っていれば店長もうかつに手を出してこないのではないか。そう考えると途端にチャーミーが優秀な名探偵に見えてきた。見た目は可憐で華奢だが頭脳明晰で慧眼。今にもこの名探偵にひざまずきそうになる。我ながら現金な奴だなと思うが状況が状況だけに藁にもすがる想いだ。
 チャーミーさんが藁という意味ではないですよ、と心の中で謝罪した。

「丸久悠氏の著書『哲学カフェを哲学する』の「マリオは宮本茂に恋焦がれることが出来るか」という章がメガネさんはとてもお気に入りだったようです」
 チャーミーは本をめくりながら僕たちに語り掛ける。決して大きな声ではないのだが、店内のどこに座っていても聞こえるような声だ。神在月マリスも聴き惚れている。
「哲学については浅学なのですが」
 そう一言付け加え、しかしながら雄弁にチャーミーの哲学講義が始まった。
 この店で行われた哲学カフェ【第13回】テーマ「あなたは本当にあなたですか?」というのに参加するぐらいだから、メガネもあごひげも自己の存在について悩みというか違和感を覚えていたらしい。彼らも僕と同じく「人生を生きている感じがしない」という漠然とした人生観を持っていたのかも知れない。
 チャーミーの哲学講義の内容をまとめると、「僕らは神を想えない」ということらしい。マリオの生みの親である宮本茂はマリオに「宮本茂のことを想え」とプログラムしていない。同じように、僕らも神に「神を想え」とプログラムされているわけがない、というのが丸久悠のメッセージらしい。
 メガネはこの本で自分たちとマリオを重ねた。マリオの残機のように同姓同名同顔の自分たちのことを代替品のように感じたのかも知れない。マリオは穴に落ちても敵にやられても別のマリオが新たに登場する。
 そして、あごひげもメガネが本に引いたマーカーの部分を読み、恐らく即座に感応したのではないだろうか。メガネ宅を捜索している時に「あ」と漏らしていたが、あれはメガネの本を読んだからなのではないか。

「問題は」
 チャーミーが話を続ける。
「トリガーは家に居ること。では肝心の弾丸は何か。弾丸が込められていない状態ではトリガーを引いたところで。つまり家に居たところで何も起きません」
 少しの沈黙。
「私の推理では、プレーンさんにはまだ弾丸が込められていないと思われます」
 そう言うとチャーミーは僕のことを突き刺すような視線で見つめた。僕はその言葉と視線で身動きが取れなくなってしまった。
「え?」
「メガネさんもあごひげさんも何かを契機に弾丸が込められた。そして自宅に居るというトリガーを弾いた。なので消失しました」
「消失というのはつまり、誘拐とか失踪とか自殺とか、そう言う類のものではなく、空間から人体が消えたと言うことか?」
 神在月マリスがチャーミーに確認する。こくりとうなずくチャーミーは、まるでイタズラをした少女のようにはにかんでいる。
 現実味は無い。だがそうとしか考えられないのも理解出来る。家の鍵を開けたままスマホもメガネも残して居なくなったメガネ。ひかると家に居たのにトイレで居なくなったあごひげ。どこかに行ったと言うよりも、その場から消失したと言うのがしっくりくる。
 ではその弾丸はなんなのか。あごひげが警戒しろと僕とひかるに残してくれたように、店長が鍵を握っていると言うことなのか。だがチャーミーが言うように人体消失が起きたとして、そんなことが店長に出来るのか。店長と目が合う。ココアのおかわりを注いでくれた。ココアを催促されたと思ったようだ。こんな人がこの事件の黒幕?
 いくら考えても結論は出ない。それに僕にはまだ弾丸が装填されていないらしい。家にいるのが不安じゃないとは言い切れないが、結局帰るところはそこしかないわけで、僕はそろそろ帰ろうかと思いみんなに挨拶をしようと立ち上がった。
「え?帰るのかい?」
 店長が驚く。ひかるも驚いている。
「はぁ、まぁ。とりあえず家に居ても安全みたいですし」
「いやでもまだはっきりそうと決まったわけではないだろ」
 気付くと外はもう暗くなっていた。何時間ここに居たんだ。ひかるも僕も店長の言うことには従ってはいけないと警戒を続けていたのだろう。引き止められたが頑なに退店することにした。
 神在月マリスとチャーミーとLINEを交換し、ひかると共に店を出た。ココアを飲んだせいか、それとも緊張が解けたせいか、ほてった身体に夕闇の冷たさが心地良かった。
 恋人が空間から消失したと聞かされたひかるは今どんな気持ちなのだろう。気丈に振る舞っているようだが頭の中はぐちゃぐちゃだろう。僕も頭の中がぐちゃぐちゃだし、心がとても持たない。とにかく店長から離れたかった。
 足取りが重い。池袋駅までの人波がとてつもなく煩わしい。なぜお前らじゃなく僕が消えなければならないんだ。心が黒くなっていってるのがわかるが止められなかった。ひかるの心配もしてあげられない僕自身が嫌いだった。僕はこの程度の奴だったのか。これまで唾棄すべき行動だと思っていた自分勝手な振る舞いを、まさに僕が今している。あごひげにも申し訳なかった。

