エジプト神話BL「エネアド(ENNEAD)」について、本当に思ったことを書いておきたい。
今まで「ストレートに書くのはどうなのかな」と思いぼかして書いていた「エネアド」について本当に思ったことを書いておきたい。
*「そう読む人もいるのか」くらいのおおらかな気持ちで読める人だけお読みください。
◆「エネアド」の主人公は「男らしさ(男の社会規範)」
「エネアド」の主人公は自分が見るところ「男」だ。
ここで言う「男」は、生物学的な男ではない。「社会的な男」だ。
「男らしさ(男という性規範)」そのものが主人公なのだ。その規範を激詰めして叩き壊し、そのうえで個人として再生させようとする話だ。
自分は「エネアド」をそういう話として(今のところは)見ている。
◆「エネアド」は罪悪感ルートを辿り、「男らしさ」の病理を描いている。
「エネアド」は典型的な罪悪感ルートの話だ。
女性向けで「罪悪感ルートの話」は珍しい。
何故かというと罪悪感は、自分は強者だから「悪」になりうる。そのために人を傷つけてしまう(加害してしまう)という感覚から生じるものだからだ。
どんなにひどい目にあっても「自分は弱くて傷ついた」と認められず、「強くて悪い奴」になろうとする。
「男らしさの病理」の話であり、「エネアド」はそれがどういう仕組みになっているかの説明およびその回復の過程の話に見える。
◆グリフィスを激詰めする「エネアド」。
他の創作に例えると「エネアド」は「『ベルセルク』のグリフィスを激詰めする話」である。
「ベルセルク」では、グリフィスがガッツの前でキャスカを〇するシーンが出てくる。(知らない人のために一応説明すると、グリフィスとガッツは親友同士だが、グリフィスがガッツを裏切ってガッツの恋人のキャスカを〇すシーンがある)
グリフィスは、ガッツに「自分のほうがガッツよりも強い(より強い男だ)」と誇示するためだけにキャスカを〇す。
キャスカは二人の競争的な関係性を表す道具(方法)になっているだけで、グリフィスの感情はガッツただ一人に向けられている。
昔の同人誌のインタビューで、作者の三浦建太郎が「キャスカは女性というよりは、自分の弱い部分を仮託している」と答えていたように、キャスカは「女性」というよりもガッツにとって(そしてグリフィスにとっても)弱い部分の象徴なのだ。
(作品内描写・暗喩)グリフィスがキャスカを〇することで、ガッツに自分はお前よりも強いと誇示する。
(表層下)グリフィスはガッツを〇することで、自分はお前よりも強いと示す。
(最深層)グリフィスは自分の弱い部分を〇することで、自分は強いという自己イメージを作る。
こういう三層構造になっているのでは、と思う。
グリフィスがゴッドハンドになるまでの経緯は、色々と疑問(「なぜ?」)がある。
・なぜガッツに去られたことで、夢を壊すような愚かな行動に出たのか?
・なぜ身体が不自由になった時に、キャスカに面倒を見られるという未来を拒否したのか。
・なぜ、それらを仲間を捧げてでもと思ったのか。
・なぜ、ガッツの前でキャスカを〇したのか?
・なぜ、弱い自分を〇することによって「自分は強い」という自己イメージを獲得する必要があるのか?
・なぜ、上記のことを他人に(読者も含めて)一切語らないのか?
