「MA・MA・Match」の隠蔽構造について。
*ネタバレがあり。本編↓
「MA・MA・Match」はとても面白かった。
いくつになっても何かに挑戦するっていいよな。
母親と息子の関係性にリアリティを感じた。
モラハラ夫描写が怖すぎ。
という感想以外の、ややこしい感想(8000文字弱)を話したい。
◆「MA・MA・Match」は「隠蔽するための物語」である。
この話を初めて読んだ時、引っかかりを感じた。
「どこか、何かおかしい」と思ったのだ。
初読でこういう引っかかりを感じる話は、「隠蔽するための物語」であることが多い。
「語ることができるもの」だけを語ることで、「語られなかったもの」「語ることができないもの」を隠す。
こういう物語を「信頼のできない語り手」ならぬ「信頼のできない物語」もしくは「隠蔽するための物語」と(勝手に)命名して偏愛している。
「MA・MA・Match」はマトリョーシカのように隠蔽構造になった物語である。
自分がこの話が面白いと思ったのは、この点だ。
◆第一の隠蔽:(解決すべき問題を打ち立てる)主人公は成実ではなく、沙耶である。
「MA・MA・Match」は主人公は成実であり、成実と拓実の親子関係が主題に見える。
だが作内では「解決すべき問題」を明示的に打ち立てる(問題を抱えている)のは沙耶だ。成実と拓実には、(内部の葛藤はあれど)ストーリーで明示された解決すべき問題は発生していない。
ストーリーは「芦原家の問題解決」を原動力として進んでいる。
だから主人公である成実が沙耶を誘うのではなく、沙耶が成実を誘うのだ。
「解決すべき問題」を抱える沙耶ではなく、解決すべき問題を明示的には抱えていない(息子と対峙する必要のない)成実を主人公に据える。
これが第一の隠蔽だ。(主人公が観察者である場合もあるが、この話の場合はあたかも「物語を動かす主体が成実であるかのように装っている」ということ)
◆第二の隠蔽:沙耶が対峙しなければならないのは息子の圭人ではなく、夫の圭太郎である。
ストーリー上、解決しなければならない「芦原家の問題」は何か。
「父子連鎖」だ。
これは作内でも明示されている。
沙耶が圭太郎に「あなたが寛容であったら、それも真似する」と言っている通り、「沙耶と圭人の関係」は「沙耶と圭太郎の関係」の投影である。
圭人が「自分よりも力の弱い人を下に見ない」ようにするために、沙耶は圭人とサッカーで戦う必要はない。圭太郎にそう言えばいいだけだ。(沙耶は圭太郎に対しては、圭人とサッカーで戦う前から「制する力」を持っている)
沙耶が本来対峙しなければならないのは(そして実際に最終的に対峙したのは)夫である圭太郎である。
「圭太郎と沙耶の関係性が問題であり、夫婦二人の関係が解決すればおのずと圭人の問題も解決する」
本来の構図はこうである。
しかし作内ではこの構図が転倒し「圭人と沙耶の関係性が解決することで圭太郎と沙耶の関係性も解決する」という作りになっている。
「沙耶と圭太郎の夫婦の関係性」の解決のために、圭人は母親と対峙させられている。
さらに、本来は「沙耶と圭太郎の力関係からくる影響を受けているだけの圭人」が、沙耶が圭太郎ではなく圭人と対峙することが不自然ではないように見せるために、圭人個人に問題があるかのような描かれかたをしている。←「圭人の言動は圭太郎が変わればすぐに変わるもの」「圭太郎と対峙することが解決方法」と、沙耶はわかっているにも関わらずだ。
これが第二の隠蔽構造である。
では、この話の問題点は「圭太郎と沙耶の夫婦の関係性」なのか?
これにも疑問符がつく。
◆第三の隠蔽:「直人」は、圭人の弟ではない。
自分がこの話で一番引っかかったのは、沙耶のこの台詞である。
「母親を敵と認定する」さらに「敵として認定した人間に対しては、何をしてもいい、どんな手を使ってもいい」という発想は、陰惨で寒気がする。
とても「子供とサッカーをし、夫に焼き肉を奢らせて解決する問題」とは思えない。
そういうことをおいておいても、沙耶のこの台詞には引っかかりがある。
沙耶のセリフを読むと、「うちは男しかいないし」つまり、男しかいないから「男である家族全員」から「敵≒逆らった生意気な女」とみなされると言っている。
圭人が言うには、「パパと直人と」部屋を散らかしたと言っている。
「直人」とは誰か?