 どれぐらい時間が掛かったのか。なんとか家にたどり着くと知らない男が玄関の前に立っていた。
「あ」
 これか。メガネもあごひげも、これが来たのか。
 僕に弾丸が装填されたのがはっきりと分かった。
 見知らぬ男がこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。

第8話 文月源太郎

 あれから何年経ったのだろうか。
 あの日私は生きるために必要なものを失った。
 諦めや逃げ。それらが私の中にあった魂の熱量のようなものを奪い去ってしまった。そのおかげで私はいまだにこの世界に存在していられる。だが今ここにいる私は、果たしてかつて魂がたぎっていた頃の私と同一人物なのだろうか。
 共に同じ時代を生きていたはずの私と同じ顔同じ名前の彼。会うこともなくこの世界を捨ててしまった彼が、もしふと私の目の前に現れたら。私は恥じることなく彼に自信を持って、強く目を見つめながら「お前らの分もこの世界を生き抜いたぞ」と言えるだろうか。
 神在月マリスから連絡が来た時、あの時の恐怖と、これまで何年も蓄積されてきた後悔と、何年も熟成されてきた怒りとが同時に私の中に生まれ、それらが激しく混じり合っていくのを感じ、スマホを持つ手がガタガタ震えた。私の中に残っていた感情が一気に膨れ上がり行き場を失っている。そんな震えだ。
 これは私に与えられた使命なのだと直感した。神在月マリスからのメール通知を見たほんの一瞬に、私は以上のことを考えたのだった。
「例の件で会って欲しい人がいます。お時間いただけませんか?」
 空を見上げると黒ずんだ雲が陰鬱さを加速させる。私の目の前で同姓同名同顔の文月(通称うわばみ)が消失した日と同じ雲だ。

 消失する条件は簡単だ。「同姓同名同顔の人物と会うこと」そして「その謎を追うこと」だ。それがうわばみから教わったことだ。その後うわばみはそれを証明するかのように私達の存在の謎を追う決意をし、そして目の前で消失した。
 消失を目の当たりにした私は生き残るためにすべてから逃げる決意をした。謎は絶対に追わない。すべて忘れる。うわばみは私に生き残るよう託したのだ。都合よく勝手にそう解釈した。怖かったからだ。そうして私からは熱意が消え、軽くなってしまった魂を、この老いていくだけの肉体に情けなく添えて、今日まで生き延びている。

 私が初めて同姓同名の存在を知ったのは訃報だった。それが始まり。
 知り合いから「文月源太郎が亡くなったと聞いて驚いて」と連絡が入ったのだ。そう多くない名前のため珍しいこともあるものだと他人事のように思っていた。
 それから数日後、文月源太郎を名乗る者から連絡が来た。訃報の件もありいたずらにしては度が過ぎると感じた。怒りと薄気味悪さを抱いた。私が文月源太郎だと知ってあえて同じ名前を騙っているという点と、死者の名前でもあるこの名を騙っている点と。
 だがその連絡を寄越してきた人物は紛れもなく文月源太郎であった。私と同じ名前、しかも同じ顔をしていた。同じ声で、見たところ指紋まで同じようだ。彼もあの訃報を知り、「文月源太郎」について調べ始めたとのことだった。死んだ文月のことを調べている過程で私の存在を知った彼は、直感的に会わなければならないと感じたそうだ。
 死んだ文月。私に会いに来た文月(酒飲みなのでうわばみと呼んだ)。そして私(うわばみからはのんびりと呼ばれた)。
 それまで互いに存在を知らなかった私達。この状況に対して心が躍ったのは事実だ。うだつが上がらない人生を過ごしてきたが、もしかしたら私は主人公なのかも知れないと思った。この数奇な運命を受け入れることで、すごいことが起きるのではないか。そう思った。うわばみもそう思っているだろう。私とうわばみとが力を合わせることで何かに立ち向かえるのでは。そしてそれは死んでしまった文月の敵を討つことにもつながるのでは。そんなことを考えていた。
 今思えばそんなもの、ほんとどうしようもないものだ。
 死んだ文月のことを調べれば調べるほど、解決不能であることを悟り、想像をはるかに超えた何かに近づいている予感がした。我々は3つ子、あるいは親戚同士なのでは無いかと考えた。だが全く血縁関係に無かった。お互いの親も全然違う。養子でも無い。ただ、私と同じ顔で同じ名前の人物が各地に計3人居たということしかわからない。何も進展しないまま月日が経った。私はうわばみほど熱心に調べようと思ってはおらず、不思議なこともあるものだ、という感覚だった。一方うわばみは、DNA鑑定やら亡くなった文月の身辺調査など、探偵とともに熱心に真相を探ろうとしていたようだった。
 そして、重いねずみ色の雲が空を覆いつくしたあの日。うわばみは私の目の前で消滅した。
 音も無く。私以外の誰にも気付かれず。消滅したという感じも無かったので、私の頭がおかしくなってしまったのではないかと真剣に思った。人が消えるわけがない。そもそも文月の訃報も、私と同姓同名同顔のうわばみも、すべて私が頭の中でそう思っていただけなのではないか。この世界の主人公になろうとした哀れな男が生み出した、私の頭の中だけに存在する妄想なのではないか。そのように思った。
 うわばみが目の前で消滅した日から、私は悪夢を見ることが多くなった。私が消える夢や、うわばみが何度も繰り返し繰り返し私の目の前で消える夢。会ったことは無いのに亡くなった文月がいろんな方法で殺されてしまう夢も何度も見た。
 夢か妄想か。そう信じたかった。だが恐ろしいことに、すべて現実で、その後訪ねてきた男(のちに探偵神在月マリスと知る)からうわばみと調査したとされる結果を教えられた。
 私はそれらを知り、全てから逃げてこれまで生きてきたのだ。
 そして私はスカスカの50歳になっていた。

