実感と距離
訃報に接することが増えてきた。数年前には祖母が、先月は叔母が、そして今週は前職の時にお世話になりまくった人がまだ若いのに亡くなった。
祖母と叔母に関しては、東京に来る前に何の予告もなく会いに行った。それは、これがきっと最後になると確信していたからだった。このせいもあってか、思っていたよりも後悔は少なかったように感じている。申し訳なさは残っているけれども。
というより、きっとピンと来ていない。自分のルーツをほぼすべて根絶やしにしてこっちに来て、物理的に大きく距離を取ったお陰で、良い意味でも悪い意味でも精神的な繋がりが実際の距離以上に希薄になった。このせいで、恐らく最大級のショックとなるべき身近であった人たちの死が、ほとんどピンと来ない。(元々の性格がドライだからもあるか??
思い返せば、東京に来る以前に身近な人の死を一度も経験しなかった。通夜や告別式の手伝いは前職柄何回も経験していたのに、自分は一度も当事者として列に並んだことがない。
自分がただ会えないと決めた人と、本当にもう会うことができない人の区別が未だに曖昧だ。この二つに何の違いがあるのだろう?実際にもう会えないのであれば、生きていたとしてそれは死と同等だと思ってしまう。
でも、今週の訃報に関しては少し心に揺らぎがあった。きっと心のどこかで、また会っている自分を想像していたのだと思う。まだ何も返していないのにと思う自分が確実にいる。でも、ピンと来ていない自分の方が脳内を占めている。
これからも、もう2度と会わないと決めた人が死んだ時、自分は本当にピンと来ないんだろうか?7年前の自分なら躊躇なく首を縦に振っていただろうに、今は躊躇がある。この躊躇が何なのか。自分は何をしたら後悔が減り、そのために何をすべきなのか。転換点に立っているのかもしれない。