普通に考えれば、下のコマに出てくる泣いている子しか考えられない。
しかし上記のコマを見ると、「直人」は母親と兄の争いを泣きながら止めている。つまり母と兄が争う→家庭内に不和があることを嫌がっている。(別のことで泣いている可能性もあるが、ジェスチャー的には二人の争いを泣きながら止めているという解釈が一番妥当に見える)
自分から率先して「母親を疲れさす」父親と兄の目論見に加担し、喜んでやるとは考えづらい。
父と兄の言葉に逆らえなかった可能性が高い。
「夫と子供にとってサッカーのできない私はカナブン以下」という沙耶のセリフがあるが、直人は年齢上、本格的にサッカーができるようには思えない。つまり家庭内ヒエラルキーでは沙耶と同等のはずである。
少なくとも圭人にとってはそうだろう。
「兄と父親に強いられて手を貸さざるえなかった下の子供」を、圭太郎や圭人と同じ「自分を、逆らった生意気な女として敵とみなす男家族」に沙耶が含めるのは不自然だ。(「直人」は、ママチャリの後ろに乗っていることからも未就学児だと思う)
また沙耶が成実たちとサッカーの練習をしている時に、圭人は「パパと秘密特訓をしている」という。これに未就学児に見える直人が参加しているとは思えない(名前も出てこない)
このあと三人で部屋を散らかしているのだから、直人はこの時、圭太郎と圭人と一緒にいるはずだ。
しかし「(圭人が)パパと秘密特訓する」という言葉に、直人は入っていない。圭太郎と圭人が「特訓」に直人を入れるとも思えない。
そばで見ているだけなのだろうか。
その状況を沙耶が放っておくのも不自然だ。
さらに疑問がある。
沙耶がアイスを買って帰って来た時、「直人」はどこにいるのだろう?
圭人と一緒に部屋を散らかしており圭人よりも年下なら、家の中のどこかにいるはずだ。
だが沙耶は一人で出かけていた、圭太郎は自室に一人で入る、圭人はベッドで一人でゲームをしている。直人の存在は見当たらない。
ここはかろうじてベッドの下段、沙耶の陰になっているという解釈も通るが(それにしても不自然だが)ここから先のシーンでは存在すら出てこない。
沙耶が試合に出れずに変装して見守っている時、試合の後、圭太郎が焼肉を奢った時、試合のシーンや焼き肉のシーンも探してみたが「直人」はいなかった。
ストーリーをわかりやすくするように存在を便宜的にカットしてる、現実的には圭太郎と沙耶の実家が近くにあり預けているという裏設定があるかもしれない。(それでも圭太郎と一緒にいればいいし、連れてこないのはむしろ現実的に考えたほうが不自然だが)
ストーリーにいらない要素(キャラ)であればそういうことも考えられる。
しかし直人は違う。
この物語に打ち立てられた問題は「芦原家の問題」であり、それは「父子連鎖」だからだ。
直人は圭人と一緒に部屋を散らかし、沙耶に「敵になる」と思わせ追い詰めている。成実の言い方を借りるなら、圭人と同じ「世界を救えるかどうかの鍵」となる重要な登場人物である。
「圭太郎と圭人と一緒に部屋を散らかし、沙耶を疲れさせようとした直人」
「生意気な女である母親を『敵』とみなす、男家族の一人である直人」
この「直人」は、本当に「泣きながら沙耶と圭人の争いを止めようとしていた幼い子供」なのだろうか?
