「う○こまみれだ、汚い」と思う時が、一番危うい。
都知事選が終わったあとも、蓮舫や石丸伸二の話題が盛り上がっているが、自分はこちらのほうが気になる。
読んだ瞬間「うわ……」と声が出た。
「選挙ポスターを張る権利を売る」
「当選を目的とせずに、名前を売るためだけに立候補する」
「公序良俗に反する範囲すれすれのポスターを使う」
こういう悪質な具体例を目の当たりにすれば、「ああいうものは規制したほうがいい」と考えるのは当たり前だ。
小池百合子が岸田首相に「公職選挙法の見直しの議論を」と伝えるのは、良識的な態度に見える。
でも制定される法律で規制されるもの(することが可能なもの)が「ああいうもの」だけとは限らない。
いま権力を握っている人たちは、なるべく自分たちが持っている力が安定し、維持できるように(有利になるように)行動する。だが今の社会では強引にやるわけにはいかない。
だから自分たちに有利なように法律を変えることが出来るチャンス、一般的な感覚で「おかしい」と思う事象が出てくるのを待っている。規制を強化する大義名分になるからだ。(左翼で「権力に弾圧の口実を与える挑発行為」と批判されるやつ)
自分もポスター板をジャックするようなふざけた人間は嫌いだし、自分の足を食うタコ、端的に言って〇〇(好きな文字を入れて下さい)だと思う。
だが自分が「は?」と思う人であっても立候補する自由、主張する内容や方法を選ぶ自由はあるべきだし、そういう人間を選ぶか選ばないかは社会に生きる人の総意によって決めるべきだと思う。
規制するのは現行法(含刑法)や都市条例で対処できる範囲にして欲しい。(現行の法律や条例に違反しているものを取り締まることに異論はない)
売名が目的だと判断してそれに賛成できないならば、注目を与えずスルーすればいい。
注目が欲しい人間は、注目というインセンティブを与えなければ、自分の得にならないことはやらなくなる。
そんなことより、現在権力を持つ人が「選挙の規制を強化する方向で議論するべきだ」と言い出すほうが怖い。
香港やロシア、イランのように「立候補者を事前に選別すべきだ」という発想が生まれるのでは、と警戒してしまう。
「ふざけたものだけを規制すればいい」という発想は危うい。
「ふざけたものとは何であるか」を判断する権限は、大抵の場合権力が握るからだ。
「自由」を自発的に売り渡してしまうのは、大抵その自由が「自由」という語感にそぐわない、とてつもなく汚いものに見える時だと思う。
小綺麗でこちらに何ら負荷がないものなら、誰も手放そうとは思わない。
「う○こがついている、汚い。誰かに洗って欲しい」と思う時が一番危うい。
う〇こまみれに見えようと自由は自由であり他のものでは代替がきかない。
そういう信条でいなければ、すぐに「自由はどんなものか」がわからなくなってしまう。
そう思っている。