特定の作品に対してモニョることにおいて、「読み手が自分だからだ」という視点を忘れないようにしたい。
朝イチで読んだこの話ついて。
面白かったんだけど、何かが引っかかると思ってずっと考えていた。
自分の感じたことをストレートに言うと「他人の心に爪痕を残したい欲ってあるよな」だった。
自分はこの話に、「他人に影響を与えたい欲」に対する無自覚さ(もしくは無抵抗さ)を感じて、そのことに凄くモニョったのだ。
一番気になったのは、「影響を与える側である先生の視点の話であること」だ。
人が人に影響を与えるのは(与え合うのは)、生きて行く上で避けがたい。
それ自体は悪いことではなく、時にいいことでもある。
ただそれはあくまで「影響を受ける側」が決めることだ。
①影響を受けるか、受けないか。
②どの影響をどのように受け取るか。
影響を与える側が「素晴らしい影響を与えたい」と思っても、相手がまったく受け取らないこともあるし(むしろ多い)、まったく何も考えていなかった言動に、誰かが強い影響を受けることもある。
「反面教師」という言葉の通り、悪い事象がいい影響を与えることもある。
影響は全て結果論だ。
この話も影響を受ける側である、玲央視点の話ならモニョりはない。
むしろ表紙を見て男と女の子の話かと思いきや百合か、と思いきやおねショタか!という意外性が好きですらある。
先生視点(影響を与える側)の話で「年下の子にいい話をした→いい影響を与えた→その子がその影響によって大成した」という流れに、「他人に影響を与えたい欲」を感じてうっ、と引いてしまった。
なぜ、「他人に影響を与えたい欲」に自分がモニョるかというと、自分が(それこそ)影響を受けている連合赤軍事件が関係する。
大塚英志が「彼女たちの連合赤軍」の中で連合赤軍事件で使われた「総括」の論理の醜悪さとは何なのか、ということを書いた文章がある。
自らの言説が他者に作用し、そのことで他者が変わっていく。
他者とコミュニケートしようとする時、ぼくたちはこの耐え難い欲望に直面する。
自分の言説が他人の「ためになる」、という願望、それによってぼくたちは他者に言説を投げつけることを自分に許容する。(略)
連合赤軍事件における暴力とは、他者の「主体」の形成に自ら関与し得る、という独善であるとぼくは考える。
(引用元:「彼女たちの連合赤軍ーサブカルチャーと戦後民主主義ー」大塚英志 角川文庫 P288ー290/太字は引用者)
自分もこうやってネットの片隅で文章を書いていて、「面白かった」と言ってもらえることも(ありがたいことに)あるし、「それはどうなんだ?」と言われることもある。
その背後にはそれ以上の「反応するほどでもない」という反応もあるだろうし、自分が書いたと思ったこととまったく違う風に読まれた、そんなことは書いていないと思うこともある。
自分が凄く真剣に書いたことを「何を言っているんだろう、この人」と思われることもあれば、自分が書いたことすら忘れていたことに「とても面白かった」と言ってもらえることもある。
個々の事象については色々な思いがあるし、直接言われたことや、それは違うと思ったことには反論したりもする。(読み手の受け取りが絶対というわけではない)
ただ全体として見れば「それが当たり前で、それでいいのだ」と思う。
何からどう影響を受けるかは(受けないかは)、書いた自分ではなくて読んだ人が決めることだ。
「自分が正しいと信じたことをいくら訴えても、相手には伝わらないことがあるし、人と人とはそういうことがあってもいいんだ」というごく当たり前のこと
自分は書くことがとても好きで、たぶん書く場所や書くものが変わってもどこかで何かを書いていると思うが、これは忘れないようにしたい。
逆もまた然りで、自分が創作から何かを読み取る時には、自分という主体(フィルター)が働いている。
創作は象徴として人の心に結びつきイメージを喚起する作用があるので、どう受け取るかはその人の心のパターンによって違う。
なるべく多くの人と認識を共有するために、言葉や事象を記号化して用いる現実とはそもそも世界観の発想や目的そのものが違う。
だから創作を「不変的なものである絶対的な対象物」として批判する人には、むしろ「(読み手としての自分という)主体の放棄」を感じてしまう。
創作(世界)が絶対的なものであり、自分(読み手)はそれに何らの作用も与えられない、という考えは、「創作とは世界(作品)と自分(読み手)の対話である」と考える自分にとっては受け入れがたい。
自分も合わない作品はあるから、「その作品の存在を否定したい」という気持ち自体はわからないこともない。
でもそれは「自分の世界から排除する」で済ませたい。(自分も「それがなぜnot for meであるか」という記事はけっこう書いている)
「(他者と共有している)現実において作品を排除したい」という主張は、実は「その作品を認識する自分(の固有の世界)」を認めていない行為ではないかと自分には感じる。
「水と油でかける橋」だって、何も引っかかりなどなく「いい話だ、好きだ」と思う人もたくさんいると思う。
自分はこの話に引っかかった。
どちらが正しいかではなく、自分にとってはその違いこそが重要だ。
まったく真逆の認識が並び立ち、それがそれぞれ正しいということがありうるところが創作の素晴らしさだと思う。
「水と油でかける橋」にはそういうテーマも含まれていていて、そこはとてもいいな、好きだなと感じた。
(引用元:「水と油でかける橋」赤穂ゆうき 集英社)