MBTIを用いて「鬼滅の刃」のキャラクター&ストーリー語り
ユングのタイプ論を基にしたMBTIを用いて、「鬼滅の刃」のキャラクターとストーリーについて語りたい。
*専門家ではないので、雑談として読んで下さい。
「鬼殺隊VS鬼」は内実は完全に出来レース
死傷者数は度外視して「どちらが勝つか」だけに注目すると、自分から見ると「鬼滅の刃」は完全に出来レースだ。
お館さまがチートすぎる。
自分は耀哉を「既に確定している結果を生み出す歴史の機能」だととらえている。
「既に確定している」のだから、無惨はどう頑張っても最終的には死ぬ。
無惨のことは嫌いだが、耀哉の標的になったことだけは同情している。無惨が耀哉について「常軌を逸している」と言った気持ちはすごくよく分かる。こんなのの(言い方)標的になったら自分だったら絶望しか感じない。
INFJ(だと確信している)はただでさえ恐ろしいのに、INFJの内向直観と外向感情を極限まで高められている。
「鬼殺隊」が全員特攻してくるのはそのためだ。恐ろしすぎる。
耀哉がINFJなだけでも分が悪いのに、無惨がESTJであるために勝ち目がなくなっている。
ESTJは管理職としては優秀だが、目に見えない目標や理念、概念の成就のために組織(システム)をデザインして大勢を導くことには向いていない。
無惨自身の目的も「ただ生きること」という、長期的な視野に基づかないものだ。
鬼たちは無惨の力に従っているだけだから、組織として戦えず(鬼の習性がそうだから仕方ないが)各個撃破されてしまった。
猗窩座と獪岳を比べると、ESTJとENTJの違いがわかりやすい
無惨以外では、猗窩座がESTJだろう。
「公式ファンブック」に、無惨が上弦の鬼たちをどう見ていたが載っていたが、猗窩座のことは気に入っていたようだ。
そうだろうなと思う。
ESTJは、良くも悪くも組織(共同体)への帰属意識が強く、そこに強い価値観を持っている。
猗窩座のように自分が所属する組織(家族)に、絶対服従に近い強い忠誠心を持ち、それが悪いほうへ出ると無惨のように、部下に理不尽なほど服従を要求する。
獪岳がENTJではないか、と思うのはこの辺りの価値観が皆無だからだ。
もしESTJだったら、不満は持ちつつも、鬼にはならなかったと思う。
善逸に対しても、「何だかんだ言って弟弟子」という見方をしたと思う。
自分の個人的な感情よりも、所属する組織の枠組みを優先する、というと個人が重視される現代だと良くないこと、昭和的価値観のように語られがちだが、獪岳のケースのようにそのほうが周りにとっても本人にとってもいい場合もある。
善逸がISFPだとすると、獪岳と真逆だ。
とことんすれ違う相性だったんだな。(ソシオニクスだと相性がいいらしいが。うろ覚え)
ENTJには「あんたは、爺ちゃんや俺にとって特別な大切な人だったよ。だけどそれじゃ、足りなかったんだな」という思いは、まったく響かなそうだ。(話が噛み合わなそう)
鬼殺隊だと不死川が絵に描いたようなESTJ。ESTJは、一目で「親分」とか「兄貴」と呼びたくなる雰囲気を持っている。
猗窩座と不死川は似ているし、猗窩座が人間だったら気が合いそうだ。(少なくとも冨岡や童磨よりは)
童磨と琴葉を引き裂いた、ストーリーを縛る絶対的なルール
猗窩座とは逆に無惨が嫌いな童磨は、典型的なENTPだ。ENTPは「常に目が笑っていない笑顔のキャラ」が多いので見分けがつきやすい。
童磨は琴葉をどう思っていたかだが、自分は普通に好きだったのでは、と思っている。
言葉では色々言っているが、行動だけを見ると琴葉を守るようなことしかしていない。
①夫に殴られて「原型がわからないくらい腫れていた」顔を手当てして元に戻してあげた。
②寿命が尽きるまで側において食べないつもりだった。
