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道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (3/4)

第一回へ

ここからは、話を別の方向に進めよう。未来の話だ。それは秩序維持のシステムの強化についてである。

ここまでの話を振り返る。道行く人がぶつかってこないだろうという私の信頼の根拠は、二つの要素に求められた。一つは一般常識、道徳、法律といった秩序維持のシステムに対する私の信任。もう一つは、同じシステムを道行く人も信任しているであろうという私の信頼だった。そして、なぜシステムに対する信任だけではなく、他人の信任に対する信頼も必要なのかという理由に、システムの秩序維持の機能は事後的にしか作用しないから、というものがあった。

ということは、秩序維持のシステムが事前に作用するようになれば、信頼は要らないのだろうか。事前に作用するとはどういうことだろうか。先に思想警察や、『マイノリティ・リポート』の話を挙げた。これらは、再現してはならない過去の話や、遠い未来の空想の話に見える。そこまで事前に作用するようになるのは、行き過ぎの感がある。

では、事後的であっても直後に作用するとしたらだろうか。これは、私たちの世界が向かっている一つの方向であるように思える。例えば、中国には歩行者が赤信号で横断しようとすると、音声やライトで警告を発したり、当該の歩行者の画像をスクリーンに大写しするような試みがある(「信号無視すると警告メッセージ流れるシステムを全国で初導入 上海」2018年10月12日付け記事)。

これは警告なので、歩行者はその警告に従って横断を控えるだろうという信頼はなおも必要だろう。だが、物理的に横断をブロックするような仕組み、例えば目の前に障害物が現れるなどであったら、どうだろうか。物理世界では難しいかもしれない。だが、インターネット上などデジタル世界では、ユーザの行為の可能性を奪うのは簡単だろう。

行為がまさに起こった直後(あるいは直前)に、秩序維持のシステムがその行為の継続を不可能にするような対処を行うように強化された近未来を考えよう。この未来で必要とされるのは、もはやそうした秩序維持のシステムに対する信任のみだ。他人もまたシステムを信任しているかどうかはどうでもよい。信任していなければシステムがブロックするのみである。私は他人の信任を信頼する必要がない。

この近未来は超監視社会のディストピアだろうか。私たちはすべてをシステムに信任し、もはや他人を信頼することを忘れるのだろうか。信頼とは、自由に行為する存在者であると認めるからこそ、成立するものであった。信頼がまったく無くなることはないだろう。けれども信頼が必要とされる機会が大幅に減ってしまえば、私たちは他人が自由に行為する存在者であることをたいていの場合は忘れ、システムに従って動く単なる駒として見るようになるのだろうか

第四回へ

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