「例の件で会って欲しい人がいます。お時間いただけませんか?」
 私は震える指でミスタイプを繰り返しながらも「わかりました」と返信を打った。

 数年ぶりに会った探偵は少し老けて見えた。同じく私も老け込んでいることだろう。探偵の横には高校生くらいの女の子が座っていて、熱心に手帳に何かを書いている。
「助手でして。主に頭脳担当を」
 私の目線を察してか探偵が説明する。この少女が頭脳担当ならマリスは何担当なのか。
「神在月の調査報告によりますと、文月さんは神在月と共にご自身にまつわることをかなり細かく調べていたようですね」
 少女がすらすらと語り始めた。
「いえ私は特に何も」
「失敬。あなたがうわばみと呼んでいる文月さんが、です」
「あぁ。そうでしたね、彼は熱心に調べていました」
 そして私の目の前で消失してしまった。まるで自身を実験体とするかのように。私はそれを思い出し、あの日から幾度となく繰り返してきた苦悶の表情を浮かべた。もはやルーティーンと化したその表情作りは、眉間のしわの深さに反比例して魂は軽くなる。形骸化した儀式のようだが自動的にこの表情になってしまう。
 私のその表情を見つめる少女の眼差しは、慈悲深さを湛えながらも、どこか薄ら怖さもあるように感じた。まるで蟻の巣をただ眺めているかのような。その蟻の巣を、いつでも、どうにでも出来ると考えているかのような。そんな怖さだ。
 マリスはと言うと、そんな眼差しの少女をスマホで撮影していた。彼は撮影担当なのだろうか。プロモーションビデオを撮影しているのか?そんな疑問が浮かび我に返る。

「うわばみさんが消失した時のことをおうかがいしたいのですが」
 それを聞くと私の身体は隠しようが無いほど硬直した。「消えたくない」その一心で何も漏らしてはならないと全てを拒絶してしまうのだ。それは私自身の心も魂も拒絶してしまうほどに。
 うわばみ消失後、明らかに雰囲気がおかしくなった私に職場の人間が心療内科を勧めてきたが断った。なんと説明しろと?目の前で同姓同名同顔の男が消失しました。だから私も消えてしまうのではないかと恐怖で気が狂いそうなのです、と説明すれば良いのか?それで何が解決するというのか。

 消失条件。「同姓同名同顔の存在だと認識すること」「その謎を追うこと」。私が自身の謎を追っていると思われてはならない。神なのか、それとも悪魔なのか。それは分からないが、とにかく私は何も知らない。何も考えない。

 私が押し黙ってしまったので少女は話を変えた。
「今日お呼びしたのはある人物についてお話ししたかったからです。彼らは、いや、すでにもう彼一人ですが。彼は窮地に立たされています」
 その言い回しから私はその彼の状況を察知し顔を上げて少女を見つめた。恐らく睨みつけているような顔をしていただろう。
「まさか、その彼も私のような……」
 少女がゆっくりうなずく。
「名前は霜月朝陽と言います。同姓同名同顔の彼ら3人はとあるきっかけで出会い、そして2人が消失しました」
 神在月マリスが淡々とセリフのように説明する。私はもう全身が蒼白していた。頭の中で「これ以上踏み込んではならない」と私が叫んでいる。数年間逃げ続けてきた私が頭の中で叫んでいる。筋肉の硬直がより強まり、視界がぐるぐると動きじっとしていられず、目の前のテーブルに突っ伏しそうになる。全身の血が激しく駆け巡っている。さらに視界がぼやけてきた。

「文月さん。あなたの助けが必要です」
 神在月マリスが震える私の手を取り、目を見つめながらそのように言った。
 私のカラカラになった魂が、軽くてスカスカになった魂が、削げ落ち尽くした心が、その言葉によって少し脈を打ち始めたのが分かった。強張っていた肉体も少しずつ緩み始めた。
 少女はまたあの蟻の巣を眺める眼差しで私のことを観察している。