③琴葉を探しに来た夫と姑を殺した。
(引用元:「鬼滅の刃」18巻 吾峠呼世晴 集英社)
最終的には殺しているが、「説明しても俺の善行を理解できなくて」と言っている童磨にいつもの笑顔がない。
バレたからと言って問答無用で殺さず、「説明しても」「罵る罵る、酷い、嘘つきってずーっと」されたから、という経緯を考えてもそうだったのかなと思う。
この二人は両思いだが、「鬼は(人間がそれ以上に悪であっても関係なく)絶対悪である」というストーリーの絶対的なルールによって引き裂かれてしまった。
「鬼滅の刃」で自分が一番面白いと思うのは、この絶対的なルールの存在だ。
このルールによって、キャラ設定や描写を見ると「本当はこうだろう」と思うことが歪められていて、その煩悶の名残?がかなり味わい深い。
「鬼は絶対悪であり、人間がどんなひどいことをしても鬼の悪のほうがフォーカスされる」
という強迫観念にも似たルールが常にストーリーをがんじがらめに縛り、登場人物……というよりもストーリー自体の認知が若干歪んでいるところが面白い。
童磨と琴葉のエピソードも、琴葉にとっては(程度の差とはいえ)夫と姑のほうが鬼畜なのだが、誰もそのことには触れないし(伊之助は父親の非道にはまったく憤らない)ちらりとすら指摘しない。(当の童磨でさえ、「君の父親のほうが鬼では?」というようなことは言わない点がキャラ単体が、というよりストーリー全体の歪みなのだろうなと思う。ある意味、キャラ全員が共犯となり「鬼が絶対悪である」という幻想を守っている……その幻想を守らざるえないところに絶望を感じる、ということを上記の記事で書いている。)
猗窩座のエピソードも自分から見ると、猗窩座の師匠(恋雪の父親)は自分の罪悪感の源である病弱な娘の世話を猗窩座に押し付けているようにしか見えないが、そういう見方がストーリー内ではまったく出て来ないところが怖いところだ。(母親が恋雪の体の弱さに絶望して自殺した、というエピソードもかなり怖い)
ストーリー全体はSFJ色が濃い&他のキャラについて
他の柱は
煉獄 ENFJ
蜜璃 ENFP
悲鳴嶼 ISFJ
時透 ISTP
冨岡 ISTJ
しのぶ INTP
宇髄 ESTP
ではないかと思っている。
前述した通り不死川がESTJだとすると、柱は誰一人タイプが被っていない……どころか、要素も半々くらいで驚くくらいバランスがいい。
伊黒は他のキャラに対する態度を見るとINTJだが、蜜璃に対してだけ態度が違う……上に、ファンブック2でそちらが公式設定になったので、よくわからない。
12巻で宇髄に言っていることを見ると、どう見てもINTJ(「褒めてやってもいい」とか)なので、INTJかな。
悲鳴嶼はISFJが自分の献身を裏切られた(と思った)ときに、どういう思考回路になるかがよく出ていて面白い。
主人公陣は善逸が前述した通りISFP、炭治郎がESFJ、禰豆子がISFJ、伊之助がESFP、縁壱がINFJ、上弦では黒死牟はINFPではないかと思う。
ストーリー全体は「家に帰ることが幸せ」ということが事あるごとに強調されるように、SFJ色が強い。
無惨がESTJであることからも、基本的には共同体内の既存の善対悪の価値観の争い……という単純な構図に見えて、善悪の区切りを表層と深層でずらしていて、そのズレを絶対に表に出さない。
「鬼」という絶対悪の幻想を作り出すことで、共同体の結束を高め、その中にある矛盾(人間の悪)を見ないようにしている。
よくよく読むと「信頼のできない語り手」どころか「信頼のできないストーリー」なのだが、それほど大きな人間に対する不信や絶望を抱えてなお、家族への愛や愛する人に囲まれた小さな幸せに至上の価値を置いているところがSFJ的だなあと思うのだ。