【適当と中途半端】
色々と仕事に行き詰ったり、悩んだりしていると
「私は全て中途半端で今迄何も成し遂げていない」
「これといって私には誇れるものが無いなぁ」
とか思って自己嫌悪に陥ったりするものである。
それは何もかも適当だったり、中途半端にやる場合って一般的に何事も大成しない(なし得ない)と考えるからではないか。
生きとし生けるものは全て生存競争にさらされ、それは資本で動くというルールの中で生きている人間社会も同じで、他者より有利に生きていくためには何かしら勝っている必要がある。
そうすると生きられる時間というのは限られているので、人に限って言えばその限られた時間で何を習得するか、何で他者より秀でるか、というのが重要になってくる。
だからこそ常に平均的な動きをしているとあまり他者より有利に生きていくことは難しいと考えがちである。
ところが「適当」という言葉の意味を調べてみると
1.ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと。
「―な訳語がない」
2.
度合がちょうどよいこと。
とある。
私が前述したような使い方とは意味合い的に逆とも取れる。
ではそもそも丁度良いとはどの程度を差すのだろう。
例えば楽器を練習したとする。
多少できるようになった。でも誰かに披露出来るレベルでは無いように思う。
これは果たして丁度良いのだろうか。
幼少時代からサッカーをやっていて、高校まで続けていた。
これはサッカーというスポーツの技術を習得するうえでは適当なのだろうか。
サッカーという競技において、高校迄続けたというのはチームプレイ、組織の一員として何をすべきかを学ぶ期間として丁度良いものなのか。
教師も同じ。誰に教われば適当で丁度良いのか。
結果としてどの程度の勝率が残せれば適当なのだろう。
全員がプロになれるわけでは無いし、全員がメッシやロナウドと同レベルに辿り着くわけでは無い。
辿り着かなかった人は総じて中途半端なのだろうか。
そしてそれは、何に対して丁度良く、誰がそれを判断するのだろう。
そう考えると「私は全て中途半端で今迄何も成し遂げていない」「これといって誇れるものが無い」という思考は果たして正だろうか。
何もかも中途半端という事は、沢山のことを習得しているとも考える。
仮に長い時間全く何もしていなかったとしても、それでも思考は動いている。
対象や環境など変えてみることで、価値が上がったり下がったりする。
なので行き詰ったら、思い切ってカフェに行ったり海を見に行った方が良い。
それから考え方を少し変えてみると、目に見える風景と同じように、脳にも違った風景が見えるかもしれない。
おしまい。
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