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#21 株式会社日本木材
日本は昔から住宅に木材を使い、木工の工芸品なども多い国ですが、実は国内に流通している木材のうち、国産の木材の割合は半分以下であることをご存知でしょうか?
令和3年の林野庁発表の資料によると、国内で流通する木材の約6割が輸入で賄われています。
今回はインドネシアの木材を主に取り扱う株式会社日本木材の代表取締役 長谷部愛さんにインドネシア木材の輸入の歴史や事業継承、そして今後のビジョンについてお伺いしました。
<捨てられるものでも特性を活かした商品へ>
弊社、日本木材は木材の専門商社です。
木材の加工品を仕入れ、日本のお客様に販売する事業を行っております。
創業者である私の父がインドネシアで事業を立ち上げたこともありまして、主にインドネシア木材の加工品を扱っております。
具体的には、店舗や公園などで使っていただいているようなウッドデッキ用の木材であったり、家の壁に貼っていくような建材や内装で使われる木材などを販売しております。
少し珍しいものですとトラックの荷台に貼ってある木材なども取り扱っています。
なぜ木材を貼ってあるのかというと、ヤニが出る木材をあえて使い、ヤニが出ることによって荷物を積んだ時に天然の滑り止めになるので、そのような木材も取り扱っています。
また、店舗や工務店だけでなく、個人のお客様向けにDIYの商品の扱いもスタートしました。
建材などは重くサイズも大きいので通販にはなかなか向かないのですが、個人のお客様が使われるようなサイズであれば通販も可能なので、DIY用の木材パネルや簡単に組み立てられてウッドデッキのように使える商品など、個人のお客様に楽しんでいただける商品も少しずつ増やしています。
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さらに、建築や内装で使われるような木材は品質がすごく厳しくて、少しそり曲がったり、隙間ができたりすると、建築では使えない木材が幾分発生してしまうので、他の用途で使うことができないか考え、別の形で価値を上げて販売する取り組みも行っております。
最近では、キャンバスだけでなく木に道路や街を描く活動をされているアーティストの方とコラボレーションして、弊社の端材に道路や街並みを描いていただき、ブロックのように繋げることで大きな街になるようなアートができたら面白いなと思い、今まさに打ち合わせを重ねています。
<インドネシアの木に惚れ込み、独立へ>
弊社は私の父が創業した会社で、父は元々商社のサラリーマンをしていました。
ある時、海外駐在することになり、欧米や東南アジアなどいろいろな国が駐在場所としてあったのですが、当時はアメリカやカナダに行きたい人が多く、東南アジアは駐在先として不人気だったんです。
でも、父は英語があまり得意でなかったので、どうせならとインドネシアを選び、インドネシア語を現地の人に聞きながら1から覚えて仕事していたようです。
そうして生活するうちに、インドネシアの「キラキラ」という文化、インドネシア語で適当とかおおらかという意味なのですが、そういった文化が肌にあったようで、半分住み着いたようになってしまって。
インドネシアの木もとても気に入って、そうすると父の性格上、もう徹底的に追求するんですよね。
どんどんインドネシアの木に詳しくなって、そうしているうちに現地でビジネスを展開されている方に気に入っていただき、独立を勧められたことをきっかけに創業に至りました。
最初は丸太を切ってそのまま出荷するという、原木出しで日本に輸出する事業をしていたのですが、1980年代後半にインドネシアの法改正があり、原木のままの輸出だと付加価値がつかず、現地に技術が残らないこともあり、加工品にしないと輸出ができないように変わったんです。
製造業をしたことがなかった父ですが、加工して輸出するために現地の方と日本の木材関係の方に声をかけて、一緒に現地に工場を建ててなんとか輸出してみようとしました。
しかし、現地の方の多くは製造の経験が浅く、加工木材の品質はバラバラでした。輸出先である日本は特に品質に厳しく、取引が困難になり、その工場は一度潰れました。
