ラスボス「昼食」が倒せない
2月末まで、「昼飯」は最恐で最凶のラスボスだった。
ここ1年くらい、平日にだけ生じる、喉の違和感から来る食欲不信に悩まされていた。仕事がある時空腹を感じて昼休みに入っても、1階へ降りるエレベーターからもう喉がおかしい。詰まり感、と言えばいいだろうか。咳払いをしても唾を飲み込んでも、食道から何かが押し出されている感覚が消えない。
これが休日になるとなんともなくなる。平日に絶不調な訳なので、週末に食事や旅行の予定があると酷く焦ったものだが、結局全てそれらは杞憂に終わる。休日になると普通に食べるおっさんに戻れる。なのに平日だけか弱い少食おっさんなのである。
症状が数ヶ月続いた頃、胃腸科の先生に勧められ人生で初めて胃カメラでの検査を決意。と言っても麻酔でぶっ倒されている間に終わったので、痛みも苦しみも皆無だった訳だが。ぐっすり寝た後ミスドでドーナツ買って帰った。
検査結果は異常無し。というよりまっさらクリアで良好の極み。てっきり何かしら原因があると思っていたのでいい意味で拍子抜けした。と同時に、症状の真相を突き止めるための手がかりはなくなり、それに関しては振り出しに戻った。
検査結果を知り安堵したのか、その後数ヶ月は症状がマシになった。酷い時は麺類しか喉を通らなかったが、以前ほどとは言えないものの、食事の内容と量、ペースは元に戻りつつあった。
しかし昨年末、プライベートで精神的に大打撃を受ける出来事が起こり、それにつられるように仕事も円滑に流れなくなったことを機に、症状が以前より悪化した。
昼食の時間になると、詰まり感ではなく常時首をやんわりと締められている違和感が続く。それに付随してじんわりとした吐き気が襲ってくる。でも食べなければ体が持たない、と思えば思うほど食欲は遠のいて行く。何も食べる気が起きないままオフィス街をぐるぐる歩き回る。マフラーを緩めても当然症状は軽くならない。襟元に手を当てながら歩くことが癖を通り越して通常動作になった。
決死の思いで大好きなうどん屋に入り、一番小さいサイズのものを頼んでも、箸を持った瞬間からもう「入らない」と拒否反応が出る。それでも無理矢理押し込むと、咀嚼した瞬間に吐き気が増し冷や汗が大量に出る。堪らず2口しか体内に入れず店を出た。
この出来事をきっかけに、すっかり平日昼食恐怖症になった。食べ物を全て吐き気と一緒に飲み込む。外食をする、というシチュエーションが自体が怖くなり、コンビニのイートインが自分の定位置になった。おにぎりを念入りに噛み砕いて食道に流し込む。味もクソもない。ただただ食べ物を咀嚼して嚥下して胃の中に押し込む「作業」。おにぎり1つを体の中に入れるのに5分以上を有する。
たまに症状が軽い時は「今日は食べられる!」と感じ、比較的飲み込みやすいカレーのお店に入ることもあったが、3口程食ベるとやはり同じ症状が襲ってくる。なんでこんなもん頼んだんじゃ・・・と、食べ物と認識できなくなった物体を前に後悔しながらまた「作業」が始まる。お金を払ってなんで苦痛と焦燥を買わにゃいかんのか。毎回冷や汗をかきながら逃げるようにお店を出た。
そしてそれはついに休日にまで押し寄せた。安全安心のシェルターにいるというのに、首の違和感が消えない。自分で作った夕飯に箸が伸びない。
これはいかんと、今度は胃腸科ではなく耳鼻咽喉科を受診。それでもやはり結果は「異常なし」。この時自分の中で勝手に答えが出た。原因は確実に精神的な何かだ。何となく予想していたものがほぼほぼ確信に変わった。
これを機にアプローチをやや変更した。胃薬ではなく漢方を服用、食べたくない時は一切食べない。食べられそうな時でも昼食はほぼとらず間食を(隠れて)こまめにする。そして自分を必要以上に追い立てない。特異点の自分を悔やまない。この精神的なアプローチが結果的に大きかったように思う。コロナ禍を案じて無理やり増やした体重がみるみるうちに元に戻った。
そして、先月からようやく昨年末にできた傷が塞がってきた感覚を感じられるようになった。自分で自分を責め続けて、粗を探して、指摘を突きつけていた数ヶ月の日々を、俯瞰で振り返れるようになってきた。そして何より、自分を必要としなくなった人を、自分も必要としなくなったような感覚がある。燃え滓のような感情を感じながらも。
それと同時に、首の締まり感は消え始め、無くなったとは言えないものの、ほぼ感じないくらいに軽いものになった。食べ物が美味しい。味がある。食感がある。自然と口に運んで、美味しいと感じて何の意識もなく飲み込める。まだまだ波はあるものの、圧倒的にそういった日が増えてきた。だって今、夜だけど唐揚げ6つも乗ったどんぶりを平らげたばかりなんですもの。違う意味で喉苦しい。
ようやく訪れたラスボスとの和解である。最初から倒そうとしなくてよかったんか。このゲーム全クリという概念なかった。
この先きっとまた同じように精神にダメージを受けた時、また症状が戻ってくるかもしれない。でも次はもう少し上手くやれるんじゃないだろうか。戦うのは昼食ではなく自分であると今なら分かる。首の締まり感はもう一人の自分が、そんなに辛さを感じるならいっそ楽にしてやろか?と首に手を伸ばしてたんだろうか、とか非現実的な考えがよぎったが、強ち見当違いとも言えない気がするぞや。
精神的な谷を越えられ始めたのは、自分の声を聞いてくれた人たちのおかげだな、素直に思う。事件勃発直後に電話で話を聞いてくれた人、大阪で直に相談に乗ってくれた人、オンラインゲーム中にゲームそっちのけで1時間近く話を聞いてくれた人、見兼ねて外へ連れ出してくれた人、SNSでの吐露にそっといいねをくれた人、その全てが自分自身を客観的に見て肯定してくれた。その言葉と行動が体内に蓄積されて、じわじわ薬として効いてきて、頑固な自分を考えを溶かして、首を絞める自分も許してくれたのかな、と思う。
これからこの先また同じように打撃を食らっても、次は経験を武器に戦えそうな気がする、というか戦わずスルーできそうな気がする。この世界にラスボスいないんだもんね。人間版どうぶつの森?
また心がぶっ壊れたら好きなもの買って好きなもの食って好きな人と喋ってやり直そう。自分に優しく。元旦に決めた目標を改めて噛み締めて適当にやっていく。