見出し画像

公明党を創った百人

はじめに

 54人の文化部員を調べて、昭和30年4月に創価学会の推薦を受けて統一地方選に立候補した人たちを一応noteの記事にまとめ、一息はついたものの、それで終わりにはできなかった。それどころか彼らのその後も文化部=創価学会の政治進出のその後も気になって仕方がない。その次の選挙、次の展開、特に公明党になるまでの足跡は現在では歴史の中に埋もれてしまっているように感じ、引き続き調べずにはおれなかった。調べていくうちに都議会議員と参議院議員は人数もそれほど多くなく、選挙結果を20年ぐらいたどっても人数が両者とも30数人ぐらいであることに気付き、そのくらいの人数なら網羅的に調べられると思った。それに衆議院議員を衆院進出時の25人を軸に、地方議員も(あるいは地方議員となると数の多さから網羅するのは難しいが、それでも全員やれなくはないのかなどと考えつつ)・・・という目算でだいたい昭和30年から50年くらいまで、100人くらいを紹介すればこの人たちが公明党を創ったと評価してもよいのではないかと考えた。
 もとより筆者が紹介する100人だけが公明党を創ったと断定したい訳ではない。池田大作氏が公明党の結党を呼びかけ、公明党の創設者と位置付けられていることも、地方議員も含めれば数千人もの議員、その家族とその人たちを当選に押し上げた創価学会員を中心とした支援者全てによって公明党が創られてきたことも承知している。そのうえで、昭和39年の公明党結党時の議員数は1102人という事なのだが(「公明党の歩み」215頁 昭和44年 訂正 ’24.2.28)、その全員は難しくとも現在では歴史に埋もれてしまって支持者や現役の議員にも顧みられなくなっているのではないかと思われる草創期の100人余を「公明党を創った百人」と称して紹介することもそれなりに意味があるのではないかと考え調べ始めたわけである。ただ、調べてみてとても百人でおさまりそうもないとなったときの為、旧ツィッター投稿時には一応(仮)をつけておいた。案の定、百人ではおさまらないと思いつつ、紹介を始めようと思う。

昭和30年 第3回統一地方選挙

➊ 小泉 隆  東京都議
➋ 森田 悌二 横浜市議
③ 原島 宏冶 東京都大田区議
④ 鈴木 一弘 川崎市議、初代文化部長
⑤ 宮崎 正義 横須賀市議
⑥ 松尾 正吉 川崎市議
⑦ 上林 繁次郎 千葉県船橋市議
⑧ 浅井 亨  大阪府堺市議
⑨ 鬼木 勝利 福岡県八女市議 
➓ 竜 年光  東京都品川区議
⓫ 宮沢 良雄 東京都文京区議
⓬ 松尾 喜八郎 東京都渋谷区議
⓭ 藤原 行正 東京都杉並区議 以上は54人の文化部員
⓮ 藤井 富雄 東京都練馬区議 ただし選挙時期は昭和30年9月

参議院選挙 昭和31年、昭和32年大阪補選、昭和34年

(原島 宏冶) 昭31年落選、国政へ転出
⑮ 北条 雋八 元貴族院議員、文化部顧問
⑯ 辻 武寿  13人の文化部員
⑰ 白木 義一郎
⑱ 柏原 ヤス 昭31年落選、13人の文化部員
⑲ 小平 芳平 昭31年落選
⑳ 中尾 辰義 昭32年大阪補選落選
㉑ 石田 次男
㉒ 牛田 寛  13人の文化部員

昭和34年 第4回統一地方選挙

㉓ 竹入 義勝 東京都北区議
㉔ 大川 清幸 東京都墨田区議
㉕ 正木 良明 大阪府堺市議
㉖ 沖本 泰幸 大阪市議
㉗ 広沢 直樹 高知市議
㉘ 小浜 新二 横浜市議
㉙ 二宮 文造 香川県高松市議
㉚ 斎藤 実  北海道札幌市議
㉛ 中野 明  岡山県倉敷市議
㉜ 瀬野 栄次郎 熊本市議

昭和37年 参議院選挙

㉝ 和泉 覚
㉞ 渋谷 邦彦
(北条、辻、白木)2期目
(鬼木、鈴木、浅井、二宮)国政へ、9名当選。

昭和38年 第5回統一地方選挙

衆議院進出は決まっていないが「勝って先生に衆議院進出をお願いしよう」ということか。のち衆議院進出組が多い。
㉟ 小川 新一郎 埼玉県議
㊱ 伏木 和雄 神奈川県議
㊲ 丸山 勇  静岡県議
㊳ 沢田 実  岐阜県議
㊴ 矢野 絢也 大阪府議
㊵ 浅井 美幸 大阪府議
㊶ 原田 立  福岡県議
㊷ 大橋 敏雄 福岡県議
㊸ 樋上 新一 京都市議
㊹ 近江 巳記夫 大阪市議
㊺ 北側 義一 大阪市議
㊻ 山田 太郎 岡山市議
㊼ 鈴切 康雄 東京都大田区議
㊽ 伊藤 惣助丸 東京都豊島区議
㊾ 坂井 弘一 和歌山市議 昭44衆
㊿ 新井 彬之 神戸市議 昭44衆
51 古川 雅司 大竹市議 昭44衆
52 古寺 宏  青森市議 昭44衆
53 高橋 繁  静岡市議 昭47衆
54 和泉 照雄 鹿児島県議 昭47衆落
55 矢原 秀男 尼崎市議 昭49参
56 馬場 富  犬山市議 昭52参
57 和田 一郎 宇都宮市議 昭44衆

昭和38年 都議会議員選挙

公明党都議会の陣容がほぼ固まる人選、本陣東京、精鋭の印象
(小泉、竜、松尾、宮沢)2期目
(竹入、大川、藤原、藤井)区議から
58 三宅 政一 足立区議      
59 神田 学忠 板橋区議
60 今泉 太郎 豊島区議
61 五島 正三 世田谷区議
62 井上 浩一 豊島区議 
63 星野 義雄  
64 川崎 実
65 西方 国治
66 板倉 弘典 13人の文化部員

昭和40年 都議会”都庁の黒い霧”解散

67 砂田 昌寿 港区議
68 菅原 世光 練馬区議
69 名古屋 誠吉 文京区議
70 花曲 勤  中野区議
71 森川 清次 台東区議 
72 鈴木 仁  三鷹市議

昭和39年
公明党結党、前言撤回し衆議院進出へ
衆議院選挙立候補予定者発表、ただし、都議会解散で予定が狂う
原島宏冶の急逝。小泉、竜、藤原、藤井、大川、星野等も都議にとどまる。

昭和40年 参議院議員選挙

創価学会執行部とでもいうべき面々、11名当選、3名落選。
73 北条 浩(党への抑え、目付け役か)東京
74 多田 省吾
75 黒柳 明
76 田代 富士男 大阪
77 矢追 秀彦
78 山田 徹一
(宮崎、原田立)国政へ
(柏原、小平、中尾)2期目
79 石田 幸四郎 愛知県 落選
80 渡部 一郎(城克)兵庫県 落選
(大橋敏雄)福岡県 落選 

昭和42年 東京都知事選、第6回統一地方選

81 阿部 憲一 落選     81人 

昭和42年 衆議院議員選挙

(時系列では4月の都知事選、統一地方選より1月に行われた衆院選が先)
選挙経験者多し、満を持して、ということか
82 有島 重武
83 大野 潔
84 松本 忠助
85 岡本 富夫
86 田中 昭二 
87 塩出 啓典

当選25名 竹入、矢野、大橋、石田、渡部、浅井、小川、伏木、小浜、正木
斉藤、樋上、近江、北側、鈴切、伊藤、沖本、山田、広沢、中野
落選7名 小島、大沢、松尾正吉、上林、丸山、沢田、塩出啓典 

昭和43年 参議院議員選挙

88 三木 忠雄
89 峯山 昭範
90 藤原 房雄
91 内田 善利
(阿部憲一)   91人

昭和38年統一地方選経験者と百人に記しておきたい人

92 権藤 恒夫 福岡市議 衆議院
93 沼川 洋一 熊本市議、県議 衆議院
94 谷口 是巨 長崎県議 衆議院
95 森田 景一 習志野市議、千葉県議 衆議院
96 中野 鉄造 佐賀市議 参議院
97 常松 克安 松阪市議 参議院

98 庭山 昌 7度の国政挑戦、群馬県議 父は庭山鉄雄
99 安見 福寿 沖縄創価学会の一粒種、那覇市議
100 友利 栄吉 那覇市議、初の沖縄県議 玉城栄一、白保台一

百人の経歴


➊~⓭までの人物は「54人の文化部員」も参照してほしい。
➊ 小泉 隆(明治41年‐昭和63年)教諭。創価学会理事長(昭和29-35年)、昭和30年東京都議会議員(大田区)、昭和34年立候補せず、昭和38年から52年まで都議4期(選挙区は目黒区)、都議会議員を通算5期18年務めた。池田大作、白木かねの婚儀の際、小泉夫妻が仲人を務めた。

➋ 森田 悌二(明治33年‐昭和51年 享年75歳)創価学会鶴見支部長、財務部長、昭和30年横浜市議会議員(鶴見区)、2期務めた。昭和49年5月、第一回創価功労賞「忘れ得ぬ同志」2巻(242-244頁)。森田一哉元理事長の父で、昭和18年からの創価教育学会幹部一斉検挙の際検挙された森田孝は悌二の弟である。