「なぜ、圭人は母親である沙耶の影響ではなく、父親である圭太郎の影響だけを強く受けるのか」
「なぜ、サッカーの上手い下手が家族のヒエラルキーになっているのか」
「沙耶はその気になれば圭太郎に言い返す力(離れる力)を持っている。にも関わらず、なぜ父親の圭太郎の価値観のみが強烈に家庭内を支配しているのか」
「泣きながら母と兄の争いを止めるような子供である直人を、沙耶はなぜ圭太郎や圭人と同一視するような発言をするのか」
そして何より作内でストーリーが進行している時、「直人」は一人でどこにいるのか。
「上の一コマに出てきた、母と兄の争いを泣きながら止めている幼い下の子」が直人ではなく、圭人よりも年上でサッカー経験者である直人が芦原家にいる。
そう考えると、上記の疑問は疑問ではなくなり、話の辻褄が合う。
「泣きながら兄と母の争いを止める圭人の弟」(仮に太郎と名付ける)が作内に常にいないのは、「直人」が面倒を見ているからだ。
試合のシーンや焼き肉のシーンでは、直人が太郎の面倒を見ている。
芦原家で起こっている連鎖は「圭太郎ー圭人」ではなく、「圭太郎・直人ー圭人」である。
だから沙耶は、直人を圭人や圭太郎と同じように「自分を生意気な女、敵とみなす男家族の一人」として語るのだ。
「直人」の存在の秘匿が、第三の隠蔽である。
◆第四の隠蔽:「世界を救う話」である「MA・MA・Match」のラスボスは、直人である。
話の決着を見てもわかる通り、圭太郎は鈍感さが高じてモラハラをしがちだが、物事を深刻に捉えない人間だ。
圭太郎はヒエラルキーを気にしないので、子供たちがイジることが出来る。
子供たちにイジられて「えっ、こわい」という圭太郎が、圭人のような息子がいる家庭内ヒエラルキーの頂点に立ち続けることが出来るだろうか。
試合後の様子を見るとその設定にまったく説得力がない。
沙耶は自制しているだけで、サッカーで圭人と戦うまでもなく(自信をつけるまでもなく)圭太郎を制する意思や力は元々持っている。
圭太郎には、世界を崩壊させるほど沙耶を追い詰める力も、圭人にそれをけしかける負の力もない。
だから沙耶は、圭太郎には恐れず遠慮せずはっきりと自分の意見を言える。意見を言えるから「焼き肉」を奢らせることで、これまでの経緯を水に流せる。
「世界の崩壊」の危機に立つ沙耶の描写と、圭太郎の改心の描写は重みがまるで釣り合っていない。
なぜ釣り合わないかと言えば、世界が崩壊するほど沙耶を追い詰めたラスボスは、圭太郎ではないからだ。
家庭内ヒエラルキーの頂点にいて芦原家を支配しているのは、圭太郎ではない。直人である。
直人は圭太郎とは違い、沙耶と圭人がいる「世界(芦原家)」を壊す力を持っている。
「あなたが私の話を聞かないと子供も私の話を聞かないの」と真っ正面から圭太郎に意見を言える沙耶が、家では何も言えず、世界の崩壊の危機を感じるのは、家には直人がいるからだ。
直人は話の中に姿を表していないのか?
出てきている。
圭太郎に見えるが、これは圭太郎ではない。直人である。
なぜわかるかと言うと、散らかった部屋を見て衝撃を受けている沙耶が、すぐにどういうことかを聞かず、むしろ気を遣っているからだ。
沙耶は圭太郎にはこういう態度はとらない。
圭太郎は鈍感さが高じてモラハラめいたことも言うが、根が軽く、風向きが変われば意外とすんなり状況を受け入れる。
だから沙耶に詰められれば、反論できず焼き肉を奢る。
そういう軽さがいいほうに転ぶこともあるから、沙耶は夫婦をやってこれたのだ。
(圭人を通した)圭太郎には沙耶に、
こういう顔をさせる力はない。
直人は強い弱いのヒエラルキーに囚われ、その中で生きている。
その内面の価値観によって、芦原家を支配している。
弱い人間を見下し、自分が強者の側に立つためなら手段を選ばない。
その黒い陰惨な感情の前では沙耶は無力であり、圭人がその影響力に染まっていくのをただ見ているしかない。
沙耶は、直人にはまったく太刀打ちできない。
「散らかしたのがお前ならお前がかたせよ」と言うどころか「部屋が異様に散らかっているのはどういうことか」と聞くことも、そのことに触れることさえできない。
圭人に「パパと直人と部屋を散らかした」と言われても、注意も意見もひと言も言えず、無力さに絶望して涙を流すしかない。
芦原家という世界を崩壊させる力を持ち、崩壊させようとしているのは圭太郎ではない。直人である。
だからこの物語において設定された「芦原家の問題」は、圭太郎を改心させ、そのことで圭太郎の影響下にある圭人が変わったとしても解決しない。
沙耶が直人と対峙しなければ解決しない。
しかしこの話は、沙耶が圭太郎に物申すことであたかも「芦原家の問題」も解決したかのように語られている。
これが第四の隠蔽である。
