公明党議員の叙勲について
例)叙勲の種類
氏名 叙勲を受けた年 議会あるいは議員以外の活動、期数
勲一等旭日大綬章
白木 義一郎 平成元年(1989)参院5期
竹入 義勝 平成8年(1996)文京区議1期、東京都議1期、衆院8期
旭日大綬章
矢野 絢也 平成22年(2010)大阪府議1期、衆院9期
池坊 保子 平成25年(2013)華道家元夫人、衆院5期
富田 茂之 令和6年(2024)衆院8期
勲二等旭日重光章
北条 雋八 昭和40年(1965)貴族院議員、参院2期
宮崎 正義 昭和58年(1983)横須賀市議2期、参院3期
山田 太郎 昭和63年(1988)岡山市議1期、衆院6期
伏見 康治 平成元年(1989)理論物理学、国民会議、参院1期
岡本 富夫 平成4年(1992)衆院7期
正木 良明 平成7年(1995)堺市議1期、大阪府議1期、衆院8期
鈴切 康雄 平成8年(1996)大田区議1期、衆院8期
旭日重光章
松 あきら 平成30年(2018)宝塚歌劇団、俳優、参院3期
勲三等旭日中綬章
飯田 忠雄 平成元年(1989)衆院2期、参院1期
小谷 輝二 平成9年(1997)府議4期、衆院3期
森田 景一 平成10年(1998)衆院5期
勲二等宝冠章
柏原 ヤス 昭和62年(1987)参院4期
勲一等瑞宝章
中尾 辰義 昭和61年(1986)参院4期
高桑 栄松 平成7年(1995)衛生学、国民会議、参院2期
勲二等瑞宝章
浅井 亨 昭和49年(1974)堺市議2期、参院2期
鬼木勝利 昭和49年(1974)八女市議1期、福岡県議1期、参院1期、衆院2期
阿部 憲一 昭和55年(1980)参院2期
松本 忠助 昭和60年(1985)衆院5期
小浜 新次 昭和60年(1985)横浜市議2期、衆院4期
上林 繁次郎 昭和62年(1987)船橋市議2期、千葉県議1期、参院2期
内田 善利 昭和63年(1988)参院2期
平石 磨作太郎 平成3年(1991)衆院5期
瀬野 栄次郎 平成4年(1992)熊本市議1期、熊本県議2期、衆院4期
斎藤 実 平成5年(1993)札幌市議1期、北海道議1期、衆院6期
中西 珠子 平成7年(1995)国連ハビタット居住推進、国民会議、参院2期
和田 教美 平成7年(1995)政治評論家、国民会議、参院2期
吉浦 忠治 平成8年(1996)衆院4期
中野 鉄造 平成9年(1997)佐賀市議3期、参院2期
鍛冶 清 平成10年(1998)北九州市議3期、衆院5期
勲三等瑞宝章
高橋 繁 平成9年(1997)静岡市議1期、静岡県議2期、衆院2期
勲五等旭日双光章
山口 正憲 平成4年(1992)東京都議会議員4期(’24.7.11追加)
紫綬褒章
高木 健太郎 昭和49年(1976)生理学、国民会議、参院2期(注 高木の受賞は議員になる前である)
藍綬褒章
石垣 一夫 平成2年(1990) 高槻市議1期、大阪府議5期、衆院1期
出典は政治家人名事典(1990)、現代政治家人名事典(1999) ともに日外アソシエーツによる。ただし、公明党・国民会議の学識経験者5名は除いた。また、矢野絢也氏の叙勲はwebを参照(日本経済新聞2010.10.19)。
「公明党議員は叙勲は受けない」というので過去はどうだったのか調べてみると叙勲を受けていた元議員は意外に多いので、叙勲に関して当初は各議員の判断に委ねられていたと思う。おそらく竹入義勝氏の叙勲(1996 平成8年)と朝日新聞の回顧録(1998 平成10年)以後、創価学会・公明党による激しい竹入氏への批判が行われたことを契機に、公明党の議員は引退後も含めて全員叙勲を辞退すべきだ、となっていったのではないか。
政治家人名事典の刊行は1990年、現代政治家人名事典の刊行は1999年で、叙勲も平成10年頃までの記載であり、公明党議員の叙勲者をすべて把握できているわけではない。褒章を受けた地方議員は多くいるはずだと思う。また、柏原女史が叙勲を受けたことで池田氏に叱られた話は会内では有名で、池田氏の意向を汲んで叙勲を辞退した議員も多かったのではないか。
公明党の議員が叙勲を辞退する建前は勲章の官民格差を是正する、議員は当選するのが光栄なことで市民のために働くのは公僕たる議員として当然のことだから勲章は不要との理由付けだった。ただ、党の創立者がもらわない勲章をもらうのかという本音の部分で池田氏に忖度して辞退してきたようだし、全員辞退のきっかけも竹入氏であったなら池田大作氏と竹入義勝氏との確執といった感情的理由の方が大きそうである。また、矢野絢也氏が創価学会を退会してから民主党政権下の2010年に叙勲を受けたのはいろいろな事情があったのだろうが、公明党の議員は引退後でも叙勲を受けないと申し合わせた後のことなので、自らを散々攻撃してきた創価学会・公明党へのあてつけ、意趣返しという意味合いもあったかと思う。
