瑠璃色の傘を差して
性格柄とでも言うべきか、誰かに真相を告げることもなく、始まったとも終わったとも報せることもなく、存在していたことさえ知らしめることもなく、自分の記憶にだけ残っている感情と事実が無数にある。
それは紛れもなく自分自身の判断でそうしてきた訳だけど、これを自分の体内と脳内から飛び出させ可視化して、そこから何かを形作っていけたのならどれだけよかっただろうか?と、今もたまに思ってしまうことがある。その先に自分の望んだものが待っていなかったとしても。
誰にも告げないまま自分の中にだけ置き去りにしてきたものを、自分の中だけで解放して、納得して、静かに終わらせていく。
今年の3月、堀江由衣のアルバム「文学少女の歌集II -月とカエルと文学少女-」をダウンロードした。新作アルバムが出るたび追っている、数少ない歌手の一人。本業は声優だけど、楽曲の世界観と彼女の俯瞰めいたボーカルが好きで、歌手としてとても好きなアーティストである。
頭から一通り楽曲を聴き楽しみ、ラストの1曲になった時、雨音とともにピアノのイントロが始まる。「瑠璃色の傘を差して」。
降り頻る雨の中停まる車中で、主人公が、緊張の糸を切らせたように、息を深く吐くところからこの曲は始まる。
この冒頭の歌詞で、一気に惹き込まれた。過去に自分が、「自分一人が分かっていればいい」と思い匿い続けたものを、自分のテリトリーでだけ解放する瞬間にとてもよく似ていた。
そしてその後、曲はこう続く。
この歌詞まで聴いて、もうこの曲が過去の自分を描写しているとしか思えなくなってしまった。似ているどころではない。自分だ。かつてどうしようもなくやり場のない事実や感情を持て余していた自分が、この曲の中にいる。
気付かれないように、人気のなくなった暗がりのような空間でだけ野放しにすることを許されていた影のような諸々を、朝が照らし出して明るみに出る前に、存在していなかったことに決め込んで、また歩き出すための扉を開ける。
全てを無かったことにして歩き出すことを決めた先でやって来るのは、これからあてもなく進めるという意味の自由と、でもその選択肢に、一番に望んでいた目的地は含まれていないという諦め。
当時自分が感じていた自分の全てが、この曲の中にある、とさえ思ってしまった。
恐らくこの先ずっと聴き続けていく曲の一つ。希望も絶望もない、だけど名前を付けて欲しい感情に対峙した時、きっとこの曲に帰ってくる。