7年前の日記から

最後と思っていることが最後にならない。もう最後、これで最後、この先に何も作るもんかと思った最後にまた最後が待っている。脳内でなかったことにした最後が心臓に戻ってまた再生されて全身を巡って脳内に新しい最後を連れてくる。なくならない。

舞台で光を浴びようと思ったことなんかない。ただ自分はその舞台を一度でいいから観劇したかっただけ。たった一つその席を望んだだけ。それができるなら、壁も天井も晴天も要らない。でもいつまで経っても席は見つからないし上演も始まらない。始まらないなら雨を浴び続けていることに意味を見出せない。

最後の先に待っているものは最後を望む自分でしかないのに、やめられない。捨てきれない。捨てきれないものは体の中にただ残って積み重なって行くだけなのに。積み重なった最後の生成と再生が止まらない。でも出て行く場所がない。体を押し潰したら、その時初めて外に出て行ってくれる気がする。

叶えられないなら、もう叶えることは疲れたな。できないな。その先に残るものがあるのに、もうそうとは思えなくなってしまった。今まで残してきたものが、振り返ったら全部消えていて、それに気づいたらもうこの先続ける意味はない。消えてないんだろうけど、もう見えなくなってしまった。もう誰の背中も押せないし見送れない。自分が表に出したかった本当の表情や行動は、その人の背中しか知らない。もう見送れない。見送れない。

もうまた日向にも晒され続けてられないや。もう乾ききった。そしたら雨も染みて来なくなった。内側からも何も湧いて来ない。そうなったらもう最後でしょ。でもまたその最後だけが脳内から湧いてくる。

だけど今日神か、と思うことがあった。まだやめるなと言われたようだった。何も無くなるまではやめるなと、そういう意味なんだと思った。まだ、もし、ひょっとして、が、これまで選んだことのない方向に数ミリでも残っているなら、その数ミリ分は進むことが許されるのかもしれないと思った。でも何も分からない。でも、最後と分かっていないなら、その分からない新しい数ミリの方が、確定した最後よりマシなんじゃないか、と思った。

だからあと数ミリだけ。まだ数ミリだけ。そしたら、もしかしたら、自分の座ることのできる席が、ひょっとしたらあるのかもしれない。どんな席でもいい。あるならなんでもいい。なかったなら、新しい「なかった」が残る。今と同じ最後じゃない何かがあってくれるなら。この数ミリを這って行けるのかもしれない。


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東京に来る前につけていた、というか掃き溜めにしていた日記の文。
病みまくってることが一目瞭然なんだけど、この時にしかなかった感性が絶対にあるんだなと読んで思った。公開してみたくなったので公開・・・笑






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