ただ、調べてみると叙勲も公明党が問題にした官民格差よりも男女格差の方がはるかに大きい。
現代政治家人名事典には公明党の国会議員(引退含む)は約170名掲載されており、80名弱が現役か落選中、引退して叙勲を辞退したか任期が短いと思われる元議員が70名弱、叙勲が記載されていた元議員が20数名で学識経験者を除けば20名程度。公明党で叙勲を受けた元国会議員は3~4人に1人位の割合だった。当初から叙勲を辞退した元議員の方が多いとは思うが、叙勲を受けた議員の数や割合に鑑みると「公明党の議員は叙勲は受けない」といった単純化した言明は今まで誰一人として叙勲を受けてこなかったかのような事実と違う誤解を生じさせやすく、適切な表現ではなかったのではないか。時期やきっかけを示す言葉を端折ってただ「公明党の議員は叙勲は受けない」と単純化した言明を繰り返すことでむしろ誤解された方が望ましいと判断したのだとすれば、それは誠実な政党の態度とは思えない。
追記1 各議員の叙勲を受けた年を記載し、記述も叙勲を受けた年順に人物も並び替えた。公明党の元議員が叙勲を受けた時期は昭和60年前後から平成10年頃までが多い。もっとも平成11年以降は政治家人名事典、現代政治家人名事典が刊行された後だから筆者が見落としているだけで叙勲を受けた議員もいたのかもしれない。ただ平成13年(2001)5月の衆院本会議で神崎武法公明党代表(当時)が栄典制度の改革に言及し、「受章対象者は民間人を基本とし、特に政治家は勲章、褒章の対象から除外すべき」との公明党の見解を示しているので、その頃には公明党議員は全員叙勲は辞退すべきだとの共通認識はできていたと思われる。なのでやはり平成10年の竹入氏の回顧録が批判され、竹入氏を糾弾する過程で竹入氏が受けた叙勲も問題視されて公明党議員は全員叙勲を辞退すべきだとなっていったのではないかとの推測は的外れなものではないと思う。矢野氏が叙勲をあえて受けたことも含めて公明党議員の叙勲辞退の真の理由は叙勲の官民格差などではなく、感情的確執にあると筆者は考えている。
追記2 「創価公明党との決別」人間の科学新社 2012年刊行 創価学会、公明党と袂を分かった公明党議員および公明党議員経験者の手記によれば、褒章を受けている地方議員もままみられたので参考のため、引用しておこうと思う。
柴田 政邦 平成9年藍綬褒章、平成19年旭日小綬章、帯広市議10期
宮川 健夫 藍綬褒章 前橋市議10期
松本 信雄 平成19年旭日小綬章、船橋市議1期、千葉県議5期
藤原 行正 昭和59年藍綬褒章、杉並区議2期、東京都議7期(自著「池田大作の素顔」260頁による)
藍綬褒章等の褒章の受章者は公明党地方議員経験者では辞退者の方が多いとしても累計で数百人はいそうで、少なくとも百人は下らないのではないか、との印象を持った。同書では昭和38年初当選の地方議員の手記も複数みられ、その中には創価学会を退会し、無所属になっても議員活動を続けたと手記に記していた人もいたので公明党の議員は創価学会の支援がなければ一人も当選しない、とは限らないし草創期の公明党を創った人達はさすがに気骨のある人が多いのかとも感じた。また、決別のわりに、自らが創価学会員や公明党議員として活動してきた過去を懐かしそうに振り返っている姿勢も共通していると思った。本来であれば、公明新聞や聖教新聞の機関誌でこそ取り上げるべき手記にも思え、残念な気もするし、他にやりようはなかったのかとも思うが、筆者自身を振り返ってみても今後、会に残るという選択肢はなさそうなので、このへんでペンを置くというか、キーボードから離れようと思う(’24.4.3.追記2を追加)。
追記3 令和6年4月の富田茂之元衆議院議員の旭日大綬章受章についてのnoteの記事を公開したところ、記事を読んだ方からご指摘を受けたので、池坊保子氏と松あきら氏、および富田茂之氏の叙勲を追加した。また、池坊保子氏と松あきら氏を追加し、両者とも議員活動以外の活動を加味された叙勲受賞だと思われたので、当初noteの記事にする際、省略していた公明党・国民会議の受章者5名(高木健太郎、高桑栄松、中西珠子、伏見康治、和田教美)も参考の為、加えることにした('24.5.6追記3を追加)。
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