「石丸伸二に投票した人」について語る人たちを見ていると、「そりゃあ分断も起きるよな」と思う。
◆暑さと「石丸伸二に投票した人」論にうんざりしている。
夏の暑さとネットを開くだけで日々目に入る「石丸伸二に投票した人についての分析(?)」にうんざりしている。
自分は石丸伸二という人は内容が何もないことをあたかもあるかのように主張するだけで、特に信頼に値する人ではないと思っている。
ただこの人が出てきて唯一良かったことは「いつもは『対話を』『多様性』をと言っていても、いざ自分に理解できない現象が出てきたら、実際に話を聞くこともなく、自分の認識の枠組みから一歩も出ずに、勝手に他人を『理解』し解釈して安心しようとする人間を可視化できたこと」だ。
◆石丸伸二の手法も「石丸伸二に投票した人に対する分析」も現象としては同じに見える。
ネットの一番の危うさであり、一番の効用は「自分というアルゴリズム」を可視化できることだ。(エコーチェンバーやフィルターバブルはその要因のひとつに過ぎない)
(情報の取得が完全にランダムではないため)ネットは自分の中の概念に閉じ込められる場になりやすい。
そのためネットで「普遍的な物事」を語るように、何かを語るようになったらとても危険だと感じる。
無数のケースがある中で、普遍的な法則性を見つけ出そうと思ったら、普通は何十年かけてその物事に取り組まなければいけない。
「今の時点で」語りたいと思えば、色々な条件や留保を設けながら、なるべく前提や条件を限定して語る。
それを自分だけの狭い観測範囲から導き出した結論を、あたかも普遍的な真理、法則性のように、しかも短い言葉で留保も条件もなく語られてしまうのがよく言われるSNSやショート動画の良くない点だが、その手法を利用した石丸伸二に投票した人を、
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