③ 原島 宏冶(明治42年‐昭和39年 享年55歳)教諭。創価学会理事長(昭和35-39年)、公明政治連盟及び公明党初代委員長、昭和30年東京都大田区議、昭和31年参院選落選、昭和34年参議院議員(全国区)、昭和39年12月公明党結党の翌月に急逝。創価学会元教学部長原島嵩は次男。長男原島昭は「池田大作と原島家」を著した。

④ 鈴木 一弘(大正13年‐平成15年 享年78歳)創価学会文化部長、川崎支部長、昭和30年川崎市議会議員、昭和34年神奈川県議会議員、昭和37年参議院議員(全国区)、以降昭和61年まで通算4期24年参議院議員を務めた。公明党副委員長「公明党50年の歩み 増訂版」(22頁)。

⑤ 宮崎 正義(明治45年生)建築士、創価学会理事、副理事長、昭和30年横須賀市議、34年横須賀市議2期、40年参議院議員(全国区)、以降58年まで参議院議員を連続3期18年務めた。昭和36年北海道に創価学会幹部として夫婦で赴任(北海道広布二十年史)、その際、横須賀市議を辞したと思われる(当時横須賀支部長と)。横須賀市議一期目も二期目も任期途中で辞職か。それで昭和37年の参院選出馬ははばかられ、40年の参院選まで待ったのではないか。昭和58年、勲二等旭日重光章。

⑥ 浅井 亨(明治35年‐昭和61年 享年83歳)歯科医、創価学会堺支部長(昭和28年)、昭和30年大阪府堺市議会議員、昭和34年堺市議(2期)、昭和37年参議院議員(全国区)、昭和43年参議院議員2期(兵庫選挙区)。堺市議を2期、参議院議員を通算2期務めた。浅井美幸元衆議院議員の父。昭和49年、勲二等瑞宝章。

⑦ 上林 繁次郎(大正6年‐平成14年 享年85歳)プロ野球選手、東急フライヤーズで白木義一郎(のち参議院議員)と同僚に。昭和30年千葉県船橋市議、昭和34年船橋市議2期、昭和38年千葉県議、昭和42年衆院選旧千葉1区落選(次点)、昭和43年参議院議員(全国区)、昭和49年参議院議員(全国区、2期)。市議2期、県議1期、参院2期。昭和62年、勲二等瑞宝章。

⑧ 松尾 正吉(大正4年-平成9年 享年82歳)プレス加工業、昭和30年神奈川県川崎市議、昭和34年川崎市議(2期)、昭和38年神奈川県議、昭和42年衆議院選挙次点で落選(旧神奈川2区 定数四‐5位)、昭和44年衆議院議員当選(同区)、昭和47年衆議院選挙次点で落選(同区)。市議2期、県議1期、衆議院議員1期。後継候補は市川雄一。

⑨ 鬼木 勝利(明治37年-昭和59年 享年82歳)、中学教諭・校長、昭和30年福岡県八女市議、34年福岡県議、37年参議院議員(全国区)、43年参議院選挙次点落選(福岡地方区 定数3)、44年衆議院議員(旧福岡3区)、47年衆院選次点6位、48年衆院旧福岡3区補欠選挙で当選。参議院議員を1期、衆議院議員を2期務めた。昭和49年、勲二等瑞宝章。長男は鬼木亮福岡県議。

➓ 竜 年光(大正10年‐平成19年 享年85歳)創価学会男子部第4部隊長、文化局政治部長、副理事長、公明政治連盟書記長、公明党副書記長、昭和30年東京都品川区議、昭和34年都議会議員(品川区)以降昭和60年まで7期26年都議会議員を務めた。引退後は一転、創価学会解散を主張した。

⓫ 宮沢 良雄(大正3年生)警察官・警察学校教官、創価学会理事、昭和30年東京都文京区議会議員、昭和34年東京都議会議員(板橋区)、以降昭和52年まで5期18年東京都議会議員を務めた(職業・文京区議は聖教新聞縮刷版昭和38年度1-4月による)。

⓬ 松尾 喜八郎(大正3年生)北海道北見出身、創価学会理事、昭和30年東京都渋谷区議会議員(渋谷区議会史による)、昭和34年東京都議会議員(選挙区は大田区、小泉隆の不出馬によると思われる)、以降昭和56年まで連続6期22年東京都議会議員を務めた。

⓭ 藤原 行正(昭和4年生)旧満州大連生まれ、中央大学法学部、創価学会渉外局長、副理事長、昭和30年東京都杉並区議、昭和34年杉並区議(2期)、昭和38年東京都議会議員(杉並区)、以降平成元年まで連続7期26年東京都議会議員を務めた。都議6期目頃から池田氏を公然と批判し、のち「池田大作の素顔」(講談社 平成元年)を著した。昭和59年、藍綬褒章と。

⓮ 藤井 富雄(大正13年-令和3年 享年96歳)昭和30年9月東京都練馬区議、34年9月練馬区議2期、38年東京都議会議員(新宿区)、以降平成17(2005)年まで連続11期、42年都議会議員を務めた。平成6年、公明党が新生党などと新進党を結成する際、分党した地方議員主体の「公明」代表を務めた。

⑮ 北条 雋八(明治24年-昭和49年 享年83歳)旧子爵、東京帝大農、帝室林野局技師、貴族院議員(昭和14年-22年)。日蓮正宗法華講であった縁で入会。創価学会文化部顧問、昭和31年参議院議員(全国区)、昭和37年参議院2期。創価学会第4代会長で参議院議員を一期務めた北条浩は甥。昭和40年、勲二等旭日重光章。
 貴族院議員だった北条雋八の参院選での当選は創価学会にとって望外の僥倖をもたらしたと思われる。異端視されることなく社会変革を叫んでも伝統、歴史の破壊者とはみなされなかった。現実に反共の防波堤として期待された。戸田はそれを期待したか、古島一雄、塚本素山などから示唆された可能性は考えられる。54人の文化部員はそのまま統一地方選に出ているのに、おそらく国政選挙を意識して追加任命された13人の文化部員は必ずしも選挙に出たわけではないという事実は、たとえば貴族院議員だった北条雋八や、文化部員に任命されていた白木薫次でなく、プロ野球選手だった甥白木義一郎を擁立した様に(’24.2.26表現を修正)、会内の事情以外の力学が働いた可能性を推測させる。

⑯ 辻 武寿(大正7年-平成24年 享年94歳)教諭。昭和15年入信、創価学会初代青年部長、理事、副会長、昭和30年3月文化部員、昭和31年参議院議員(全国区)、昭和37年参議院2期、昭和39年12月、結党の翌月急逝した原島宏冶の後任として公明党第2代委員長に就任(昭和42年まで)。
 原島宏冶、小泉隆、辻武寿は皆教員で創価学会では「蒲田の三羽烏」と称された。原島の妻せいが夫の酒癖と子どもの病弱のため入信。原島家で隣の白木家を折伏。原島が小泉を、小泉が辻を、辻が三宅家を折伏。三宅家の長女は小平芳平に嫁ぎ、次女の淑子が池田大作を座談会に誘い、小平が池田を折伏した。原島昭「池田大作と原島家」には原島せいを折伏したのは同じ小学校で教鞭をとっていた寺坂陽三だったと記されている。

⑰ 白木 義一郎(大正8年-平成16年 享年84歳)慶応高等部卒、慶大進学も軍に召集され終戦後はプロ野球投手。創価学会初代大阪支部長、昭和31年参議院議員(大阪選挙区)、以降昭和61年まで連続5期30年参議院議員を務めた。創価学会理事であった白木薫次は叔父、薫次の娘で池田大作の妻かねはいとこにあたる。平成元年、勲一等旭日大綬章。

⑱ 柏原 ヤス(大正6年-平成18年 享年89歳)教諭。昭和15年入信、創価学会理事、杉並支部長、第3代婦人部長。昭和31年参議院選挙(東京)次点落選(定数四-5位)、昭和34年参議院議員(東京)、昭和40年参院2期(選挙区は全国区)、以降昭和58年まで連続4期24年参議院議員を務めた。昭和62年、勲二等宝冠章。

⑲ 小平 芳平(大正10年-平成13年 享年79歳)創価学会教学部長、昭和31年参議院選挙(全国区)落選、昭和34年参議院議員(全国区)、以降昭和58年まで連続4期24年、参議院議員を務めた。妻は大田区議三宅穣の長女、和子(三女妙子によればのち離婚と)。次女淑子が池田を座談会に誘い、小平が池田を折伏した。

⑳ 中尾 辰義(大正5年-平成24年 享年96歳)鹿児島県串木野市出身、歯科医、創価学会船場支部長、昭和32年参議院大阪補選落選、昭和34年参議院議員(全国区)、以降昭和58年まで連続4期24年、参議院議員を務めた。昭和61年、勲一等瑞宝章。
 大阪事件とは中尾が創価学会推薦で立候補した昭和32年参議院大阪選挙区補選の際に創価学会陣営が行った戸別訪問・買収事件をいい、当時の理事長小泉隆及び渉外部長池田大作ほか40数名が逮捕・起訴された。のち小泉、池田は無罪となったが罰金刑20名うち17名は公民権停止。組織的買収行為は事実なので無実の冤罪事件とは言い難い。