グリフィスがゴッドハンドになったのは、野望のためではない。この「なぜ?」を直視したくないからだ。
グリフィスはこれを話すくらいなら(どころか認めるくらいなら)仲間を全部捧げてゴッドハンドになったほうがマシだったのだ。
「エネアド」でも、セトはその理由を話すくらいならイシスを閉じ込めている。そういうセトに対してイシスは、「なぜ話してくれなかったのか?」と怒る。
ガッツもグリフィスに対してイシスと同じ疑問を持ったと思う。
「なぜ話してくれなかったのか?」
「なぜ助けを求めくれなかったのか?」
「なぜ裏切ったのか?」
「俺たちの信頼と友情はどこへ行ったのか?」
「ベルセルク」は「それが何故か」の答えは描かれず、その結果として起こったガッツとグリフィスの対峙について描いている。
ガッツはイシスとは違い、グリフィスの心境自体は何となくわかっているように見える。(逆にわかっているから怒りを感じている)
「ベルセルク」においては、「それが何故か」ということは自明のことだから説明する必要がないのだ。
◆それを話すくらいなら殺されたほうがマシ。
マアトの法廷でネフティスがセトとの関係について告白する場面は、この「なぜ」の答えを説明している。
何気なく読むと「暴力は振るっていない」という部分に「ああそうか」と思って終わるが、その前の「私を放置し無視しただけ」と言う点も引っかかる。
二人の間に色々とすれ違いがあったのだから、とりあえずそれを話し合えばいいのではと思う。
ところがセトはネフティスのことは「放置して無視して」、外で悪逆非道な行いを繰り返していた。アヌビスの指摘によれば、ネフティスとアヌビスが殺せないから、代わりに女子供を殺していた。
つまりセトにとっては、「ネフティスと話し合う(向き合う)よりも、罪のない女子供を殺すほうがマシ」なのだ。
それくらいネフティスと向き合うことは、セトにとって恐ろしいことなのだ。
「エネアド」を読むと、イシスに激昂されてもセクメトに揶揄されてもアヌビスにすがりつかれても、ネフティスが追い詰められてオシリスとの取引に走っても、セトはそれが「何故か」ということを絶対に話さない、というより話せない。
ネフティスの前でそれを話されそうになった時に、セトはブルブル震えて奇声を上げて発狂しそうなほど暴れている。
「そんなことをするくらいならもう殺してくれ」と言っている。
ラーがその前に「妻に裏切られたからと言って、人の魂を粉砕していいとは限らない」と尤もらしく言っているが、ラーがセトに対してやっていることこそ魂の公開処刑である。
この時のラーは、滅茶苦茶悪い顔している。怖い。
「グリフィスがキャスカに面倒を見られることを拒否してゴッドハンドになった理由」と「セトが自分がオシリスに〇されたことをイシスに話せなかったり、ネフティスに知られることに恐怖した理由」はまったく同じだ。
「エネアド」はこの理由を細かく解説している話なのだ。
◆規範の外側のものであるオシリスの言葉を、セトは理解することすら出来ない。
他の「エネアド」の記事で書いた通り、セトは「強くて優しい夫であり父親、エジプトの守り神を立派に果たしている」という絵に描いたような「社会の中で務めを果し、真っ当に生きる男」だった。
「社会の規範(枠組み)の中で生きること、そもそもその枠組み自体を疑ったこともない。(*ちなみにグリフィスも、他の枠組みはともかく「男」という社会の枠組み自体は特に疑ったことのない人間だ)
だからオシリスは絶望していた。
その「規範」の中では、オシリスはセトにとっては「いい主君でいい兄」以上の存在には決してなれないからだ。
それ以外のものになろうとすれば(規範の外に出ると)、セトにとっては「気色わりい」ものであり「気持ち悪いと思われるもの」になってしまう。
オシリスが本心を露わにした時のセトとの会話は、「通じなさ具合」が凄い。自分はオシリスが余り好きではないが(穏当な表現)この通じなさにはさすがに同情する。
オシリスの思いが高じた決死の行動に対して、
この解釈である。自分がオシリスだったら気絶しそうだ。
「こんなことをするということは、『自分が何か気に障ることをしてしまい憎んでいる』としか解釈しようがない」
セトはそういう自分の認識を、その認識を構成する規範を疑ったことがない。
もっと言うとその規範が存在するとは思わないくらい、その規範(男らしさ)にぴったりと密着した存在なのだ。
