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生産や調理をしなくなった私たちが失った有り難みとは
今日、カボチャづくりを失敗した。カボチャの収穫時期は、受粉してから1ヶ月。日に日に大きくなるカボチャを毎日チェックしながら、食べる日を心待ちにしていた。
カボチャの収穫目安は「株の根本が茶色くコルク化したタイミング」だそうだ。大きくなった球を眺めつつ早くコルク化しないかな、と心を躍らせていた。
が、数日前まで深緑で美しかったカボチャ突如白く変色したのである。
育ててみるまで、知らないことだらけ
調べてみるとどうやら要因は「日焼け」。奇しくもこの日は海の日。ビーチで日焼けならぬ、畑で日焼け。人間は黒くなるけれどカボチャは白くなる。
実際に育ててみてはじめて「カボチャは日焼けをする」知り、調べてみてはじめてもっと労わらなければ美しいあのカボチャにはならないのだと知る。知らないことだらけだ。
そして、どうやらカボチャの食べ頃は収穫直後ではないらしい。2週間ほど「追熟」させると甘みと食感がちょうどよくなるそうだ。
スーパーで買っていたカボチャ一つで、こんなにも知らないことだらけ。日焼けを防止したり、数週間適切に保管してやらないとあの甘くて美しいカボチャにはならなのだと。
もっというと、カボチャの煮付けや、ポタージュを自分で重たいカボチャを丸々買ってきて、硬い球を包丁で切り料理する人もどのくらいいるのだろうか、と。
いまは誰かが、私たちの知らないところで、見た目も美しくすぐおいしい料理を作ってくれる。誰かが、私たちの知らないところで、美しいモノを作ってくれる。最高の状態で保存までしてくれる。やはり、知らないことだらけだ。
その過程で出る、ちょっと色や形が悪いものや、腐ってしまうものなどを見る機会、どうしたら失敗してしまうのか、ということを経験できる機会というものに乏しい世の中ともいえるだろう。
やってみて失敗し、工夫し、良い状態であるありがたみを知る。カボチャの状態に思いを馳せることができるし、カボチャの生育具合に関心を持つことで、すくすく育つことがあたりまえのことではなく「有難い」ことなのと知る。
良いモノやサービスが溢れ、あたりまえが多くなった。
だけれどそれは、あたりまえではなくありがたいことなのではないか。カボチャだけではなく、食べているモノだけではなく、自分が使っているモノ、サービスなど多くのものが完成品で完全体だ。
完全なものを生み出す過程で生まれる、どうしたって生まれてくる不完全なものを知らないと、そのありがたさを感じる気持ちは育ちにくいだろう。
求める商品やサービスがあたりまえに目の前にある尊さや素晴らしさに気づく機会を、ひょっとすると私たちは失ってしまっているもかもしれない。