㉑ 石田 次男(大正14年-平成4年 享年66歳)昭和25年入信、男子部第一部隊長、小岩支部長、初代九州総支部長、聖教新聞主幹、理事、昭和34年参議院議員(全国区)、1期務めた。母石田つかは第2代婦人部長、妻栄子(旧姓小島)は初代女子部長、元公明党委員長石田幸四郎は実弟、創価学会第5代会長秋谷栄之助は義弟(妹明子の夫)にあたる。

㉒ 牛田 寛(大正4年-昭和40年 享年49歳)横浜高工機械科卒、東京都立大講師、創価学会初代男子部長、第2代青年部長、理事、学術部長、昭和34年参議院議員(全国区)、昭和40年参議院議員任期中に逝去。

㉓ 二宮 文造(大正9年-平成18年 享年86歳)昭和19年東北大中退、朝日新聞記者、昭和23年退社し故郷の高松に戻り家業の二宮被服代表(メリヤス業)、昭和29年入信、昭和34年香川県高松市議、昭和37年参議院議員(全国区)、以降昭和61年まで連続4期24年、参議院議員を務めた。

㉔ 竹入 義勝(大正15年-令和5年 享年97歳)長野県上伊那郡、国鉄職員、昭和28年入信、昭和34年東京都文京区議、昭和38年東京都議会議員(北区)、昭和42年衆議院議員(旧東京10区)、公明党第3代委員長を昭和42年から昭和61年まで19年、衆議院議員を昭和42年以降平成2(1990)年まで連続8期23年務めた。8度の衆院選で7回一位当選。後継候補は山口 那津男。
 昭和45年、創価学会が引き起こした言論出版妨害事件に関し公明党委員長辞任を表明(矢野書記長も)。ただその直後、再び公明党は竹入委員長、矢野書記長を選出した。昭和46年、参議院選挙期間中にもかかわらず訪中、帰国時には投票日を過ぎていた。日中国交回復には多大な貢献をしたといえようが、しかしそれが創価学会首脳にどう映ったかは想像に難くない。田中角栄、周恩来とはウマがあったようだとは矢野絢也評、逆に北朝鮮首脳とはあわず、喧嘩して帰ってきたと。昭和46年秋、暴漢に刺される。昭和50年、創共協定を死文化。筆者は「再び伯仲、公明党」のスローガンと右手を掲げ握りこぶしを突き上げる竹入委員長の姿(ポスターだったと思う)が記憶に残っている。政界引退後の平成8年、勲一等旭日大綬章。平成10年に朝日新聞に寄せた手記をきっかけに創価学会・公明党から激しく糾弾された。しかし、それに対して一切反論せず沈黙を守り続けた竹入氏の姿勢に、下世話な言い方になるが、別れた女房の悪口は言わないというような氏の人柄が感じられ、筆者は畏敬の念を抱いている。
注) 本稿執筆中の令和5年12月26日、竹入義勝氏の訃報に接しました。ご冥福をお祈りいたします。

㉕ 大川 清幸(大正14年-平成26年享年89歳)中央大、実家は酒屋、昭和34年候補者の父の急病で区議選に、東京都墨田区議、昭和38年東京都議会議員(墨田区)、以降昭和55年まで5期17年東京都議を務めた。昭和55年都議を辞任、参議院議員(全国区)に、1期6年務めた。のち、公明党顧問。

㉖ 斎藤 実(大正12年‐平成26年 享年91歳)青森県、石川建設、斎藤工業社長、昭和30年入信、34年札幌市議、38年北海道議会議員(札幌市)、42年衆議院議員(旧北海道1区)、44年衆議院議員2期、47年衆院選次点落選、51年衆議院議員3期、以降61年まで衆議院議員を通算6期務めた。平成5年、勲二等瑞宝章。後継候補は藤原 房雄。

㉗ 小浜 新二(大正4年‐平成17年 享年90歳)力士、出羽ノ海部屋、小浜屋代表、昭和28年入信、34年横浜市議(西区)、38年横浜市議2期、42年衆議院議員(旧神奈川3区)、44年衆議院議員2期、47年3期、51年落選、54年4期、55年次点で落選し、引退。衆議院議員を通算4期務めた。昭和60年、勲二等瑞宝章。

㉘ 沖本 泰幸(大正9年-昭和60年 享年64歳)広島県、参議院議員白木義一郎秘書、昭和34年大阪市議(西成区)、昭和38年大阪府議(大阪市西成区)、昭和42年衆議院議員(旧大阪1区)、昭和44年2期、以降昭和58年まで連続6期衆議院議員を務めた。後継候補は小谷 輝二。              

㉙ 正木 良明(大正14年-平成9年 享年72歳)大阪府堺市、堺市役所、昭和29年入信、昭和34年堺市議、昭和38年大阪府議(堺市)、昭和42年衆議院議員(旧大阪5区)、以降平成2年まで連続8期衆議院議員を務めた。平成7年、勲二等旭日重光章。弟、正木良夫も堺市議、昭和38年から平成7年まで、落選がなければ8期務めたことになる(’24.2.26訂正)。創価学会元理事長正木正明とは親子でも伯父甥でもなく、出身地と名字が同じだけのようだ。後継候補は北側 一雄。
 正木良明氏は、吉秋雅規(よしあき・まさき)という氏名を逆にした名で作詞家としても活動していた。川島なお美「ハネムーン」、島倉千代子「恋みれん」、村田英雄「男の花吹雪」等々。「男の花吹雪」は昭和62年の紅白歌合戦で村田英雄さんが歌っている('24.3.8追加)。

㉚ 中野 明(大正15年-平成8年 享年70歳)大阪府、昭和28年入信、昭和34年1月岡山県倉敷市議、38年創価学会高知本部総事務長、42年衆議院議員(旧高知全県区)、44年衆院2期、47年衆院選次点落選、52年参議院議員(全国区)58年参院2期。倉敷市議1期、衆議院議員2期、参議院議員を2期務めた。

㉛ 広沢 直樹(昭和6年-平成19年 享年76歳)北朝鮮生まれ、土電、土佐百貨店、昭和30年入信、34年高知市議、38年香川県議、42年衆議院議員(旧徳島全県区)、公明党ならではの政治歴と評された(国会議員総覧 1967年版)。以降昭和54年まで連続4期衆議院議員を務めた。昭和54年の衆院選で落選、引退した。後継候補は遠藤 和良。

㉜ 瀬野 栄次郎(大正10年-平成23年 享年89歳)熊本県熊本市、熊本営林局、営林署技師。昭和34年熊本市議、昭和38年熊本県議、昭和42年熊本県議2期、昭和44年衆議院議員(旧熊本1区)以降昭和55年まで連続4期衆議院議員を務めた。昭和55年衆院選落選、引退。平成4年、勲二等瑞宝章。後継候補は沼川 洋一。人事興信録第25版上には親戚に石田次男、幸四郎、有島重武と記されているけれども詳細はよくわからない。

昭和37年参議院選挙

 前年に公明政治連盟を結成、政党化への準備か。
北条雋八、辻、白木が2期目。鬼木、鈴木、浅井亨、二宮文造が国政へ。和泉、渋谷の計9人が当選。

㉝ 和泉 覚(明治44年-平成17年 享年93歳)静岡県下田、軍人、憲兵准尉、大蔵商事社長、東洋精光参与、創価学会理事長(昭和41年-49年)。昭和37年参議院議員(東京)、1期6年務めた。昭和49年、妙信講創価学会本部襲撃事件で理事長を辞任(後任は北条浩)。妻ミヨは創価学会初代婦人部長、戸田会長時代、秘書部長。当時ミヨは会長印を自由にできる立場にあったと。

㉞ 渋谷 邦彦(大正13年-平成17年 享年81歳)創価学会仙台支部長、初代学生部長、昭和37年参議院議員(全国区)、43年参議院2期(愛知)、49年参院選落選(愛知)、50年参院愛知補選次点落選、52年参議院議員(全国区)3期、58年立候補せず。仙台市議を1期務め、宮城県議任期中に逝去した渋谷政蔵は父。

①-㉞までの人達が昭和31年、昭和32年大阪補選、昭和34年、昭和37年の参議院選挙候補者、当選者の人達と昭和30年、34年の統一地方選からのち国政や都議会に出ていった人達(昭和38年、40年の都議選候補者で昭和34年の統一地方選経験者はまた後で紹介する)である。まだ地方議会か国政かも流動的で、議員を兼ねつつ創価学会幹部として全国の有縁の地に派遣されたり(場合によっては議員を辞職してでも)していて地域も流動的。ただ、長寿な方が多い印象を持った。人に接したり頼られたりすることが多いと張り合いや生きがいにつながり、ゆえに長く生きられるのかもしれない。

昭和38年 第5回統一地方選

 衆議院進出は決まっていないが「勝って先生に衆議院進出をお願いしよう」ということか。衆議院進出組が多い。

㉟ 小川 新一郎(大正15年-平成27年 享年89歳)昭和22年牛乳販売店経営、昭和27年入信、昭和38年埼玉県議会議員(川口市)、昭和42年衆議院議員(旧埼玉1区)、以降昭和55年まで連続5期当選、昭和55年衆院選落選、昭和58年から平成2年まで通算7期衆議院議員を務めた。後継候補は福留 泰三。