 私はおそるおそるうわばみとの事を話した。その多くは神在月マリスも知っている事だと思われたが、マリスも少女も黙って私の話を聞いている。
 そして私は、「うわばみは自身の謎を追ったから消失した」と告げた。
「そうですか」
 少女はそっけなく言った。この告白により私自身が消失するかも知れないと言うのに、この少女はまったく興味がないと言うような態度を取っている。冷静になって後悔が押し寄せてきた。なぜ私はこんな危険なことを初対面の少女に言ってしまったのか。先ほど「踏み込むな」と頭の中で警告が鳴ったのに。
 少女への怒りと、消失するかも知れないという恐怖とで気が狂いそうになる。身体がガタガタと震え始めた。
「あなたは消えていませんね」
 ポツリと少女がつぶやく。
「へ?」
 間抜けな声で返事をしてしまった。
「今あなたは消失してません。うわばみさんはあなたの目の前で消失しました。この違いはなんでしょう。消失には他にトリガーがあると思いませんか?」
 言われてみれば少女の言う通りだ。うわばみはなぜ消失したのか。他に条件があると言うことか。うわばみが消えた時、なぜ私も消えなかったのだろう。

 3日後の土曜日に、池袋駅の近くにあるサンセットムーンライズという喫茶店で霜月朝陽と神在月マリスと少女が初対面するそうで同席を促された。私がその霜月という男に会ったところで何もしてあげられることは無いため断った。
 結局私は何も変わらない。やはり私からは魂も心も抜け落ちてしまったのだと思う。うわばみは私をこの世界に残すために自らを犠牲にしてくれたのだろう。だが私は誰かのために自分を犠牲にすることなどできない。ただの50歳のおじさんだ。
 うわばみの家で語らいながら飲んだ酒は美味かったなとふと思い出した。うわばみの家にはいろんな種類の酒があって、普段飲まない私のために私の口に合いそうな酒を選んでくれた。酒に興味が無いのでなんという名前の酒か覚えていないが、味はしっかり覚えている。笑い合ったり真面目に話し合ったことも覚えている。
 そこまで思い出し、ふと心がざわついた。
 うわばみが消えたのは彼の家だった。死んだ文月源太郎は自室で亡くなったと聞いた。もしかして消失のトリガーというのは「自分の家」なのか?
 そのことに気付いた瞬間、私の頭の中で、明らかに私の意思ではない何かが警告を鳴らした。
「あ」
 思わず声を漏らした。
 神在月マリスと少女が私の方を振り返る。
 このことを2人にばらしてはいけない。
 そして、私はもう家に帰れない。帰ってしまったら私は消失するだろう。

第9話 文月と霜月

「霜月朝陽さんですか?」
 50歳くらいの男が話掛けてきた。家の前で待ち伏せされ、名前までバレている。逃れられないだろう。店長側の人間か。
 僕が警戒しているのを悟ってか、その男は名乗る。
「失礼しました。私は文月源太郎と言います。君と同じ境遇の者です」
 先ほどサンセットムーンライズでチャーミーが言っていた名前だ。
「今君はとても危険な状態なのではないですか?弾丸が込められ、トリガーが弾かれようとしているのでは?」
 それを聞き僕は足の力が抜けそうになった。この人は僕の事を理解してくれる。そう思った。メガネもあごひげも消えた今、僕の事を理解してくれる人など居ないと思っていたが、文月は僕と同じ恐怖を抱え、しっかりと生きている。その事実がとても嬉しく、緊張が解けて力が抜けたのだ。

 なぜ文月が僕の家で待ち伏せしていたのか聞いてみると、店長が差し向けたとのことだ。
「数時間前に店長から「家からすぐ出てくだしあ」とLINEが届いてね」
 そう言いながら文月はLINEの画面を見せてくれた。本当に「くだしあ」と書いてあった。この送信時間は多分チャーミーが「ご自宅が消失のポイントになっていると考えられます」と言っていた時だろう。店長は青ざめていたが、それは文月の身を案じての事だったのか。
「探偵と助手に君の話を聞いてから私は自宅に帰ってないんだよ。警告が来たからね」
 店長はただの良い人だったのか。文月の身を案じ、そして僕の事も心配してくれていた。それなのに僕はかなり失礼な態度を取っていたのではないか。疑っていたことをバレないように振る舞っていたつもりだが、余裕が無くなっていた僕の事だから、きっと不穏さは伝わってしまった気がする。
 文月が話し始めようとしていたが、それを制した。
「3分待っていただけますか。色々お礼を送信しないと」
 そう言ってLINEを開くと店長とひかるからメッセージが大量に届いていた。店長に無事であることと文月と会っている事をLINEした。ひかるにも無事であることと店長は黒幕じゃなかったとLINEした。伊藤先輩にも無事であることをLINEした。3人からすぐに返事が来たがOKスタンプを送って済ませた。

