6年経って
東京に来て6年経った。来た時に「早いとこ5年くらい経って欲しい」とTwitter(今となってはX)で呟いたのを覚えている。
あっという間だったように錯覚するけれども、1年1年何があったか辿って行くとやはり決してあっという間ではない。それまでの十数年よりも濃い時間だったなと思う。良くも悪くも。
ど田舎で生まれど田舎で育った。故郷のいいところは?と聞かれたら、自然、と答えるしかないくらい自然しかなかった。自分の部屋から見えるものは緑一色。でもそれに何の不満もなかった。
高校大学の7年間は割と都会的な場所で過ごし、社会人でまた故郷とは違うど田舎に舞い戻った。田舎エキスパートだと思い込んでいたので違和感も感じる暇なく順応した。一歩外を歩けば知っている顔だらけ、車種やナンバーで容易く個人特定可能と、プライベートもクソもない生活も自分にとっては普通だった。頻繁に利用する近所のコンビニ店員も普通に職場の関係者。そこで毎晩のようにストロング缶を買うことに何の躊躇も羞恥もなかった。
でも、それに違和感を感じ始めてから急に窮地に追い込まれた。最初は辛かった仕事もようやく手応えを感じ始めるまでになり、友人達との関係性も唯一無二になりつつあった頃だった。そこでの仕事も友人も自分にとっては必要不可欠。でもその二つの集合体から成る街からは、自分は必要とされていないのではと感じ始めていた。実際それは強ち間違いではないと今でも思う。というより真意であり真理だった。
田舎は温かさに溢れている。でもその温かさは、自分のような弾かれものには時に残酷だった。放っておかずにいてくれるということは、放っておいてくれないということと同義で、それは属性によっては大いに枷になり得る。その温かさの真意は好奇であることもザラにあるから。
ここに来て思うことは、自分はこの冷たさが欲しかったということかな、と思う。普通では無い自分を、無数の群衆たちが普通であるかのようにカモフラージュしてくれる。流れに沿って歩けば同属に擬態でき、沿いたくなければ紛れて匿われることが容易にできる。
でも自分の根底にあるのは、手放さずにいられるのなら手放したくなかったということなのだ。東京に出てきてよかったと何度も思ったし、この先何度も思うだろうけど、家族も友人も仕事も、手放さずにいられたならそれに越したことはなかった。
もう二度と会わない、会えないと決めて出てきたけれど、最近その気持ちに変化を感じている。もしかしたら、もう一度会うことがあるかも知れない。その時何を思うのかなんて当然のように分からないけど、気持ちの変化には寄り添った選択をしたいな、なんてことを思う。
拘りは必要だと思うけれど、拘りを取っ払った先に思い掛けない発見や感動があることをこの6年で感じた。だからこの先、自分のその時その瞬間の直感を受け入れて選択をしていければ、なんてことを思ったりしている。