「その情報が事実かどうか」を判断する前に、「相手が自分に事実を伝えようとしているか」を判断する。

 選挙などに絡んで「何が事実かわからない状態にある」という意見を見かけたので、「何が事実か」を判断する時に自分が注意することについて話したい。

 自分は「その情報が事実か」を判断する前に、「相手が自分に事実を伝えようとしているか」をまず判断する。
 具体的には
①その人の主張にすぎないものを「事実」として伝えようとしていないか(自分の主張・推測にすぎないものは断りをいれて「事実」と区切っているか、混同していないか)
②明確にわかっていないことは「わからない」と(という事実を)述べているか。
③こちらの感情を煽ろうとしていないか。

この三つに注意している。

 自分が新聞をひとまず信頼しているのは、この三つの要素を考慮しているからだ(※)

 例えば今日の一面には、米連邦議会下院選の記事が載っている。

 米大統領選と同時に行われた連邦議会下院選(定数435)で、AP通信は13日、共和党が過半数を獲得したと報じた。
 共和党は上院選でも非改選を合わせた過半数を確保しており、大統領職と上下両院の主導権を独占する。
 トランプ次期大統領は同日、ホワイトハウスで民主党のバイデン大統領と会談し、円滑な政権移行に向けた協力を確認した。

(引用元:2024年11月15日(金)読売新聞朝刊/一面) 

「共和党が過半数を獲得した」ということも、「(それ自体か事実かはわからないが)AP通信がそう報じた(という事実はある)」という書き方になっている。
「共和党が過半数を獲得したことがどういうことを意味するか」(書き手の判断)「それについてどう思っているか」(書き手の感想・主張)は一切書かれていない。

 文章としては面白くない。感情が動かないからだ。
 それに対して上述した①~③の要素が入ると面白く感じる。読み手の思考や感情を誘導するからだ。

 ↑の記事でも書いたが、文章は「書き手が何を目的としているか」で書き方が変わる。
①文章の内容のみを、多くの人に正確に伝えたい場合
②文章の中の特定の情報を強調したい場合
③登場人物の感情を体感させたい場合
④文章に含まれていないことを情報として伝えたい場合

 ちょっとした語句の入れ替えや付け足しによっても、受け取り手の注意がどこに向くかは変化する。

 動画ではノンバーバルな情報も考慮に入る。  
 NHKのニュースなどを見るとわかるが、基本的にキャスターは原稿を手に持った姿勢でほとんど動かない。抑揚も一定だ。
 悲しいニュースでも泣いたりしないし、悲惨な出来事でも怒ったりしない(感情を煽らない)
 内容以外に視覚や聴覚でも、聞き手の思考や感情に予断を与えないためだ。

「情報」や「事実」という観点で言えば、自分が「面白い」と感じるものをまず警戒する。
 面白いと感じるのであれば、何か自分の側で感情なり興味なり考えが刺激されている。原則、それはすべてバイアスとして機能する。

 新聞のもうひとついいところは、「興味のある情報」も「興味のない情報」も一緒に入ってくるところだ(情報の選別に『自分というアルゴリズム』が介在しない)

 昨日の経済面に載っていた「薬価改定・全品目対象に」というニュースは正直そんなに(というよりほとんど)興味がない。

 財務省は13日、財務制度等審議会(財務省の諮問機関)の分科会を開き、医療などの社会保障改革について議論した。
 今後本格化する2025年度の薬価(薬の公定価格)改定で、原則全ての医薬品を見直し対象にすべきだとの考え方を示した。

(引用元:2024年11月14日(木)読売新聞朝刊/経済面)

 これを読んでも正直「ほへえ」以上の言葉が浮かばない。
 だが、自分がそのニュースに対して「おおっ」と思うか「ほへえ」と思うかは(興味があるかないか)は情報の価値を左右しない。
 だから「興味というバイアスに流されない訓練」くらいのつもりで、毎日読むようにしている(意外と読み続けると「一か月前のあの話がこんな風に展開しているのか」とか「この前読んだあの話は、もしかしてここにもつながっているのかな」と思えることが出てきて面白く感じたりもする)

①その人の主張にすぎないものを「事実」として伝えようとしていないか(自分の主張にすぎないものは、「自分の主張です」と断りをいれて「事実」と区切っているか)
②明確にわかっていないことは「わからない」と(という事実を)きちんと述べているか。
③こちらの感情を煽ろうとしていないか。
④(動画においては)ノンバーバルな情報で、こちらに予断を与えようとしていないか。

 この四つは「受け手の思考や感情を誘導するための手法」である。
 エンタメの手法なので、エンタメとして消費するのはいい。
 ただ「エンタメだ」「自分個人の感想だ」という断りを入れず、「ニュース(事実)をこういう手法で伝える」(もしくはわざと誤認させようとする)のであれば、それは何より受け取り手に対して不誠実だ。
「内容が事実かどうか」を判断する前提に立っていない(こちらが正常に判断することを意図的に邪魔しているため)

 自分が情報発信者として相手を信用しなくなるのは、その人(媒体)が今までしてきたことに対する判断以上に、発信の内容自体が「単なる主張にすぎないものを事実と誤認させようとする」など、語り方がアンフェアな時が多い。
「情報発信の姿勢としていかがなものか」「世の中にとって害悪だ」という一般論以前に、自分にアンフェアなことをされること自体が不愉快だ。

 情報が錯綜していると「多くの人が感情的に共有していることをもって事実とする」という流れができやすい。「共有すること(相手の思考を誘導すること)」を目的とするものが増えていくと思うし、現に増えていっているように感じる。
「これからの時代は、こういうことがますます重要になってくる」と思うので、何か対策を考えなくてはなあと思う。

※この「考慮しているか」という書き手の基本姿勢が前提になる。この前提があって、初めてその情報源が伝える情報が「訂正が入るまでは、とりあえず事実として扱うかどうか」「どの程度事実か」を判断する土俵にのせる。

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