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「きく」ことについて

2024年9月園だより

 最近、仕事で撮影をする機会をいただいて、久しぶりにカメラを持ちました。すると「撮影する」ことは「きく」ということと近い感覚だなぁと気がついたり。写真館でよく撮影していた頃は、好奇心も相まって、心が動いた衝動と同じタイミングでよくシャッターを押していたのですが、心が落ち着いてきた:-)こともあって、シャッターを押すことを優先するよりも、まずその環境やそこにいる人に対して、耳を澄まして「きいている」ことを味わっている自分がいたりします。味わってから撮る。出汁がいい具合に取れるころにシャッターを押す、という感じでしょうか。周囲をよく見ききしていないといい具合に押せず、自分もその場に影響していることをあらためて気付かされる瞬間でもあります。

 「きく」「きいている」ってあらためてどういう状態なのか。
私の尊敬している西村佳哲さんは「話す人よりきく人の方が圧倒的に優位。なぜなら、きく人の姿勢で、相手が何を話すか、どう話すか、全く話せなくなるか、などが決まってくるから。そもそもきいてくれる人がいないと話すことはできない」と教えてくれました。以前、私が受けた西村さんが講師の「『きく』ことのワークショップ」では、「気持ちを込めて詳しく話し続けるのを難しくするきき方」として、「1.横取り、2.否定、3.解決、4.無視」という4つの姿勢できくと、話す人がどうなっていくかということを、あえて体験させてくれました。私が話す立場になったときに感じたことですが、話したいなと思っている内容が、どんどん逸れていき、本心は話せず、思考(脳)で話しているという感覚がありました。きいてもらっている感覚も薄く、満足感はいまいち。終わった後もなんとなくもやっとしたものが続きました。その後に行われた「話しの事柄ではなく、『その人に関心を持ってきく』ということに重きを置いて聞いてもらう時間」では、あらためて私が話す立場になり、同じ内容の話をしていたにも関わらず、言葉が出てくるところが思考(脳)ではなく、胸や腹、身体全体からきている感覚(身振りや手振りも含め)で、気持ちが言葉にフィットして、話し終わったあとにすこやかな気持ちになっている自分がいました。不思議とも思えるくらいに、想像以上にその違いに驚いてしまい、反面、きく姿勢の暴力性についても気づかせてもらった機会でもありました。

 西村さんはこの時、「人の話は、植物が種から成長していく感じなんじゃないか」とおっしゃっています。話す本人は、実は、その話が、その後どうなっていくか自分でも気づいていないことが多い。でも何かたまらない感覚でどんどん話しを続けていく過程は、植物が成長して花を咲かそうとしていることに似ている。そこで、きく人の姿勢が重要になってくる。話の事柄に興味を持つのか、それとも話している人に興味を持ってきくのか。きく人が、植物を育てる水だとしたら、与えすぎず、いい塩梅で関わりながら、植物が自分で育つ力を見守る、という姿勢でいられると、話す人は自分の話しをすこやかに表現しながら、自ら成長していくのではないか、と。またその状況をともにできる、きく人も、同じくらいしあわせな気持ちになれるのではないかということを、私は体験を通して学びました。

 これからの「きく」機会に、少し意識してみてください。(と、自分に念じています)話しをききながら、自分が何かを考え始めてしまうことをやめて、相手に興味を持ってきいてみることを。解決を求められていない場合は、話す人自らが解決し、成長する力を持っているんだと信じられていると、穏やかな気持ちで話したりきいたりできるかな。
 「ママ、ちゃんときいてよ!」と早速、娘の声がきこえてきそうです。「はい!!」

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