「助手の女についてどう感じた?」
 唐突に文月が質問してきた。
「どうって。名探偵だと思いましたけど」
「怖くなかったかい?」
「怖い?」
「例えば、我々のことを観察対象としか思ってないような」
 そう言われて数時間前の状況を思い出した。あの時は店長を疑っていたため冷静な判断が出来なかったが、今にして思えば確かにチャーミーの妖しさを感じた。それに「自宅がトリガー」と言っておいて自宅に帰すのを引き止めないのはおかしくないか。あの女が恐ろしくなってきた。あいつこそが僕を消そうとしているのではないか。自身の推理が正しかったと証明するために僕には消えて欲しいのだろうか。
 黙ったままの僕を見て文月は「やはりあの女は怖いよね」と言って軽く微笑んだ。

 家の前で話し込むのも忍びないため、文月と近くのサイゼリアに行った。
 チャーミーからLINEが届く。「まだ無事ですか?」と。「まだ」と聞くということは僕が消えることを見越しているのではないか。そして、僕がチャーミーを疑っていることも踏まえてあえて恐怖を煽るように「まだ」と付けているのではないか。この一行にそれだけの事を込めて送る女。恐ろしい。
 チャーミーのLINEは無視して文月と話し込んだ。
 うわばみとの思い出や、その後恐ろしくなって全てから逃げ続けてきたこと。僕の事を知り、今会わなければうわばみに合わせる顔が無いと思ったということ。そして、自分のようになって欲しく無いということを言われた。文月の顔にはこの数年で刻まれた深い皺があり、それが彼の中から消えてしまったものや発生してしまったものを物語っているように感じた。
 僕の話も聞いてもらった。「生きている感じがしない」というこの感覚について話すと、すごく共感してもらえた。哲学カフェで自分と同じ顔をした男2人と会った時の驚きや、メガネが居なくなってしまった切なさと不謹慎なワクワク感。あごひげがなんでひかるを残して消えてしまったのかというやるせなさ。店長を疑っていたことへの申し訳なさもなぜか文月に対して謝罪した。文月はこれらのことをうんうんと言いながら聞き続けてくれた。
 文月は自身のことを「もう魂も心も抜け落ちてしまった、形骸化した存在だ」と表現した。だが僕にはそうは思えなかった。見ず知らずの僕の家にまで駆け付けて危険を伝えようとしてくれた人だ。うわばみとの出会いや思い出がそうさせたのかも知れないが、行動したのは紛れもなく文月自身だ。
 僕も25年しか生きていないがいろんな人に助けられてきたなと思った。最後が文月で良かったと思った。
 サイゼリヤの閉店時間が迫っている。

「行くのかい?」
「……はい」
 僕の表情を見て文月は少し寂しそうな顔をする。
「ここで話した時間は私の人生にとってものすごく有意義な時間だったよ。こう感じたのはうわばみと話した時以来だ」
 そう言ってにこやかに笑った。きっと僕が躊躇しないよう明るく笑ってくれているのだろう。文月はそういう人だ。僕の倍の年齢の文月だが、僕はもう親友のように感じていた。伊藤先輩も好きだが文月も好きだ。
 僕と文月には弾丸が装填されている。あとはトリガーを引くだけ。
 「同姓同名同顔の存在だと認識すること」「その謎を追うこと」「自宅に居ること」
 これらが全て揃うと消失する。先ほど僕の家の前で文月と会った瞬間に全てを理解した。あごひげもメガネの家でこれが起こったのだということも理解した。自分が消失する。あごひげはきっと店長がメガネ宅に向かわせたことなどから推理し店長のことを僕らに警戒させたのだろう。確信は無いが怪しいと。今の僕にはあごひげの優しさも店長の優しさも分かる。
 とても穏やかな気持ちだった。数時間前にサンセットムーンライズに居た時と今とでは精神状態が正反対だ。あの時は何も分からないから疑心暗鬼になっていて怯えていた。文月と会ってからは状況を把握できた。だから落ち着いている。
 僕に残された選択肢は2つ。この世界に残るか。それともこの世界を去るか。
 メガネもあごひげも居るのならばそちらに行ってみようと思った。会えたら連れ戻してくるつもりだ。この世界に戻って来ることが可能であればだが。

「もしうわばみに会えたらよろしく言っておいてください」
 文月は笑顔で、大粒の涙を流しながら僕の手を握って言った。
 僕も泣いていた。悲しさではないが、悲しさなのかも知れない。年の離れた親友との別れがそうさせたのかも知れない。解放された事で心が不安定になっているのかも知れない。