そこからその教訓を生かして再度チャレンジし、今度は集成材という複数の木を繋げて1枚の板にする方法にチャレンジすることにしました。
当時、ゴムの原料として使った後のゴムの木がたくさん余っていて、それがもったいないから何か使えないかということで、ゴムの木を圧着して集成材にして日本に出荷する工場をつくりました。
ゴムの集成材は今は一般的になっていますが、当時はその技術がなく、最初は赤字操業が続いていました。
しかし、何度も試行錯誤を繰り返し、少しずつ技術を身につけ、10年ほどかかったのですがなんとか工場も立て直すことができました。軌道に乗ったので父は工場の経営からは抜け、もう少し日本に軸を置いて、現地で加工したものを日本で売ることをメインに事業展開しました。
<父からの事業継承>
私が幼い頃は、父はほとんどインドネシアに単身赴任していて、事業も10年くらい苦しい時期が続いていたので、家庭も経済的に困窮し、母も働きに出て、私が家事を手伝わなければならず、節約する日々が続いていました。
そのような状況もあり、私の父の事業に対しての印象はあまり良くなかったので、全く継ぐことなど考えることもなく、自分のこどもにはこんな思いはさせたくないと思い、日本電信電話株式会社(NTT)に就職しました。
就職してみて、いろいろな経験もさせていただいて、楽しく仕事をしていたのですが、大きな会社で点のような存在として働く生活に少し疑問を抱き始めていました。
そんな時、たまたま教育研修事業をしている少し小さめの会社に出向する機会があり、元々大学時代には教員免許も取得し、教育にも興味があったので手上げ出向をしました。
出向先では、自分が提案・企画したことを上司にプレゼンして、うまく説得できたら割と自由にさせてもらえるような環境でした。
自分の采配で仕事をさせてもらえるということをそこで初めて経験して、1つのプロダクトを契約から営業、システムの開発、調整など、数人のメンバーで一気通貫で回す経験をさせてもらいました。
その経験から、専門に特化した仕事をするというよりも、広く最初から最後まで関わるような仕事の方が自分には合っているなと思うようになりました。
この時、父とは少し疎遠だったのですが、私にこどもができたことで孫の面倒を見てくれたり、話す機会が増えていきました。
その中で仕事の話もするようになり、そこからなんとなく父の事業が改めて気になってきて、最初は継ぐとまではならなかったのですが、父の会社がきっちり利益を出せるようにバックアップできたらいいなという気持ちから中小企業診断士の資格を取りました。
勉強して資格をとったことで、父の事業もよりわかるようになりました。
父は、京都大学の生存圏研究所の教授にインドネシアを案内してほしい、論文の査読をしてほしいと依頼されたり、インドネシアに行くと先生のような扱いでとても慕われていたり。
また、工場にいる時に木の加工についてたくさん勉強して、木って生えている場所によっても全然違うので、違いを見極めどのようにカットしたら木の個性が生きるのかというところまで追求して、特にインドネシアの若くて見込みのある人にはとことん教えていたようで、そういった人たちが経営者になっていて、すごく慕ってくれていたんです。
それを見ると、父が築き上げたこの会社は唯一無二なのではないか、このままにしておくのは勿体ないなと思うようになりました。
商社から駐在する方も、やはり2〜3年で帰ってしまう方がほとんどで、人脈的にも知識的にもそこまで深まる前に帰ってしまうので、父のような存在は貴重なのだなということをインドネシアで目の当たりにしました。
そこから本格的に父の会社のことを考えたいと思うようになり、事業継承を意識するようになりました。
しかし、父としては継がせるという考えは当初はなかったようです。木材というのはそれほど儲かる事業ではなく、例えばプラスチックや樹脂製品は型が決まっているので、それほど不良は出ないのですが、木は一つひとつ違うので、切った時に良いと思っても、時間が経つと反ってきてしまったりと不良率が高く、不良が出た時にその対応をしないといけない。生業にはできるけどそこまで儲かるような事業ではないということは父も実感としてあったので、それでもいいのかと確認されたのですが、ちょうどその時SDGsの一環で木の良さが見直されつつありました。ウッドデッキなどもプラスチックから少しずつ木材に変化し、需要が少し上向きになったこともあって、完全に父の会社に入る決断をしました。