㊱ 伏木 和雄(昭和3年-平成24年 享年83歳)昭和26年入信、昭和37年創価学会理事、副理事長(43年)。昭和38年神奈川県議会議員(横浜市鶴見区)、昭和42年衆議院議員(旧神奈川1区)、以降平成5年まで衆議院議員を連続9期務めた。後継候補は上田 勇。

㊲ 丸山 勇(大正15年-昭和60年 享年59歳)昭和24年入信、創価学会理事、副理事長。昭和31年大東金属設立。昭和38年静岡県議会議員、昭和42年衆議院選挙次点落選(旧静岡2区)、昭和44年衆議院議員(同区)、昭和47年立候補せず、静岡県議1期、衆議院議員を1期務めた。後継候補は高橋 繁。

㊳ 沢田 実(大正12年-昭和51年 享年52歳)昭和24年法大中退、同年繊維製品卸売業、昭和29年入信、創価学会理事、副理事長。昭和38年岐阜県議会議員、昭和42年衆院選次点落選(旧岐阜1区)、昭和43年参議院議員(全国区)、昭和49年立候補せず。岐阜県議1期、参議院議員を1期務めた。

㊴ 矢野 絢也(昭和7年- )昭和28年入信、昭和31年京大卒、大林組、昭和38年大阪府議(大阪市生野区)、昭和42年衆議院議員(旧大阪4区)、公明党書記長、昭和43年創価学会総務、以降平成5年まで連続9期衆議院議員を務めた。昭和61年から平成元年まで公明党委員長(第4代)。後継候補は久保哲司。引退後著書を執筆、政治評論家に。平成22年、旭日大綬章。
 大林組に入社早々ついたあだ名が矢野常務。関西創価学会の四天王を評して「田代富士男は実行参謀、矢追秀彦は感覚参謀、浅井美幸は軟弱参謀、矢野絢也は邪宗参謀」と。外山四郎「矢野絢也全人像」。中道仕掛人のネーミングといい、一筋縄でいかない公明党には珍しいタイプ。邪宗参謀と呼ばれて本人はなぜと憤慨したそうだが、筆者は言い得て妙だと感心した。
 著作に直筆メモの一部が掲載されていたが、本人以外は判読不能ではないかと感じた。また、著作からは詳細で精確なメモを多忙であったはずの議員活動中に長年にわたって記し続けてきたことが窺えた。もはや党の財産として活用されることもないのだとすると、残念な気もする。

㊵ 浅井 美幸(昭和2年-平成21年 享年82歳)歯科医、昭和29年入信、昭和36年創価学会関西本部、同年創価学会理事、40年副理事長、43年総務。昭和38年大阪府議(大阪市東淀川区)、昭和42年衆議院議員(旧大阪2区)、以降平成5年まで連続9期、衆議院議員を務めた。後継候補は谷口 隆義。父は浅井 亨元参議院議員。

㊶ 原田 立(大正15年-平成12年 享年73歳)横浜市市場小卒、昭和22年入信、23年京三製作所、30年聖教新聞、創価学会理事、副理事長、総務。昭和38年福岡県議会議員(福岡市)、昭和40年参議院議員(全国区)、以降平成元年まで連続4期参議院議員を務めた(3期目からは福岡選挙区)。後継候補は木庭 健太郎。

㊷ 大橋 敏雄(大正14年-平成29年 享年91歳)佐世保海軍旋盤工、青果販売、飲食店経営。昭和27年入信、創価学会福岡県支部長、昭和38年福岡県議会議員(北九州八幡区)、昭和40年参院選(福岡)落選、昭和42年衆議院議員(旧福岡2区)、以降平成2年まで連続8期衆議院議員を務めた。同選挙区は平成2年から東順治が立候補。
 昭和63年、公明党現職国会議員として文藝春秋6月号に手記を発表。池田氏が創価学会、公明党を私物化していると糾弾したが、伝聞と個人的な確執を示す記述が主で手記の内容というより公明党国会議員による池田名誉会長批判の社会的反響を期待したものに思えた。同年6月、大橋氏は公明党を除名され、無所属に。除名の理由は手記ではなく別件だったと記憶している。
 昭和42年の公明党衆議院初当選組25名中一位当選は竹入義勝、矢野絢也、大橋敏雄。公明党を創ったというにはふさわしくないと創価学会・公明党が敵視する人物を記さないなら上記3名含めあと何名かも外せとなるだろう。しかし、それでは事実を記すことにならないと思う。よってそういう姿勢はとらない。
 ただ文化部員のその後や公明党議員の経歴等に鑑みると池田氏が創価学会・公明党を私物化しているとの批判は少なくとも公明党に関しては当たらないのではないか。文化部員として政治の道に踏み出した人達に対して本人の意に反して公認を外すようなことはしていないように見受けられ、むしろ長く議員活動を行った者の方が多いとの印象を持った。立候補時に50代、60代といった年齢ゆえに1期、2期で政治から引退という例はあるが、当選者は次回の選挙の当選も見込め、党勢拡大といった目的もあり、いったん議員になった人はできるだけ長く議員活動を行えるように配慮していると思う。ただ、便利使いの様に衆院や参院への転出や選挙区変更となる例は評価が分かれるかもしれない。落選を機とした候補者交代はままみられるものの、それが選挙の厳しさだろうし、池田氏の独断で現職の首を挿げ替えるといったことはしていないのではないか。池田氏を批判して次の選挙にでられなくなったか、次回公認の目がなくなり批判に転じたかは評価が難しい。

㊸ 樋上 新一(明治40年-昭和55年 享年72歳)昭和3年頃、NHKでおとぎのおじさんとして創作童話を巧みな話術で披露、人気を博したと(国会議員総覧 1967年版)。樋上医科機械製作所、洛南塗装工業代表、昭和29年入信、38年京都市議(南区)、42年衆議院議員(旧京都1区)、44年2期、47年衆院選落選引退、市議1期、衆院2期。後継候補は竹内 勝彦。

㊹ 近江 巳記夫(昭和10年- )昭和30年入信、関西大、船場ウインド、店舗設計デザイナー、昭和38年大阪市議(西成区)、昭和42年衆議院議員(旧大阪3区)、以降昭和55年まで5期連続衆議院議員を務め、昭和55年の衆院選に落選したのち、昭和58年から平成12年まで5期連続で衆議院議員を務めたので(平成8年衆院選は新進党比例区)通算10期衆議院議員を務めた。平成6年、羽田内閣で科学技術庁長官に任命された。

㊺ 北側 義一(昭和2年- )福井県出身、大阪府立城東工業機械科卒、近鉄、浪花工芸経営、新聞販売店、昭和38年大阪市議(生野区)、昭和42年衆議院議員(旧大阪6区)、以降昭和58年まで連続6期衆議院議員を務めた。後継候補は参議院から衆議院に転じた矢追秀彦。北側一雄衆議院議員の父。

㊻ 山田 太郎(大正7年-平成14年 享年84歳)岡山市出身、慶大文卒、カネボウ、中国鍍金塗装常務、食料品製造業、昭和29年入信、昭和38年岡山市議、創価学会理事(39年)副理事長(43年)、昭和42年衆議院議員(旧岡山1区)、以降昭和58年まで連続6期衆議院議員を務めた。後継候補は日笠 勝之。山田 徹一元参議院議員の実兄。昭和63年、勲二等旭日重光章。

㊼ 鈴切 康雄(大正15年-平成24年 享年86歳)名古屋、神戸高船専科(現神戸大)中退、昭和27年入信。鈴切材木店経営、昭和38年東京都大田区議、創価学会理事、副理事長(昭43)42年衆議院議員(旧東京2区)以降平成2年まで連続8期衆議院議員を務めた。後継候補は遠藤乙彦。妹敬子は辻 武寿元参議院議員の後添い。平成8年、勲二等旭日重光章。

㊽ 伊藤 惣助丸(昭和8年-平成10年 享年64歳)東京都出身、日大2年修了(昭40)、昭和26年労働省、昭和30年山一堂代表、昭和32年入信、昭和38年東京都豊島区議、創価学会理事、副理事長(昭43)昭和42年衆議院議員(旧東京5区)、44年衆院2期、47年衆院選落選、引退。後継候補は長田 武士。

㊾ 坂井 弘一(昭和4年-令和3年 享年92歳)和歌山出身、摂南工専卒、坂井食品工場専務、昭和38年和歌山市議、昭和40年創価学会理事、副理事長(昭44)、昭和42年和歌山県議、昭和44年衆議院議員(旧和歌山1区)、以降平成5年まで連続8期衆議院議員を務めた。後継候補は西 博義。

㊿ 新井 彬之(昭和9年-平成29年 享年82歳)神戸出身、関西大卒、昭和27年入信、ピカソ美化学研究所(自然化粧品製造)、創価学会兵庫本部事務長(昭40)、昭和38年神戸市議、44年衆議院議員(旧兵庫4区)以降55年まで連続4期、55年落選、昭和58年から平成2年まで衆院2期務め、通算6期衆議院議員を務めた。後継候補は赤松 正雄。

51 古川 雅司(昭和10年-)仙台出身、山形大工卒、昭和30年入信、三菱レイヨン大竹工場、昭和38年大竹市議、昭和42年広島市議、昭和44年衆議院議員(旧広島3区)、47年落選、51年2期、54年3期、55年落選、58年4期、61年5期、平成2年落選、衆議院議員を通算5期務めた。後継立てず。