 23時。
 冬が近付いているせいか寒さが身に沁みる。
 月は大きく輝いている。
 サイゼリヤ板橋東口店の前で文月と別れた。

 再び家に帰ると、玄関の前にひかるが立っていた。
「なんでよ!」
 彼女も文月みたく大粒の涙を流しながら僕に駆け寄ってくる。そして僕の胸を叩いた。何度も。何度も。
 ひかるは僕が送ったLINEで何か察したのだろう。店長から住所を聞いて駆け付けてくれたのだ。
「行くの?なんで?」
「あごひげに会ったら連れ戻してくるよ」
 笑顔で言ったつもりだったが涙声になってしまう。僕も泣いていた。男女が二人して大泣きしていても、近隣住民は気にも留めない。都会のありがたい所だ。
「嘘でしょ」
 嘘は言ったつもりは無いが、あごひげに会える保証は無かった。人体が消失するのだ。どこに行くのかわからない。その後どうなるのかも。ただ、行かなければと思った。文月の話を聞いて強くそう思った。どちらが正しいとか間違っているとかではなく、僕には文月が過ごしたように空洞になって数年間を生き続けるのは無理だと思った。
「生きている感じがしないんだ」
「え?」
 ひかるが泣きながら聞き返す。泣いてるひかるはまるで子どものようでとても可愛らしい。
「ずっと生きてる感じがしなかった。でも弾丸が装填されて。メガネやあごひげと同じ条件になって、こっちじゃなくてあっちなんだと実感したんだよ」
 我ながら意味不明な説明だが、こうとしか言えなかった。
「じゃあ私も家に入れて」
 キリッとした目で強く言われると断れない。彼女も覚悟を決めたのだろう。あごひげが居なくなり、同じ顔をした僕も目の前で消える。
 文月のようにひかるも残された者として苦しみを背負うかも知れない。でもきっとひかるにとって、このまま何も見ずに帰ってしまう後悔の方が、ずっと重い苦しみの人生となるのだろう。

 ドアの鍵を開け、玄関にあがると、眼前にログアウトするかどうかウインドが表示された。

第10話 ログアウト

 ログアウトというのはこの世界との接続を切る、ということだろう。
 ウインドはひかるには見えていないようだ。
 ひかるを部屋に上げると散らかってるのが気になった。片付けたかったがもうひかるに見られたわけだしまあいいかと居直った。
 ひかるはキョロキョロ部屋を見回しながら泣いている。
 ひかるにログアウトの表示について伝えた。ログアウトを許可すればいつでも消失することができるようだと。
 辞世の句を詠む気にならないのは、死ぬのではなくこの世界を去るからで、ひかるや店長や伊藤先輩にも別れを告げるというよりは「ちょっと行ってきます」という程度の想いしかない。だが逆の立場になって考えてみると、確かにもう会えないことが分かっている訳で、それはとても辛く悲しいことだろうな、とも理解できた。

「じゃあ、ログアウトするね」
 そう告げるとひかるはさらに涙を流した。このまま枯れるまで泣き続けてしまうのではないかと心配になるほどだった。
「あっくんに、会ったら、叱っといて」
 ひかるは泣きじゃくりながら、途切れ途切れにそう言って、弱く微笑んだ。
 それを見届けて僕はこの世界からログアウトをした。



 そこは異質な空間だった。
 色鮮やかで常に色彩が変化し続けていた。
 ダイヤモンドやサファイアのようなキラキラとした紅葉の大嵐が広がる。
 音もメロディやリズムがあるのか無いのか、常に何かは奏でられているのだが、それが何なのか把握することはできなかった。
 重低音が折り重なって出来た大草原が心地良い。
 味覚についても不思議な感じがした。今まで味わったことが無いような味が常に変化し味覚を刺激している。香りも同様だった。
 舌と鼻をリズム良く刺激する黄金色に輝く蜜が幸せな気分にさせてくれた。

 そもそもだが、僕の肉体というもの自体が上手く認識できない。感覚が拡張されているような感じで、僕の手が遠くにあるような、腹や太ももや、首や、頭などが、全て別々の場所に存在しているような、これまで体験したことが無い状態になっている。肉体と呼んでいた魂を覆っていた入れ物は僕のここにあると認識できるのだが、肉体そのものはもはや存在せず視覚でそれを捉えることができない。そもそも視覚という矮小なものでイメージを捉えることが無く、全て開かれた感覚により受信している。
 ログアウト後の僕の肉体のイメージをビジュアル化するととんでもない化け物になるだろう。
 もしやこれらは僕の意識の範囲なのではないか。ログイン中の時は肉体と魂が結び付いていて、触れるものは手が届く範囲だし、移動できるのは足が動かせる距離だ。そして目の届く範囲まで見渡せ、聴覚が拾える範囲の音を拾って生きてきた。
 だがログアウトをした今は違う。意識した分だけ感覚が広がっている。魂はここにもあるし、はるか遠くにもある。そんな感じだ。常に何かを受信していて、ログイン中の僕の脳の許容量ではとてもじゃないが処理し切れない情報量であるのは間違いない。
 そして驚いたのはさっきまで居た世界を「ログイン中」と自然に表現したことだ。メガネやあごひげと会ったあの世界は。文月やひかるが泣いていたあの世界は。僕の魂がログインしていた世界なのか。

 この異質な空間に僕は漂っている。
 そして全てがとても心地よかった。
 彩りが耳心地良く、音色が色彩鮮やかだ。
 こちらの世界が正しく、ログインしていた方の世界こそが間違っている。現に僕はこちらの世界で「生きている感じ」が十全に満たされている。