だからオシリスの行動の意味がわからず、イシスに激怒されても何を怒っているかがわからない。
「お前、本当にオシリスなのか? 俺の知っている兄なのか?」と言うセリフに、セトがいかに「本当のオシリス」にまったく興味がなかったが凝縮されている。
このシーンは二人の認識がまったく噛み合っていない。
「他の関係なんて必要ないだろう」なんてセリフをこの状況で言うところが凄い。(褒めていない)
それでもオシリスは説明を続ける。(惚れた弱みか)
自分にとってセトがどんな存在なのか、自分にとって「愛」とは何なのか。
愛とは「セトが夫として妻を愛するようなものではない。セトの愛はハトホル(自分ではないもの=社会)に作られたものに過ぎない」
自分がセトに感じる愛はそうではない。呪いであり執着であり、対象であるセトを傷つけかねないほど激しいものなのだ。
「エネアド」では、オシリスもイシスもセクメトと同じように、セトを取り囲む「社会という枠組み」をぶち壊そうとする。
セトはそういう「今までの社会的な自分を壊そうとするもの」そして壊れることによってむき出しになる「弱さを持つ自己」と向き合うことから逃れるために、罪を重ね続ける。
◆「エネアド」のいいところは、「独りよがりな男らしさを傷つけて溜飲を下げる話」ではないところ。
「男らしさ」という規範に密着し、それを疑わずいる人間が知らず知らずのうちに、もしくは「男らしさを壊す弱さ」から逃れるために周囲の人間を抑圧し続けていた、というのはよくある話だ。
そしてその規範の強固さを疑わない、疑えないために周囲の訴えがまるで届かず、気が付いたら孤立していたということもよく聞く話である。
自分が「エネアド」がいいなと思うのは、決してそういう「独りよがりな『男らしさ』の認識を覆して、ざまあと言って溜飲を下げる話」ではないところだ。
なぜ彼らは弱さを見せられないのか。
なぜそこまでして強がるのか。
それは本質的には妻子を愛し、そこに自分の居場所を見出しているから、そうしてそういう彼らは、どれほど強く見えようと自分たちと同じように「自分が消されるような存在不安」を抱えている。
「男らしさ」の中で生きてきた、知らずに弱さで人を抑圧し傷つけてしまったセトの痛みや弱み、そこから犯してしまった罪に深く寄り添っている。
「『男らしさ』で鎧って生きてきたのだから、そのなぜを話せるはずがない。それはわかる」とホルスの口を借りて言っている。
だからと言って、セトの犯した罪の免罪するわけではなく、二部では自分が他人に与えた痛みを「(神であること=男らしさを捨てた)ただの人間」として向き合わせている。
こういうことをきっちりやっていくところに好感が持てる。
「お前が言うか」と言うツッコミは置いておいて、ラーが言う
「可愛そうだ、傷ついたからと言って、選択の責任や罪への償いは免除されるわけではない」はご尤もとしか言いようがない。
(蛇足だが、罪悪感ルートとは逆の無価値観ルートは「加害者としての自分を一切認められなくなる」ので、こういう発想が皆無になる。)
◆まとめ&今後の展開について
「エネアド」は「社会的な『男』という規範の呪いの仕組みの説明と、それをいかに解くか」という話に今のところ見える。
キャスカがガッツとグリフィスの関係においてはそれを描くための方法に過ぎなかったように、同性同士の性交渉はセトの「男らしさ」の規範を覆すための方法として使われている。
「BLというジャンルだけで興味がわかない」と思う層(つまり自分のような)でも面白いと思う可能性が高いと思ったので、そのことを軸に語りたいと思った。(ただ「男らしさ」を軸に考えると、グリフィスとガッツの関係にキャスカというクッションを入れないと語りえないように、同性同士の性交渉を用いて描くのはちょっとキツイんじゃないかなと思う。この辺りは難しいところだけど)
そういう角度で「エネアド」を読んでいる自分としては、セトが順当に罪を償って、家族三人で仲良く暮らしてめでたしめでたしがスタンダートな展開に思える。(猗窩座が狛治に戻って、恋雪に回収されたように)ただセトにとって救いだったアヌビスが闇堕ちしたので、順当に行くと「叔父様が望まないのなら、俺がそうさせません」なホルスエンドになりそうだ。
個人的には、男らしさの呪縛から解かれたセトを巡ってネフティス&アヌビスとホルスが死ぬまでバトるエンドがいいな。
*ネフセト話。