52 古寺 宏(大正14年-平成元年 享年64歳)青森、東北大付属医専卒、医師、青森県、青森市診療所、古寺医院、昭和31年入信、昭和38年青森市議、昭和42年市議2期、昭和44年衆議院議員(旧青森1区)、47年落選、51年衆院2期、54年、55年とも落選し引退。衆院議員を通算2期務めた。後継立てず。

53 高橋 繁(大正11年-平成19年 享年84歳)現浜松市出身、台湾台南師範卒、静岡県公立学校教諭、昭和38年静岡市議、昭和42年静岡県議、昭和46年県議2期、昭和47年衆議院議員(旧静岡2区)、昭和51年落選、昭和54年衆院2期、昭和55年落選。市議1期、県議2期、衆議院議員を通算2期務めた。後継候補立てず。

54 和泉 照雄(大正10年-昭和61年 享年64歳)昭和15年陸軍士官学校卒、大尉で復員、昭和38年鹿児島県議(鹿児島市)、昭和42年県議2期、46年県議3期、47年衆院選落選(鹿児島1区)、49年参院選落選(鹿児島選挙区)、昭和52年参議院議員(全国区)、県議3期、参院1期務めた。

55 矢原 秀男(昭和5年-)兵庫県、昭和29年近大法卒、大谷重工業、昭和38年兵庫県尼崎市議、昭和42年兵庫県議、昭和46年県議2期、昭和47年参院補選落選(兵庫)、昭和49年参議院議員(兵庫選挙区)、昭和55年参院選落選、昭和58年参院2期、平成元年参院3期、尼崎市議1期、兵庫県議2期、参議院議員を通算3期務めた。

56 馬場 富(大正14年-平成20年 享年83歳)愛知県、海軍飛行予科練卒、名古屋中央電信局、草井和紡社長、食品店経営、昭和38年愛知県犬山市議、昭和42年市議2期、昭和46年立候補せずか(犬山市議選も愛知県議選にも出ていない。直前まで同年参院選愛知選挙区の出馬が検討されていたのかもしれない。)、昭和50年愛知県議、昭和52年参議院議員(愛知選挙区)、昭和58年参院2期。市議2期、県議1期、参院2期。

57 和田 一郎(昭和4年-令和4年 享年92歳)栃木県、興国商業高校中退、関東木工、藤井ガラス商店、昭和31年入信。昭和38年宇都宮市議、42年市議2期、昭和44年衆議院議員(旧栃木2区)、47年落選、昭和51年~55年まで通算衆院3期務めた。55年落選、引退。後継候補は水谷 弘。


昭和38年 東京都議会議員選挙

 公明政治連盟時代だが、公明党東京都議会の陣容がほぼ固まる。前回の11人中3人当選という結果をうけ、当選者以外は候補を一新、必勝の体制で挑んだ。創価学会本陣東京の精鋭幹部を選抜した印象。結果も17人全員当選。その後の選挙の手本に。
 小泉 隆、竜 年光、松尾喜八郎、宮沢良雄が2期目(小泉は昭和34年都議選は立候補せず。前年の戸田逝去をうけ理事長に専念したか)。竹入義勝、大川清幸、藤原行正、藤井富雄が区議から都議へ。練馬区議から都議選(新宿区)に転出した藤井の後継で前回都議選(新宿区)候補の宇野津定三が練馬区議に。

58 三宅 政一(大正12年生)東京都出身、神田生地問屋勤務、小石川高校卒。昭和26年入信、創価学会理事、登山部副部長。昭和34年足立区議、昭和38年東京都議会議員(足立区)、以降60年まで連続6期22年都議会議員を務めた。後継候補は岡安孝明(昭和38年から足立区議)。

59 神田 学忠(大正6年生)昭和28年入信、創価学会理事、京橋支部長。昭和34年板橋区議、昭和38年東京都議会議員(江東区)、以降昭和56年まで連続5期18年都議会議員を務めた。江東一帯の水害対策、防災施策に熱心に取組んだと。後継候補は岩舘衛(昭和38年から江東区議)。

60 今泉 太郎(明治41年生)陸軍経理学校、昭和29年入信、創価学会理事、豊島支部長。昭和34年豊島区議、38年東京都議会議員(豊島区)。以降昭和48年まで連続3期10年都議会議員を務めた。後継候補は長橋孝(昭和38年から豊島区議)。温厚な人柄。黒柳明元参議院議員は娘婿にあたる。

61 五島 正三(大正3年生)新潟県出身。昭和27年入信、創価学会理事、世田谷支部長。昭和34年世田谷区議、昭和38年東京都議会議員(世田谷区)。以降昭和48年まで東京都議会議員を連続3期10年務めた。人情に厚い苦労人との聖教新聞評。後継候補は桜井良之助。

62 井上 浩一(昭和4年-昭和46年 享年41歳)東京都出身、中大経済卒、書籍業。昭和28年入信、創価学会理事、昭和34年豊島区議、昭和38年東京都議会議員(江戸川区)、40年2期、44年3期、以降昭和46年3月、任期中に急逝するまで連続3期東京都議会議員を務めた(’24.3.30訂正)。区議時代、墓地問題に取り組む。後継候補は鈴木善次郎(昭和42年から江戸川区議)。ただ、区議当選以降学会の渉外関係の仕事を担い、他宗の学会員への埋葬拒否などの問題の解決にあたったというが、疑問もある。区議の立場を利用していたらそれこそ問題。あと、この時期の文化部員は当選後議員の仕事そっちのけで全国の選挙に飛び回っている。ある意味現在の維新よりひどかったかもしれない。後継候補の鈴木善次郎は昭和47年の補選で当選。

63 星野 義雄(大正13年生)昭和26年入信、ひさご印刷社長、ひさご(ひょうたん)の名は戸田会長が命名と。創価学会理事、登山部長。昭和38年東京都議会議員_(荒川区)、以降平成元年まで連続7期26年東京都議会議員を務めた。後継候補は鈴木 貫太郎。

64 川崎 実(大正6年生)東京都出身、中大卒、東京海上火災保険勤務。昭和30年入信、創価学会理事、文化局言論部第二部長。昭和38年東京都議会議員(渋谷区)、以降昭和56年まで連続5期18年東京都議会議員を務めた。後継候補は甲斐 孝喜(昭和42年から渋谷区議)。

65 西方 国治(大正5年生)長野県出身、戦後ニューギニアから裸一貫で引揚げと。昭和27年入信、新東工機KK社長、創価学会理事、東京第六総支部長。昭和38年東京都議会議員(葛飾区)、以降昭和56年まで連続5期18年東京都議会議員を務めた。後継候補は今井 悦豊(昭和42年から葛飾区議)。

66 板倉 弘典(明治42年生)東京都、真言宗僧侶、昭和23年入信、油脂会社設立。創価学会理事、昭和30年3月文化部員、昭和36年初代桐生支部長。昭和38年東京都議会議員(大田区)、以降昭和52年まで連続4期東京都議会議員を務めた。後継候補は園部 恭平(昭和34年から大田区議)。

昭和40年 東京都議会議員選挙(自主解散)

 昭和38年都議選から2年しか経っていないが、都議会議長職を巡る贈収賄や都政の不祥事が相次ぎ(東京都議会黒い霧事件)、刷新を求める声に抗しきれず、自主解散。以降、都議選は統一地方選と2年ずれる。都議会自民党は惨敗、過半数を大きく割り、社会党が第1党に躍進。公明党は前職17名と新人6名の計23名全員が当選した。

67 砂田 昌寿(大正6年生)東京医科歯科大卒、歯科医。創価学会理事、港支部長。昭和34年港区議、昭和38年港区議2期、昭和40年東京都議会議員(港区)、以降昭和56年まで都議会議員を連続4期16年務めた。後継候補は五十嵐 正(昭和46年から港区議)。

68 菅原 世光(大正5年生)昭和34年9月練馬区議、昭和38年区議2期、昭和40年東京都議会議員(練馬区)、以降昭和56年まで連続4期16年東京都議会議員を務めた。「公明」昭和38年2月の第5号で練馬区議一期目を振り返り、先輩の藤井富雄区議と名コンビで縦横無尽の活躍と自画自賛。時代ゆえの自信か。後継候補は石川 芳昭。

69 名古屋 誠吉(大正7年元日生)文京支部長。昭和34年文京区議、昭和38年文京区議2期、昭和40年東京都議会議員(文京区)、以降昭和52年まで連続3期12年東京都議会議員を務めた。後継候補鈴木 友吉は昭和52年落選、昭和56年から河村 文生が3期。平成5年から定数減、2人区に。

70 花曲 勤(大正8年生)中大卒、大塚副支部長。昭和34年中野区議、昭和38年中野区議2期、昭和40年東京都議会議員(中野区)、以降昭和48年まで東京都議会議員を務めた。区議2期、都議2期。後継候補は橋本 辰二郎(昭和48年から平成17年まで連続8期32年都議会議員を務めた)。

71 森川 清次(大正7年生)千代田支部長。昭和38年台東区議、昭和40年東京都議会議員(台東区)、以降昭和56年まで連続4期16年東京都議会議員を務めた。後継候補は前島 信次郎(昭和56年から平成5年まで都議会議員を3期務めた)。平成5年から定数減、2人区に。