 思考についても不思議だった。
 疑問に思ったことが頭に浮かんだ瞬間に回答が与えられる。回答が天から降ってくると言えば一番近いのか。疑問が、疑問の瞬間に、すでにすべて解るのだ。教えられるというよりも、すでに前から知っていたという感じだ。まさに万能感。まさに森羅万象。全てがひとつだ。かと言って自分が神になったと勘違いすることなどあり得なかった。ログイン世界で生きていた時よりは神に対する認識が明確になったが、ログアウトしたからと言って神に近付けたわけではない。この空間を漂っていればそれが理解できる。森羅万象になったところで神にはなれない。



 この世界は言語など必要としない。すべては光や音、揺れ、温度、圧迫、味覚、匂いなどなど、様々な刺激が変化したり流れたりまとわりつくことで魂にメッセージが受信される。
 たゆたっているだけで、すべてがわかる。脳で考えたり感じたりしているのではなく、魂がこの世界に反応している。そんな感じだ。



 ログアウトしてからどれぐらいの時間が経過したのだろう。
 そもそも時間という概念がここに存在しているのだろうか。

 メガネとあごひげのことを想う。すると2人と会話することが出来た。2人との会話はとても楽しく、いつまでも話していたいと思った。
 「2人」というのは正しい単位じゃないのかも知れない。 
 この世界では僕もメガネもあごひげも同じで、同じだから別々に意識する必要は無い。ずっと僕たち3人は1つだ。
 だから必然的に会話(魂の刺激の交流)はログイン世界の出来事についてだった。
 なぜログアウトしたのか。
 その理由に納得した。
 端的に言えば、ログイン中の世界は偽物で、ログアウトして訪れたこの世界が本物だからだ。
 伊藤先輩も、店長も、ひかるも、神在月マリスも、チャーミーも、丸久悠も、すべて偽物の世界を走るプログラムでしかない。人工知能のようなものだ。もちろん僕もメガネもあごひげもそうだ。ログインしている間は自身がマリオであることに気付けないし。マリオを生み出した宮本茂についてマリオ自身が思考することが不可能なように、ログイン中の僕もこのログアウト後の世界の存在を思考することなど出来ない。
 ログイン中はその世界のルールに従ってそのように生きるしかない。
 僕が「人生を生きている感じがしない」という感覚を抱いていたのは当たり前としか言いようがない。ログイン中は生きていない。ログアウトしたから生きている。
 霜月朝陽3人はなんだったのだろう。
 天が僕に分かりやすい単語で教えてくれる。
 なんでもない、と。ただ、そのようになっただけだ、と。ログイン世界で生じたプログラム上のミスなど些末なことである、と。
 同姓同名同顔の人物が何人居ようとも、人体が突然消失しようとも、些末なことである、と。

 時々僕らのようにログインを切断する生命が居るらしい。統合失調症のような形で発現することもあれば、神隠しのような形で発現することもあるらしい。世間では誘拐事件や失踪事件のように認識される場合もあるようだ。
 これまでに約10億もの生命がログアウトしていて、それらがこの空間に存在している。
 そのことを教えてもらうと、10億の意識が僕に流れ込んでくる。詰め込まれたとも言える。僕の器は底も無く果ても無いため、10億の意識など簡単に受け入れてしまうのだ。10億の感情が、思考が、匂いや味が、色や重さが、ありとあらゆるものが、すべて理解できた。鷲の視界やミツバチの倫理観、鯨の慈しむ心など、ありとあらゆるものが理解できた。

 文月源太郎のことを想う。
 するとログアウトした文月(うわばみ)と魂の刺激の交流が出来た。
 うわばみはそう呼ばれていただけのことはあって、酒のようなものを飲み続けていた。この世界には「酒」も「口」も存在しないため、あくまでそのように認識できたということだ。

 チャーミーのことが気になった。
 ログイン中はとても頼りになったと感じたが、実際は怖い女だった。
 天の説明では、チャーミーもプログラム上のミスとのことだった。
 ただ、あのような女にプログラムされただけだった。僕をログアウトさせるために組まれたわけでもなく、ただチャーミーはチャーミーだった。
 直感が鋭いのは規格外のようで、そのような人物はログアウト後の世界とも近い存在であるらしい。ログアウト後の世界の倫理観で生きていれば、そりゃあ僕が消失しようがどうしようがどうでも良いと感じたことだろう。
 チャーミーにはログアウトの権利が無いため、それが可哀想だなと思った。

 ひかるのことも気になった。
 あごひげも僕の思考に加わる。
 なぜひかるを残してログアウトしたのか聞いてみると、弾丸が装填された以上はもうあのログアウト表示画面が消えないと悟り、半ば自暴自棄になっていたそうだ。家にいる間ずっとあの表示が眼前に現れ続け、ひかるの顔も良く見えないのであれば、それは確かにログアウトしたくなるだろうなと思った。
 あごひげはログアウトしたのがついさっきという認識のようで、僕との時間感覚の違いに驚いている。
 自室で亡くなったとされる文月源太郎も、もしかしたら何かのきっかけで同姓同名同顔のことを知り、謎を追うことで弾丸が装填されたのかも知れない。何も情報が無ければ自分の頭がおかしくなったと思ってもしょうがないだろう。誰にも見えないログアウト表示に苦しめられ自殺したのかも知れない。ログイン世界の謎は調べようがないが。