◆第五の隠蔽:祝福し、祈りを届かせなければならない相手は直人である。
芦原家という世界を崩壊させる力を持ち、チラリと姿を表しただけで沙耶を絶望の淵に立たせ、圭人を支配する直人はどんな人物か。
影響を受けている圭人の言動、沙耶が口にする言葉を読めば、直人がどんな人間かわかる。
・サッカーができない人間はカナブン以下という、サッカーの実力のヒエラルキーの中で生きている。
・サッカーの弱い人間は、容赦なくヒエラルキーの下位に落とす。
・自分より弱い人間を見下し、相手にしない。
・生意気な女は身内だろうと「敵」と認定し、手段を選ばず追い詰める。
・現在はサッカーをしていない。
もうひとつ大事なことがある。
直人は「サッカーをやっていた時間は何だったんだろ、と思ったりする苦しみ」を持っている。その苦しみから、サッカーの実力というヒエラルキーに囚われ、家族を抑圧し苦しめ、自分の周りの世界を崩壊させようとしているのだ。
「MA・MA・Match」が「何かに打ちこんだ日々は思いもかけない形で戻ってくる」という祝福を与えなければならない相手は、直人である。
しかしそうはなっていない。(直人に祝福は届いていない)
これが第五の隠蔽である。
◆第六の隠蔽:「世界を救う話」として「MA・MA・Match」は、バッドエンドである。
以上を踏まえた上で、物語の隠蔽構造を整理していく。
・第一の隠蔽で、「本来は芦原家の物語」→「救うべき世界は芦原家であること」を隠す。
・第二の隠蔽で、沙耶が対峙しなければならないのは圭太郎であることを隠す。
・第三の隠蔽で「サッカー経験者であり、芦原家を支配し沙耶を絶望に追い詰める直人が存在していること」を隠す。
・第四の隠蔽で、本当に沙耶が対峙しなければならないのは直人であることを隠す。
・第五の隠蔽で、世界(芦原家)が救われないまま話が終わったことを隠す。
「MA・MA・Match」の本来の主人公は、サッカーという実力の世界で生きてきて、その中で挫折を味わい、その苦しみに囚われて生き、家族を抑圧し傷つけ、ついには世界(芦原家)を崩壊させようとする直人である。
沙耶が圭人の成長に強い危機感を持つのはそのためだ。
ストーリーの解釈を現実に即したものにするならば(これだと辻褄が合わなくなる箇所があるが、最大限寄せるならば)圭太郎の本来の姿が直人である。
成実が拓実に伝えたことを、沙耶が直人に伝え、
直人がこの境地に至るのがこの話の真エンドである。
しかし、沙耶は結局最後まで「直人を隠蔽するための姿である圭太郎」としか対峙できなかった。
「世界を救う話」という文脈ならば、バッドエンドである。
バッドエンドであることも隠蔽されている。
◆「MA・MA・Match」は、「隠蔽する物語」としてとても良かった。
「MA・MA・Match」は、作内では四コマしか出てこない直人の負の感情によって造られている話だ。
作内で「直人」の名前が出てきたのは一回だけだが、その時の絶望感たるや凄い。ストーリーの中で、あのシーンだけ突然別の漫画になったのかと思うような重い描写だ。
あれが本来、沙耶がいる世界なのだ。
「MA・MA・Match」が救うべきなのは、あの世界である。
あの世界には成実の祈りも祝福もまったく届かない。届かないように物語が出来ている。
何故「祈りが届かないのに届いている風な話」が必要なのか。
誰にとって何のために必要なのか。
それは世界を救おうとする祈りも祝福も届かない場所で生き、名前を呼んだだけで家族を絶望の淵に叩き落とし、世界を崩壊させる力を持つ直人の物語を読まなければわからない。
「MA・MA・Match」は「人も世界も壊しかねない負の感情と力を持った直人」を表に出さないために(個人的にはただそのためだけに)存在する物語だ。
稀に見るとても面白い「隠蔽するための物語」だった。
◆以上の見方を踏まえた上での余談。
「楽しくなくなったら離れる力がある」沙耶が、なぜ「楽しくない」この世界に踏みとどまっているのか。
息子たちのためもあるが、やはり一番は直人のことが好きだからだと思う。
自分は実はこの話を読んだ時、圭太郎に割と好感を持った。
確かにモラハラ気味のところはあるが、反面、自分に対する子供たちの言葉も軽く受けとめる、よく言えばおおらかさ、悪く言えば物事に深刻に向き合わない軽さがある。
圭太郎が相手ならば(問題はあっても)沙耶はこう返せる。
直人が出来うる限り「圭太郎」でいるのは(作内で四コマしか直人が出てこないのは)、直人も沙耶が好きで「圭太郎でいよう」と踏ん張っているからではないか。
圭太郎もそして直人も、決して沙耶に「あ、アイス、買ってきたよ」と気を使わせたいわけではない。
沙耶もそれがわかっているから、直人に支配された崩壊寸前の家(世界)で踏みとどまっている。
沙耶のためにも直人の再生の物語が見たい。