72 鈴木 仁(昭和4年生)中小企業コンサルタント、世田谷副支部長。昭和38年三鷹市議、昭和40年東京都議会議員(北多摩2区)、以降平成元年まで連続6期24年東京都議会議員を務めた。北多摩2区は平成元年の東京都議選から定数が減り2人区に。以後、公明党は候補を擁立せず。

昭和40年 参議院議員選挙 

 参院公明党の骨格がほぼ固まったとは外山四郎評「公明党議員団」(67頁)。あるいは創価学会執行部とでもいうべき面々で、柏原ヤス、小平芳平、中尾辰義が2期目。北海道に赴任した宮崎正義と福岡県議の原田立が国政へ。北条浩、多田省吾、黒柳明、田代富士男、矢追秀彦、山田徹一が初当選で計11名当選。ただ選挙区で石田幸四郎、渡部一郎(城克)、大橋敏雄が苦杯を喫した。

73 北条 浩(大正12年-昭和56年 享年58歳)神奈川出身、海軍兵学校卒、昭和26年入信、東洋精光社長。創価学会男子部第二部隊長、昭和34年理事、翌年副理事長、初代事務総長、昭和39年には創価学会理事長に就任。政治面でも昭和36年公明政治連盟副委員長、昭和39年公明党結党時には書記長、昭和40年から参議院議員(東京選挙区)を一期務め、昭和42年衆院進出後の竹入委員長・矢野書記長体制のもと公明党副委員長等、創価学会・公明党の要職を歴任した。言論出版妨害事件以降は昭和45年創価学会副会長(北条、秋谷、森田)、昭和49年和泉理事長辞任で再び理事長に。昭和54年池田会長が辞任、後任として創価学会第四代会長に就任した。
 昭和39年の理事長就任は原島宏冶の急逝による。昭和40年の参院立候補は党への抑え。昭和45年の副会長新設は創価学会と公明党の組織分離のため3氏に権限集中させ混乱を防ぐためか。昭和49年の理事長再就任は妙信講問題。昭和54年の会長就任は宗門との和解。早すぎた逝去は酒豪故か、あるいは必然とも思える。
 北条浩の叔父は元貴族院及び参議院議員の北条雋八。元参議院議員の阿部憲一は姉の夫で義兄。妻弘子(旧姓坂本)は女子部第3部隊長、婦人部長を歴任。次女の夫は荻本直樹主任副会長。阿部憲一の長女は野崎勲に嫁ぎ、北条と野崎は義理の叔父甥。信仰と縁故の強固な絆は創価学会の特徴。しかしそれは時に呪縛にもなる。

74 多田 省吾(昭和6年-平成22年 享年79歳)山形市、東北大、昭和27年入信、29年聖教新聞社入社、大白蓮華編集部長、聖教編集総局次長、創価学会男子部・青年部長、公明党機関紙局長。昭和40年参議院議員(全国区)、以降平成元年まで4期24年参議院議員を務めた。妻時子は衆議院議員(1期)。

75 黒柳 明(昭和6年- )東京出身、早大英文科卒、英語が達者で駐留軍の通訳をしていたと。昭和29年入信、聖教新聞、潮初代編集長、海外総局長、公明党国際局長。昭和40年参議院議員(全国区)、昭和46年から東京選挙区、以降平成7年まで5期30年参議院議員を務めた。人よんで参院の爆弾男。今泉太郎都議の娘婿。平成8年参議院から鞍替えし衆院選で新進党から東京15区(小選挙区制、江東区)に立候補するも次点落選、政界を引退。当選者は柿澤弘治。江東区長選を巡る買収で逮捕された柿沢未途議員の父。お笑いウルトラクイズ等での黒柳の雄姿は残念ながら筆者は未見。ただ、当時見ていたら公明党の議員なのに不謹慎だなんだと批判していたと思う。今はぜひ見ておきたかった。「誰に質問してもあたりさわりのない同じような返答しかしない」との公明党議員の金太郎飴のような画一的イメージを破るのに貴重な存在だったと認識を改めた。

76 田代 富士男(昭和6年- )佐賀県、昭和27年入信、創価学会関西総合本部事務総局長、副理事長、総務。昭和40年参議院議員(大阪選挙区)、昭和58年4期目の当選、任期満了前年の昭和63年、砂利船汚職事件が発覚、離党し参議院議員を辞職。のち受託収賄罪で起訴され有罪に。
 田代氏は関西創価学会のドン、天皇とか言われていたと記憶している。田代氏の汚職事件が公明党国会議員の汚職として最初の事件だったのでは。以前にも不祥事はあったのだろうが、砂利船汚職事件以降の公明党や創価学会の不祥事は底が抜けた感がある。リクルート事件。横浜捨て金庫事件。資金運用で穴をあけ、損失補てん。税務調査と調査を巡る暗闘。不倫横行。新銀行東京の融資口利き。通話記録窃盗。ヤフー恐喝未遂。政調費不正使用の目黒区議大量辞職。国会議員が貸金業法違反…
 もう不祥事議員が出てもまたか、としか感じなくなり、クリーン、清潔な党との評価は台無し。あの当時、父が激怒していたのを覚えている。「土下座せえ、70万軒謝って回れ」と。

77 矢追 秀彦(昭和8年-平成21年 享年76歳)兵庫県、昭和28年入信。阪大歯学部病理教室、歯学博士。聖教新聞関西総支局長、創価学会総務。昭和40年参議院議員(全国区)、昭和58年まで3期務め、同年の参院選に立候補せず衆院転出(旧大阪6区)、以降平成5年まで衆議院議員も3期務めた。

78 山田 徹一(大正10年-平成9年 享年75歳)岡山県、関西中卒、小学校助教員、中国鍍金塗装設立。昭和29年入信、創価学会理事、副理事長、総務。昭和40年参議院議員(全国区)、以降昭和52年まで2期参議院議員を務めた。草創期の学会の二大関所、岡山が山田、函館が能条と。
 幹部が乗る列車を調べては、かならず駅のホームに顔を出し、列車の発車寸前まで指導を求める姿が幹部の間で語り草になっていたとある(「忘れ得ぬ同志」48頁)。岡山が山田徹一、函館が能条康尊。能条氏は54人の文化部員のひとりで昭和30年函館市議。相似た境遇の地方の一粒種として紹介されている。

79 石田 幸四郎(昭和5年-平成18年 享年76歳)北海道、昭和28年入信、明大卒、聖教新聞社、創価学会第4代男子部長、第5代青年部長、理事、副理事長、総務。昭和40年参院選落選(愛知)、昭和42年衆議院議員(旧愛知6区)、44年落選、47年2期。以降平成12年まで通算10期衆議院議員を務めた(10期目となる平成8年衆院選時の政党は新進党、選挙区は比例東海ブロック)。平成元年から6年まで公明党委員長(第5代)。平成5年総務庁長官。創価学会理事で参議院議員を務めた石田次男は実兄、妹明子の夫で創価学会第5代会長の秋谷栄之助は義弟。妻の父、鈴木儀尾は昭和38年から岡崎市議を3期務めている。

80 渡部 一郎(城克)(昭和6年-平成29年 享年86歳)旧満州大連、東大、昭和27年入信、東大法華経研究会を設立した一人(篠原誠、渡部一郎、森田康夫、青木亨)。聖教新聞、公明新聞編集局長、創価学会男子部長、青年部長、総務。昭和40年参院選落選(兵庫)当時は渡部城克で活動していた。のち渡部一郎に戻し昭和42年、衆議院議員(旧兵庫1区)。以降平成5年まで衆議院議員を連続9期務めた。戸田城聖が城の字を与えた青年は渡部 一郎(城克)と秋谷 栄之助(城永)の二人。兵庫県下四十人の公明党議員のかなめと国会議員総覧。妻、渡部通子も衆議院議員を1期、参議院議員を1期務めている。渡部の妻通子の姉郁子は藤原行正に嫁いだ。妻の実家は創価学会の古参会員、埼玉県大宮市の松島家。渡部一郎の後継候補は赤羽 一嘉。
 創価学会の青年部幹部のうち男子部長経験者は牛田、多田、石田幸、渡部、三木、大久保と言論出版妨害事件前にほとんど皆政界に進出し、秋谷、青木(ただし、青木は青年部長のみ経験)しか学会に残らず、創価学会と公明党の組織分離で戻せなくなるのは想定外だったはず。この事は後の創共協定時の学会と党の不協和音に影響したと筆者は考えている。例えば野崎勲は協定交渉時、松本清張や共産党の上田、山下氏に「(公明党は)会長の考えていることからみると次元が低い」と公明党執行部を軽んじる発言を平気でしている。これは既に政界入りした先輩達に揉まれてこなかったからではないか。ただ協定締結後、野崎は梯子を外され皆から袋叩きに遭うのだが・・・

