依存先からの帰還
旅行・外食・遊びなどなど、基本的に誰かと一緒じゃないと行動まで持っていけない癖がある。分かりやすく言うと、「自分のためだけにそんなことできねぇ」という感じ。ひとりでいる時間はそれなりに好きなんですけども。
この数か月、だいぶアクティブに活動していたと思う。週末は毎週のように知り合いとご飯にも行ったし、日帰り含めて旅行も何度か行った。デフォルト陰キャ気質なこれまでの人生を振り返っても、ここまで集中的に外に向かって走っていた時期はそうそう無い。去年の下半期は基本月一で遠出していた。富士山見てほうとう食べたり、山形行って山上から景色を一望したり、年末は雪山に初スノボまでしに行った。まるでアウトドア好きの陽キャじゃん。黒髪メガネオタクのクセしてよ。
これは全部、自分以外の誰かがいたからと断言できる。一人で富士山見ようなんて思わないし、道産子なのに20年近くゲレンデに縁が無かった。その場を共有できる人がいないと、自分は行動範囲を1Kの部屋からなかなか広げようとしない。
いや、広げようとしないどころではない。昔から自分の為だけに何かをすることに熱量を見出せなかった。買いたいものがあっても「本当に必要?」、食べたいものがあっても「今食べなきゃダメ?」、もう一人の自分が、選択した後に後悔がないか念入りに問いかけてきて、そうしてるうちにやらないまま終わる。
これが「誰か」が絡むと途端に容易になる。普段ケチなくせに飲み会には出席率100%、友達に会いに行く為東京から大阪に行くのも即決で、新幹線と宿泊先の手配も迅速。食べたく無いものでも誰かと食べるなら意味があると感じ、大した好きなものではなくても嬉々として食べに行く。この変貌っぷりを仕事かなんかにも活かせんのか?
一見ポジティブに思えそうなものだけども、裏を返すと欠点となる。「決断が他者に依存しまくっている」のである。依存度=原動力になってしまっているため、その誰かとの関係性が無くなってしまえば、残るのはワンルームのソファーから動かない自分だけ。実際、繋がりがなくなった途端やめてしまったことが幾つもある。共有してきた時間は紛れもなく充実感に繋がっていたのに。
いや、繋がっていたからこそ、からかも知れない。ここ最近で身近な繋がりを幾つか失った自分にとって、充実していた時間=喪失した時間となってしまった。その時間を選択した理由が共有した人自身にあったのなら尚更だ。
別に自我が無い訳じゃない。食べたいものも好きなものもやりたいこともそれなりにある。でもそれは所詮「それなり」であり、誰かの希望を上書きする程ではない。というか、誰かの希望を叶える方が好きなだけなんだ。相手が行きたいところに行けたら自分も嬉しい、食べたいものを食べられていたら楽しい、でもそれは時に、自我がないつまらない人間に映ることもなんとなく分かる。
選択が他者に依存してきた分、離れて行った人が自分の半身を持ったまま消えてしまった感覚があったんだと、ふと気づいた。何故苦しかったのか、後悔が消えなかったのか、それは半身がまだ戻ってきていないから。
でも昨日一瞬、一瞬だけだけど、自分が戻ってきた感覚があった。自分のやるべきことをやるために、ガムシャラになっていた時。決断が自分に100%委ねられている時。それは苦しさも伴うものだけど、その時久しぶりに、自分の未来の為だけに自分を捧げられているような感覚になれた気がする。
捥がれた分の空白を埋められるのは、捥いで行った人と時間の経過だけだと思っていたけれど、自分自身でもそれが可能なんだ。というか、自分自身でこそそれをしてあげなきゃいけない。
もっと、自分のしたいこと、自分の為だけにしてあげなければ。今まで、どれだけ気づかないうちに自分を放っておいてしまったんだろう。取り返してみたいなぁ、なんて今更遅いのかもしれないけれど、自分はまた自分に返りたい、帰りたいんだ。子供の頃から誰かの希望を叶えるために配りまくっていた自分の気持ちを、もう一度迎え入れてあげたい。
昨日感じた自分が自分に戻る感覚は、間違いなく自分を浄化するものだった。だからもっと自分の為に。そうして手放した分の自分を迎え入れていきたい。