<会社を効率化し、販路の拡大へ>
最初、私には木材の知識があまりなかったので、知識を習得しながら、自分ができることは何か考えた時に、前職でシステム関係の仕事をしていたのでまずIT化はできると思い、取り組みました。
社内情報を見せてもらうと、ほとんど紙で残っている状態で、エクセルも少し使っていましたが、あまりデータがない状態でした。
そこから、まずはそれまでの取引データを電子化して、分析ができるようになりました。
会計も会計ソフトを使っていなかったので、ソフトを入れて電子化したり、業界的にもFAXの文化がまだ残っているのですが、FAXを使うとしても電子的にやり取りできるようにしたり、全体的にIT化を進めていきました。
例えば在庫管理。データではなく頭の中で行なっていると、どうしてもお客様の問い合わせに応えたいという思いから在庫が膨れ上がっていましたが、IT化して社内情報を整理・分析することで、適正な在庫量にすることができ、財務内容も改善していきました。
そうして会社に入って5年ほど経ち、お客様とも一人で商談できるようになっていた頃、父が緑内障の手術をしました。それまでにも他の手術をしていたこともあり、代表を譲りたいと言ってくれて、今年の4月に私が代表に就きました。
<インドネシアと日本の架け橋に>
現在は、ネット通販をスタートさせたり、今までは輸入卸だったのですが、個人向けの商品も取り扱うようにして、少しずつ販路を増やしています。
また、コロナ禍で渡航ができなかった時に、オンラインを中心に日本の木材や林業を勉強させてもらいました。木材を活かした豊かな暮らしを提案することでその価値を高め、次の森づくりをするために必要な収益を生み出し、持続可能な森にしていく。このような山と街を繋ぐ魅力的な木材活用について、木材コーディネート基礎講座や伊那谷フォレストカレッジで学びました。
同時に森に関係する方々とも繋がることができました。どうしても木材業界には国産材VS外国産材のようなところが感じられるのですが、私自身は日本にいる時間も長かったので、日本の木の良さもとても感じています。
コロナ禍でそういった機会が生まれたので、日本の木の良さもインドネシアの木の良さもミックスして事業展開していけたらいいなとも思います。
私たちは木という時間軸の長いものに関わっているので、不自然に事業を伸ばそうということではなく、無理が出ないように、でもコツコツと成長させるということを大事にして事業を行っていきたいなと思っています。無理が出るとどうしても事業もアップダウンが生じてしまうので、そういったことは避けたいんです。自然のものを扱っているということもあり、自然や人と調和をしながら着実に進めることを大事にしていきたい。
弊社の価値というのは木材の部分にとどまらず、インドネシアとの深い繋がりにあると思っていいます。なので、将来的には木材は木材で事業を着実に進めながら、もうひとつ何かインドネシアと日本を繋ぐ軸ができたらいいなと思っています。
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例えば、日本の木材関連の企業で人材不足という問題が上がっているので、インドネシアの人材を紹介できないか。教育にも興味を持っているので、現地の学校に視察に行ったり、今いろいろと下調べしています。
また、弊社に入ってから泉州の経営者さんと繋がることが多くて、たくさんお話しさせていただくのですが、それぞれすごく良い商品であったり、事業をしていらっしゃるので、インドネシアとのパイプを生かして、泉州の会社がインドネシアに進出するお手伝いができたら嬉しいなとも考えています。
現在はインドネシアに行く時に、何社かの商品を持っていって反応をみてというような簡単なテストのような形ですが、自分が地域に対して何か貢献できるのはそういったインドネシアと日本を繋げるようなところかなと考えています。
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