昭和42年衆院選、東京都知事選、東京都特別区議選

 創価学会が政界に進出しても政党にはしない、衆議院には出ないとの戸田前会長の方針を池田会長が昭和39年5月の創価学会本部総会で全員の賛同のもと転換。初挑戦となる昭和42年衆院選には公明党から32名が立候補し、25名が当選した。
 都知事候補の阿部憲一は公明党初の首長候補で、60万票を獲得するも3位落選。東京都特別区議選は202名中124名当選と80名近くもの落選者をだした。都議選の時期がずれ、都知事選と区議選が重なったことでの投票率の増加を読み違えた。過去3回の選挙で32名、76名、136名と倍々の勢いでも全員当選を続けてきた区議選での惨敗は新執行部には苦い船出となった。
 「公明党50年の歩み」は昭和42年統一地方選を「大躍進した」(51頁、増訂版も同頁)と述べ、東京特別区議選124人と獲得した議席数のみ記しわかりにくい。しかし昭和30年32人、34年76人、38年136人のいずれも全員当選から202人中124人当選、78人落選が大躍進と言える訳がなく、市議選他の結果でごまかす、不誠実な記述態度である。また同書は、戸田前会長が生前、政党にはしない、衆議院には出ないとした言明も、池田会長も当初は戸田の方針を踏襲していたことも明記していないので、なぜ池田会長が昭和39年の本部総会で参加者に公明党の結成と衆議院への進出を諮ったのか、がわからない。自分達にとって都合のいい所だけ書くつまみ食いのような記述態度は改めるべきだと筆者は思う。

81 阿部 憲一(明治42年-昭和63年 享年79歳)長野県、東大、昭和28年入信、海運業、渋沢海運社長。創価学会理事、副理事長。昭和42年都知事選公明党推薦(3位)、昭和43年参議院議員(東京、和泉覚後継)、昭和49年2期、同55年まで2期12年参議院議員を務めた。引退後、創価学園理事長。創価学会第4代会長北条浩の義兄(浩の姉の夫)で、創価学会副会長野崎勲の義父にあたる。昭和55年、勲二等瑞宝章。

昭和42年 衆議院議員選挙

 統一地方選などの選挙経験者多し、満を持して、ということか

82 有島 重武(大正13年-平成18年 享年81歳)東京都、慶大卒、作曲家。昭和26年入信。民音理事、創価学会理事、副理事長。昭和42年衆議院議員(旧東京6区)、以降平成2年まで連続8期衆議院議員を務めた。作家有島武郎、里見弴の甥。創価学会第5代会長秋谷栄之助は従弟とあり、有島重武の母章と秋谷栄之助の父重兵衛が姉弟のようだ(人事興信録25版による)。ただ有島の母は秋谷重兵衛二女章とも記されており、秋谷栄之助の父、重兵衛の父もまた重兵衛という名なのだろうか、疑問が残る。生年(章が明治34年生まれ、栄之助父重兵衛は明治37年生まれ)に鑑みると栄之助父重兵衛と章は親子ではありえず、章が姉の姉弟と思う。後継候補は東祥三。

83 大野 潔(昭和5年-平成18年 享年76歳)東京、昭和28年入信、東京都建設局。創価学会理事、副理事長、渉外総局次長、総務。昭和42年衆議院議員(旧東京7区)、以降平成2年まで連続8期衆議院議員を務めた。日中国交回復、沖縄返還、公明党衆院進出時等の政局を記録した著作が2冊「今だからいえる」「流れがかわった」(ともに亜紀書房)。後継候補は大野 由利子。親子ではないようで、血縁関係は不明。たまたま同姓なのが名前の浸透に有利と考えたのだろうか。

84 松本 忠助(大正3年-昭和61年 享年71歳)茨城県、県立古河商業3年修了、昭和24年入信、日本電波通信機、大東通運役員。創価学会理事、副理事長。昭和42年衆議院議員(旧東京9区)、以降昭和55年まで連続5期衆議院議員を務めた。昭和55年衆院落選、引退。後継候補は中村巌。昭和60年、勲二等瑞宝章。

85 岡本 富夫(大正10年-平成17年 享年83歳)奈良県、昭和29年入信、東亜高等経理学校卒、岡本製作所代表取締役、日本クインライト(株)を設立し代表取締役。昭和42年衆議院議員(旧兵庫2区)、以降昭和61年まで連続7期衆議院議員を務めた。日本クインライト現社長は次男尊広氏。後継候補は冬柴 鐵三。平成4年、勲二等旭日重光章。

86 田中 昭二(昭和2年-平成30年享年91歳)福岡県八女、昭和15年入信、久留米、佐世保税務署。創価学会九州本部事務局長、理事、副理事長。昭和42年衆議院議員(旧福岡1区)、以降昭和58年まで連続6期衆議院議員を務めた。両親は田中国之・シマ代、創価教育学会に入信した八女の一粒種、兄淳之も久留米市議。後継候補は神崎 武法。

87 塩出 啓典(昭和8年-平成21年享年76歳)愛媛、京大卒、昭和29年入信、八幡製鉄、創価学会中国本部事務局次長、昭和42年衆院選次点落選(旧広島3区)、昭和43年参議院議員(全国区)、昭和61年4期目、平成2年衆院選立候補のため辞職、衆院選次点落選(旧広島1区)、引退。後継候補は斉藤鉄夫現国交相。


昭和42年衆議院選挙、公明党公認候補選挙結果

(選挙区は旧中選挙区制)
当選25名
北海道1 斎藤実
埼玉1 小川新一郎
東京2 鈴切康雄
東京5 伊藤惣助丸
東京6 有島重武
東京7 大野潔
東京9 松本忠助
東京10 竹入義勝
神奈川1 伏木和雄
神奈川3 小浜新次
愛知6 石田幸四郎
京都1 樋上新一
大阪1 沖本泰幸
大阪2 浅井美幸
大阪3 近江巳記夫
大阪4 矢野絢也
大阪5 正木良明
大阪6 北側義一
兵庫1 渡部一郎
兵庫2 岡本富夫
岡山1 山田太郎
徳島全 広沢直樹
高知全 中野明
福岡1 田中昭二
福岡2 大橋敏雄

落選7名
千葉1 上林繁次郎
東京3 小島重正
東京4 大沢重信
神奈川2 松尾正吉
岐阜1 沢田実
静岡2 丸山勇
広島3 塩出啓典

 当選者25名のうち20名(有島、大野、松本、岡本、田中以外)は既に地方選、都議選、参院選等で選挙を経験していた。落選者も塩出以外は選挙経験済みであった。
 参考ついでに、昭和39年の公明党結成、衆議院進出決定時の衆参両議院立候補者名簿を紹介しておく。ただその後都議会が昭和40年6月に解散し、翌月に都議選が行われて、都政刷新を主張し都議会解散を積極的に主導した公明党が、わずか1年半で都議から国政へ多くの鞍替え出馬する議員を出すのははばかられ、衆院進出予定の都議もそのまま都議にとどまることになる。この点、竹入氏は委員長就任が内定していたので衆議院に出たが他の衆院進出予定の都議はそうする訳にいかず都議会にとどまったと説明はされてきても、具体的な名簿はほとんど紹介されてこなかったと思うので、この機会に紹介しておく意義はあると思う。
 原島宏冶氏の急逝と都議会解散がなければ、衆議院進出もまた違った様相を呈していたはずで、例えば原島委員長・竹入書記長とか、原島委員長・藤井書記長といった布陣になっていたかもしれない。候補予定者名簿は高瀬広居「ドキュメント公明党」305頁より引用(選挙区は旧中選挙区制)。

衆議院
東京1 藤井富雄
東京2 竜年光
東京3 小泉隆
東京4 原島宏冶
東京6 大川清幸
東京7 大野潔
東京9 竹入義勝
東京10 星野義雄
北海道1 斎藤実
神奈川1 伏木和雄
神奈川2 松尾正吉
神奈川3 小浜新次
千葉1 上林繁次郎
埼玉1 富田政男
栃木2 中川重造
静岡2 丸山勇
愛知1 木村四郎
岐阜1 沢田実
京都1 樋上新一
大阪1 沖本泰幸
大阪2 浅井美幸
大阪3 近江巳記夫
大阪4 矢野絢也
大阪5 正木良明
兵庫1 岡本富夫
兵庫2 寺井英治
岡山1 原淵祥光
山口1 塩出啓典
高知全 中野明
福岡1 権藤恒夫
福岡2 桑名義治
福岡3 藤原行正

参議院
地方区
東京 北条浩
大阪 田代富士男
愛知 石田幸四郎
兵庫 渡部城克
福岡 大橋敏雄
全国区
柏原ヤス
小平芳平
中尾辰義
宮崎正義
多田省吾
黒柳明
矢追秀彦
山田徹一
原田立

 補足として、昭和42年衆議院選挙に落選した東京3区小島重正は昭和38年板橋区議、東京4区大沢重信は昭和38年渋谷区議。
 昭和39年の衆院候補予定者のうち愛知1区木村四郎は昭和38年名古屋市議、埼玉1区富田政男は昭和42年埼玉県議、栃木2区中川重造は昭和38年栃木県議、兵庫2区寺井英治は昭和38年兵庫県議、岡山1区原淵祥光は昭和38年岡山県議、福岡1区権藤恒夫は昭和38年福岡市議、福岡2区桑名義治は昭和42年福岡県議(選挙区は旧中選挙区制)であった。

昭和43年 参議院議員選挙

 全国区に三木、二宮、鈴木、上林、塩出、峯山、沢田、内田、藤原の9名。地方区に阿部(東京)、白木(大阪)、渋谷(愛知)、浅井亨(兵庫)の4名で計13名。鬼木(福岡)が次点落選、創価学会、公明政治連盟、公明党を通して初の現職国会議員の落選となった。
 参議院議員を2期務めた北条雋八、辻が引退。和泉覚も1期で政界を引退し創価学会に戻る。白木が3期目。二宮、鈴木と選挙区を全国区から地方区に変えて挑んだ渋谷、浅井が2期目。上林、沢田、塩出が前年衆院選落選から参院へ転出。都知事候補だった阿部も参院へ。

