酒井剛志 <農業国から工業国へ>
貧しい農業国だったベトナム
1990年代のベトナムでは、ハノイ市とハイフォン市をつなぐ道路を、ドライバーがものすごいスピードで車を走らせていました。狭い道の両側を人が歩き、自動車やモーターバイクが並行して行き来しています。
日本の常識では考えられないような危険な追い越しで、反対から来る車に正面衝突しないかと冷や汗をかくこともありました。
周りは、ほとんどが農村地帯でした。なにしろベトナムは、70%が農民という農業国家だからです。
その農民の生活が極貧状態に近いことは、車から外を見ているだけで実感できました。見すぼらしい衣類。掘っ立て小屋のような住居。そこでは薄暗くなり始めても電灯をつけない家が大半でした。
田畑での仕事は裸足が多いです。畦道では女性が桶を使って水を田にくんでいました。農法は原始的で機械化はほとんど進んでいませんでした。
ドイモイ(刷新)で躍進
しかし、ドイモイによってベトナムは大きく変わりました。ドイモイとは「刷新」の意で、政治・経済・文化など、あらゆる分野における改革を指します。
ドイモイ下のベトナムは、市場経済への移行をはかる経済的刷新に全力を傾注しました。
日本企業が大量に進出
賃金が安く、質の高い労働力を求めて、日本、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの企業がベトナムに大量に進出しました。これによってベトナム経済は躍進しました。
NIESやASEAN諸国を追うアジアの虎になったのです。
瑞穂(みずほ)の国・日本
一方、日本では1994年、農水省事務次官が、日本農業の現状を批判する永野日経連会長の発言に「瑞穂(みずほ)の国に生まれたことを忘れているのではないか」と反発しました。
瑞穂の国とは懐かしい言葉です。詳しくは「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」といい、古くは日本書紀に出ている日本国の美称です。
勤労感謝の日
そして毎年11月23日、天皇陛下自ら新穀を神にささげる新嘗祭(にいなめさい)が行われます。この日が、戦後は「勤労感謝の日」に変わりました。
江戸時代までの飢饉
けれど日本の自然は時には酷薄であり、冷夏がたびたび発生し、江戸時代までは人肉を食う飢饉(ききん)に襲われることもありました。昭和初期でさえ、このために娘の身売りが公然と行われていたのです。
若者中の離農・離村
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)には「日本を農業と軽工業の国にしよう」という案がありました。しかし日本は「重工業」の道を選びました。
おかげでか、そのせいでか、瑞穂の国なのに農業で生計を立てる人が大きく減り、若者中心に離農・離村が相次ぎました。残った農家も他に主たる仕事を持つ第二種兼業農家が多くなっていきました。
酒井剛志