「リベラル」は正義依存ではなく、名称依存ではないか。

 ↑の記事は無料部分しか読んでいないが、それに派生してSNSで「リベラル」という語がトレンドに上がっているのでそのことについて話したい。

「リベラル」は厳密な定義があるわけではないし、一般的な場面で使われているケースで言葉の定義が定まっているようにも見えない。
「左派」とほぼ同義で使っている人もいれば、アイデンティティ政治を重要視する人を指す人もいるし、「現代において進歩的と思われる言動を取る人」を指す人もいる。
「右翼ー保守ー慣例重視ー(国家)保護主義ー現体制支持」と「左翼ーリベラルー革新ー社会主義ー反体制」がほぼ同じものとして語られることもあるが、まったく違うものとして語られることもある。
 混同されがちな上に混同している人と混同していない人が存在し、さらに混同している人の中でも何と混同しているかが異なる(我ながら何を言っているのかと思うが、実際の状況がこう見えるので仕方がない)
「リベラル」とは一体何なのか、何について話しているのか。
 話している人たちが「リベラル」の定義を一斉に話したら、違ったことを話すんじゃないか。と思うが……そうでもなくみんな同じ定義で話しているのだろうか

 一応自分が考える定義を話すと、

リベラル→元々は自由主義。経済的リベラルと社会的リベラルは異なる。経済的リベラル(新自由主義)は、現在は社会的リベラルと対立することの方が多い(のでややこしい)。
 社会的リベラルは過去には「国家の統制をなるべく少なくし、個人の自由を尊重する」という個人主義的な考えだった。現在は「反新自由主義、平等のための社会統制の強化、マイノリティの権利保護」などが混在している(ように見える)ので、正直よくわからない。
 
日本では反自民=リベラルなのかなとも思う。

左翼→元々は合理主義。人間の理性によって、物事(社会的なこと)はすべて把握でき統制できると考える。普遍的な合理性があると考えるために、「普遍的な合理性」という唯一の原理を巡って内部で対立が起きやすい。
(上記の記事に書かれた今日的な)リベラルが正義に依存しているように見えるのは、「普遍的な合理性(つまり正義)」の存在が「左翼≒リベラル」であることの前提になるからではと思う。

右翼→元々は共同体主義。人間の理性や能力では、物事を把握し統制する範囲には限界がある。だから社会に生じる、統制できない部分は自然発生的なつながり(共助)によって可変的に相互扶助しようとする考え方。
 過去にはこの「統制できない可変的な部分」で下の階級に押し込められた人が一方的に搾取されていた。
 左翼の考え方は、恐らく一方的に搾取された経験から「人間は合理性で監視(統制)しておかなければ、自己利益のみに走る」という根底に「人間」に対する不信感があるのではと思う。

社会主義→議会民主主義の枠内で政権奪取を目指す思想。国家に平等を目的とした再分配機能を求める(そのため最も極端な形では、私有財産を認めなくなる)具体的な政策としては社会保障制度の充実や富裕層への税制強化など。

共産主義→暴力革命によって政権奪取を目指す思想。暴力革命、プロレタリア独裁、民主集中制の三つが要(現在の日本共産党は前二者は綱領から外している)

新自由主義(ネオリベラリズム)→社会に公平を目的とした自由競争を求める。個人の(主に経済)活動への国家からの介入をなるべく小さくする「小さな政府」を指向する。ゆえに自己責任論に行き着きやすい。

 自分の理解だとこんな感じだ(※)
 根本にある原理は変わらないが時代の状況や課題によってその原理が向く方向性が変わるので、あたかもまったく別物のように見える。
 だから主義主張を表す言葉も内実が大きく変わったり、時には過去と真反対の考えに見えたり、語句の意味と真逆の主張のように見えたりする。
 つまり「リベラルであれば、こう考えるはず」という答えが本来あるわけではない。

 主義主張というのは、「自分はリベラルだからこう考える」のではなく「こう考えるから、自分はリベラルなのだ」と、自分の考えから自ずと存在が規定されるものだ。

 例えばこういう具体的な問題に対して「自分は」どう考えるのか。
 自分一人で考えて、ではその答えは「リベラルであるかどうか」答えられるか。
 個々の課題への「自分の」答えの積み重ねによって、主義や思想は形作られ、そこに初めて名称が与えられる
 個々の課題に(「答えが出せない」という答えであってもいいが)一人で答えられないのであれば「リベラルであることとはどういうことか」を自分一人では答えが出せないことになる。
 
そうであるなら「リベラル」という概念に依存している、が言い過ぎなら「その名称に帰属すること自体が目的になっている」と見られても仕方がないのではないか。

 特にネットは実体を指すのではなく、概念から言葉(の使い方)が生まれる現象が多い(「草」「w」とか)
 自分もこういう遊びは大好きだが(だからネットが好きなのだが)特に短文メディアでは言葉によって概念を共有しているかのように錯覚する現象を、現実の問題にまで波及させていることが凄く多い(ワンフレーズポリティクスのことをとやかく言えない)
 抽象的な意識(↑の記事では正義)への依存を問題視するなら、自分はここから考えたほうがいいのではと思う。
 内実を他人と共有しなくていい(しているように見せているだけ)の自分にとって都合いい概念に依存すれば、それはいくらでも万能感を満たせる(反リベラルも同じである)
 だがそれでは、内輪でのみ承認しあうための称号にすぎなくなってしまう。

「自分はリベラルだ」(もしくはリベラルに反対している)
 ではリベラルとは何なのか。
 具体的な課題に対して、どんな答えを出す存在なのか。

「自分が一人で考えた答え」はリベラル(もしくは他の主義主張)的な回答であるのか否か。そう自分で判断できるのか。
 そういうことが問われているのでは、と感じた。

※自分の理解だとリベラルと共産主義はどう考えても相入れない。真逆のものと思うが、現代だとそうでもないのか(←こういうところがよくわからない)政治的に手を組むのは自由だが、定義まで混在し出すのを見ていると不安になる。
 リベラルが共産主義を包摂する言葉になったら、自分はその瞬間から反リベラルになるのでそこだけでも明確にして欲しい。

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