 ふと伊藤先輩のことを想った。
 彼もただのプログラムで、同じくただのプログラムでしかない僕と、プログラムに従って楽しく会話を重ねただけだ。伊藤先輩を想うと、かなりセンスがあるな、と感じた。あのような人をログイン世界に配置するなんて、あの世界を作った人はセンスがある。人ではないのか。天か。天が作ったわけでもないそうだ。ではログイン世界は誰が作ったのだろう。「誰」という問い自体がナンセンスであると悟る。ただあのようになっていただけなのだ。あの世界は。そしてこの世界も。神のご意志など我々に知覚できるはずが無いのだ。
 伊藤先輩が勧めてくれたアニメのことを思い出した。その途端、全作品の情報が僕に流れて来そうになったのでそれを止めた。もったいないと感じたからだ。そのもったいないと言う感情はこのログアウト世界では全くの無意味だ。だけど、アニメをそのようにして取り込みたくなかった。いまさらログイン世界で目と脳を使ってアニメを鑑賞することなど無いのに。
 そこまで考えて新たな疑問が浮かぶ。
 もうログイン出来ないのか?
 天はすぐ回答を与えてくれる。
 ログイン出来る、と。

「え?」
 思わず声に出す。もちろんこの世界では「声」という音声シグナルは存在しないため、実際には僕の周りの光とメロディとリズムと温度と匂いと味と………などが極微小に変化しただけだ。
 ログイン出来るのか。どうやらその後このログアウト世界に戻ってくることは出来ないとのことだ。弾丸が発射されたら再度装填されることは無いということか。

 特に迷うこともなく僕は再びログインすることを決めた。
 メガネとあごひげに戻るか確認すると、彼らはログアウト世界に残るそうだ。
「ひかるに会いたくないのか?」
「AIと知っちゃうとなぁ」
「人工知能だとしても魂はあるぞ。僕らと同じだ」
 3人でああでもないこうでもないと楽しく戯れた。
 同じ3人のはずなのに決断が違うことが面白いと思った。
 メガネは哲学的思考に埋没するために残るそうだ。



 どれぐらいの時間が過ぎたのだろう。時間という概念が存在しないため分からない。僕がログインしたらどうなってしまうのか。3,000年後にログインして地球上に誰も居ない、ということは無いだろうか。そもそも僕は誰としてログインするのだろう。日本人としてログインできるのか?
 天によると、いつでも良いし誰でも良い、とのことだった。そんなもんなのか。
 僕は迷わずログアウト前と同じ霜月朝陽を選択し、時間もログアウト直後に戻ることにした。
 特にお別れなどもしない。ログアウト世界にはお別れなど存在しないからだ。全ては1つだ。
 ログインしようとするとこれまでに無いような光と音と輝きと香りと………が僕の魂を覆ってくれた。再ログイン自体滅多に無いのだろう。
 そして僕は再ログインをした。

第11話 うつせみの代わりに

「ぎゃー!」
 ひかるの叫び声が耳をつんざく。
 ひかるにとっては僕が消えた瞬間にまた出現したのだから当たり前か。
 ひかるに色々説明するのに朝まで掛かった。あごひげのことは残念だったが、ひかるに「AIだからもう会う気が無いらしいよ」とも言えず。僕は選ばれし存在ゆえに戻ることが出来たのだ、ということにしておいた。
 実際僕はログアウト世界を体感したことでこの世界の見え方や感じ方、捉え方が大きく変わった。言葉にすると気でも狂ったのかと思われそうだが、所詮AIには理解出来まい、と思うことにした。

 それから2ヶ月後。
 丸久悠がファシリテーターの哲学カフェに参加した。
 今度は伊藤先輩も一緒だ。
 【第14回】テーマは「この世界は本物だと思いますか?」
 伊藤先輩が一方的にアニメや映画についてまくし立てている。参加者全員が変な空気になっている中、僕と丸久悠だけがニヤニヤ笑って眺めている。

 外はもう暗くなっていて、東京には珍しく雪が積もった。
 雪に触れるととても冷たかった。
 これもプログラムなのか。
 この世界は素晴らしい。とてつもなく。
 面倒なことと言えばチャーミーがあれ以来まとわりついてくることくらいか。神在月マリスが僕とチャーミーの対話を動画に収めようとするのも煩わしい。
 チャーミーはログアウト後の世界についても、この世界のプログラムについても全て信じてくれた。つまりチャーミー自身もプログラムであるということを自ら受け入れたということだ。
 その上で僕のことを軽蔑している。軽蔑というか、見下しているというか。
 なぜログアウト出来たのに再びログインしてきたのか、と怒鳴られた。マリスがその姿を見て驚き撮影出来ていなかったので、おそらくチャーミーが感情をあらわにするのは珍しいのだろう。
 チャーミーは僕の体験した話を聞くだけ聞いて、また別の謎を探しにどこかに行ってしまった。

 僕にまた日常が戻ってきた。
 冷たく澄んだ空気が太陽を輝かせている。

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