88 三木 忠雄(昭和10年-平成27年 享年69歳)徳島、中大卒、昭和29年入信、創価学会本部、同事務総局次長、昭和42年第6代男子部長。昭和43年参議院議員(全国区)、昭和49年2期、昭和55年阿部憲一の引退にともない選挙区を東京地方区に変更して3期、昭和61年4期、以降平成4年まで連続4期参議院議員を務めた。参議院東京選挙区の後継候補は浜四津 敏子。

89 峯山 昭範(昭和10年-)種子島出身、近大中退、昭和28年入信、日本合成化学工業(のち三菱ケミカルに吸収合併)、創価学会関西本部事務局長、副青年部長。昭和43年参議院議員(全国区)、49年2期、55年3期、昭和61年白木義一郎の引退により選挙区を大阪地方区に変更し4期、以降平成4年まで連続4期参議院議員を務めた。後継候補は山下 栄一。

90 藤原 房雄(昭和4年-平成27年 享年86歳)小樽出身、室蘭工大卒、昭和29年入信、斎藤電気工事KK(斎藤実の設立した会社と思う)、創価学会北海道本部事務局長。昭和43年参議院議員(全国区)、以降昭和61年まで参議院議員を連続3期務め、同年斎藤実の後継で衆院転出(北海道1区)。以降平成5年まで衆議院議員を2期務めた。後継候補は長内 順一。

91 内田 善利(大正7年-平成17年 享年86歳)鹿児島県、明治専門(現北九州工大)卒、高校教諭、鹿児島県立伊集院高教諭。昭和30年入信、創価学会九州本部事務局長、理事、副理事長。昭和43年参議院議員(全国区)、昭和49年2期、以降昭和55年まで連続2期参議院議員を務めた。昭和63年、勲二等瑞宝章。

昭和38年統一地方選経験者と百人に記しておきたい人たち

 昭和44年衆院選初当選組の紹介に移る前に、昭和38年の統一地方選を経験したのち、市議や県議を何期か務めたうえで国会議員になった人と、公明党を創った百人として紹介しておくべきだと筆者が特に感じた人を先に記しておきたいと思う。

92 権藤 恒夫(昭和5年-平成13年 享年71歳)福岡県、九州電気工学専卒、昭和30年入信、創価学会九州青年部長。昭和38年福岡市議、昭和42年福岡県議、46年福岡県議2期、昭和51年衆議院議員(旧福岡3区、鬼木勝利の後継)、以降55年のみ落選、平成12年まで通算7期衆議院議員を務めた。再結成した公明党には参加せず政界を引退した。

93 沼川 洋一(昭和6年-平成28年 享年84歳)熊本市、明治薬科大学卒、昭和38年熊本市議、昭和42年熊本県議、以降熊本県議を4期務めたのち、昭和58年衆議院議員(旧熊本1区、瀬野栄次郎の後継)。以降平成2年まで衆議院議員を通算2期務めた。後継候補は倉田 栄喜。

94 谷口 是巨(大正11年-平成22年 享年88歳)長崎県、長崎医科大学附属薬学専門部卒、陸軍、中学教諭、昭和34年長崎市議選落選、昭和38年長崎県議、以降県議3期。昭和49年参院選落選(長崎選挙区)、昭和51年衆議院議員(旧長崎1区、松尾信人の後継)、昭和54年衆院2期、昭和55年落選。衆議院議員を通算2期務めた。後継候補は宮崎 角治。日本薬剤師会、日本病院薬剤師会等の顧問も務めた。

95 中野鉄造(昭和2年- )佐賀市、東京農大専門部卒、昭和38年佐賀市議、以降市議3期。昭和49年参院選落選(佐賀選挙区)、昭和51年衆院選落選(旧佐賀全県区)、昭和55年参議院議員(全国区)、昭和61年参院2期、以降平成4年まで参議院議員を通算2期務めた。平成9年、勲二等瑞宝章。平成24年(2012)、「創価公明党との決別」人間の科学新社に寄稿している。

96 森田 景一(昭和3年-平成13年 享年72歳)栃木県、立教工業理専卒、昭和38年習志野市議、昭和42年千葉県議、以降県議3期。昭和51年衆院選落選(旧千葉4区)、昭和54年衆議院議員、昭和55年落選、58年2期、61年3期、平成2年落選。衆議院議員を通算3期務めた。後継候補は富田茂之。平成10年、勲三等旭日中綬章。

97 常松 克安(昭和8年- )三重県、松阪北高卒、昭和38年松阪市議、42年松坂市議2期、昭和44年衆院選落選(旧三重2区)。公明党三重県書記長、同三重県本部長、党中央委員等を歴任。昭和58年参院選落選(比例区)、平成元年参議院議員(比例区)、1期務めた。平成7年引退。

98 庭山 昌(昭和14年-令和4年 享年82歳)群馬県、前橋商高卒、群馬法律専門学校中退、昭和44年、51年、54年、55年衆院選いずれも次点(旧群馬3区)。昭和49年参院選落選(群馬選挙区)、58年、61年参院選落選(比例区)。昭和62年から群馬県議4期。父は庭山鉄雄(昭和34年前橋市議、昭和38年群馬県議)。当時の群馬3区は中曽根康弘、福田赳夫、小渕恵三といった自民党有力議員と社会党重鎮の山口鶴男の誰かを負かさないと当選しない岩盤選挙区だった。今でこそ公明党の選挙は堅い、当選の見込みのない所には立てないなどと言われるが、それもこうした先人の取り組みあってのことだったのだと改めて思う。庭山昌氏のように県議を先に務めていたのでもなく、30歳から50歳近くまでの約20年もの歳月、国政に挑み続けた人が公明党にいたという事実は、もっと広く知られるべきではないかと思い紹介した。他に古川久新潟市議(旧新潟3区)、及川順郎参院議員(旧山梨全県区)も数度の衆院選落選を経たのち議員になっている。

99 安見 福寿(大正4年頃生- )沖縄創価学会の一粒種で昭和29年東京で入信した安見の来島から沖縄の折伏活動がはじまったとのこと。沖縄初の創価学会副理事長(央忠邦「日本の潮流」214頁)。昭和36年那覇市議、40年2期、44年3期。那覇市議会議員を通算3期務めた。

100 友利 栄吉(大正11年- )東京農大専門部卒、高校教諭。昭和31年入信。昭和36年那覇市議、40年2期、44年3期。昭和45年沖縄復帰に伴う衆院沖縄補選次点落選(定数5-6位)。昭和47年沖縄県議、51年2期、55年3期。沖縄県議を通算3期務めた。昭和51年、玉城栄一が沖縄公明党初の衆議院議員に当選し、以降6期務める。玉城栄一の後継候補は白保台一。

むすび

 というわけで案の定、百人では到底おさまりきらないとは思うものの、一方で草創期の公明党を、議員となってそれこそ一から作り上げてきた人たちの輪郭ぐらいは描き出せたような気もする。知っているようで、調べてみれば知らないことだらけだった。特に都議会議員は没年が不肖である人が多く、忸怩たる思いでいる。参考文献をみてもらえばわかると思うが、聖教新聞はともかく、公明党の歴代所属議員を調べるのに公明党が刊行した書籍、たとえば「公明党50年の歩み」などは残念ながらほとんど役に立たなかった。一番役に立ったのは堀幸雄「公明党論」の付属資料Ⅴ、「公明党国会議員の経歴」(「公明党論」294-308頁)だった。拙稿は、ほぼ参考文献の引用、引き写しに過ぎないと思われるかもしれないし、筆者もそのことを否定はしない。ただ、自分なりに工夫した点があるとすれば落選の記録を漏らさぬよう心掛けたことと地方議会での議員経験の有無や当選回数をできるだけ精確に調べようと試みたことである。公明党の書籍刊行担当者の方々には、自分達が過去に推薦・公認し、政党まで結成して議会に送り込んだ人達のひととなりを、ここまで知らなくても、書き残さなくてもよいものだろうか、とだけは言っておきたい。筆者がそのように思うのはヘンだとも思うが、とにかく調べ続けているうちにそういう気持ちになってしまったので、この稿は一旦完結させてnoteに記事をあげるけれども、昭和44年衆院初当選組以降は「続・公明党を創った百人(仮)」とでもタイトルをあらためて続けてみようかと思う(苦笑)。

参考文献

公明党論 堀幸雄(青木書店)1973年
ドキュメント公明党 高瀬広居(学習研究社)1964年
公明党の素顔 内藤国夫(エール出版社)1969年
公明党議員団 外山四郎(一光社)1975年
日本の潮流 央忠邦(有紀書房)1968年
聖教新聞縮刷版 昭和38年1月-4月(聖教新聞社)1964年

国会議員総覧 1967年、1968年、1970年版(評論新社)
大衆人事録 東日本編 西日本編 第26版(帝国秘密探偵社)1968年
人事興信録第25版上下巻(人事興信所)1969年
政治家人名事典(日外アソシエーツ株式会社)1990年
現代政治家人名事典(日外アソシエーツ株式会社)1999年






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?