作者が作内人物の内心を理解していないことがあるのか?
「作者が作内人物を理解していないこと」は自分はあると思っているが、「火山島」7巻でちょうどそういうことがありうるかどうかを考えさせられる例が出てきた。
主人公・李芳根(イ・バングン)が幼馴染の柳達鉱(ユ・タルヒョン)の裏切りを確信して、船の上で弾劾する。
二人が話しているところに、船員たちが乱入してきて、柳達鉱をリンチしてマストに吊り下げる。
李芳根はリンチを止めようにも止められず、吊るされている柳達鉱を眺めているうちに達鉱は死んでしまう。
このシーン及び「李芳根と柳達鉱の関係」の解釈について、作者とインタビュアーが副読本で議論している。
*「作」が作者の金石範、「イ」がインタビュアーの安達史人の発言。
この箇所は小説の内容は関係なく、そもそもインタビュアーの質問と作者の答えが噛み合っていない。
インタビュアーは「主人公の李芳根は、柳達鉱の裏切りに確信が持てる状況にない。(実際に作者は『作内には書かれていない』と言っている)証拠もないし自白もしていないのだから、李芳根にとって達鉱の裏切りは推測の域を出ていないはずだ。それを『裏切った』と決めつけて、死に至らしめるのはおかしいのではないか」と聞いている。
それに対して作者は「芳根は達鉱がそういう人間であることを知っている。だから生かしておけない」と答えている。
「裏切った証拠は出せないけれど、そういう人間だという理由で死に至らしめた」と言っているのだ。
次に話は「芳根と達鉱の関係」に移る。
どちらが作者かよくわからなくなるインタビューだ。
作者の金石範は芳根と達鉱の関係や芳根が達鉱を死に至らしめるシーンを、単純な勧善懲悪の構図としてしかとらえていない。
達鉱は性根の腐った悪党で、生かしておくとろくなことがない。だから芳根は死に追いやった。何も不思議なことはない。
そう思っている。
七巻でこのシーンの迫力に強い印象を受けて副読本を読みにきた自分は、他ならぬ作者のこの言葉を読んで驚いた。
インタビュアーの安達史人も、そして(金石範が「あなたたちが話した通り」と言っているように)他のスタッフも、そして自分も「このシーンは、そんな単純な勧善懲悪の構図に回収されるものではない。達鉱はただの性根の腐った悪党で片づけられる人物ではない」と思っている。
少なくとも冒頭の「作内描写では芳根は達鉱が裏切った決定的な証拠はないのに、何故か裏切った確信を以て死に追い込んだ問題」は、作者の解釈だと「芳根は証拠もないのに人を罪人と決めつけて、好き嫌いで人を死に追いやる人間」になってしまう。
ただのやべえ奴だ。
自分もインタビュアーが最後に言及している「芳根と柳達鉱は、同一人物の別々の面を表している。少なくともこのシーンにおいては」という結論に賛成だ。
この二人は「同一人物である」という側面がある。
だから作内の描写で証拠がなくとも、芳根は達鉱が裏切ったことを確信できるし、これからも裏切り続ける、そういう人物であるとわかるのだ。
柳達鉱が芳根に言った「代わりにやるやつがいるから、やらない。おまえは、必ず代わりのやつを作り出す。だから、自分の手ではできないんだ。そのくせ心のなかは殺人者だ」(P217 )という批判は痛烈なものだ。
芳根は反論できずに黙り込んでいる。
この批判に限らずこのシーンの柳達鉱は、李芳根にとって「内なる自己」であり、二人の会話は自己対話になっている。
「カラマーゾフの兄弟」のイワンと悪魔の対話に近い。
このシーンでは「神がいなければすべてが許されるはずだ」という「カラマーゾフの兄弟」の有名なセリフが、そのまま出てくる。
「カラマーゾフの兄弟」では、ドミートリィがキリストのように無実の罪を背負うことで世界を調和させようとする。イワンは絶対にそんなことはさせないと思って、裁判で「スメルジャコフが殺した」という真相を告白する。
対して「火山島」の芳根たちは「神もいないし、永遠も信じない」
だから裏切者の柳達鉱を殺すことでしか、世界を調和させる(済州島の人民の血と無念を贖う)方法はない。
芳根の理屈に則ると、済州島の悲劇を贖うには、何が何でも柳達鉱に裏切り者でいてもらうしかない。
柳達鉱が作内では「裏切り者であること」を明言されていないのに、インタビューで作者がそれを明言しているのはそのためではないかと思う。
済州島で起こっていることは、芳根の内的世界とリンクしている。
芳根はソファーに座り込んで外界を見ているだけのような怠惰、諦観、そうすることで目の前で起こっている様々なことを見過ごしてきたという罪悪感と決別するために、そういう自分の心象の象徴である柳達鉱を殺さなければいけなかった。
そうでなければ済州島で起こっている悲惨の調和=自己の内面の調和がとれない、そう考えている。
だが「自己の一部を切り離すことで贖いをしてしまっていいのか」それは逆に卑怯ではないか。そうも思うから、柳達鉱を殺すことを躊躇っているのだ。
インタビューでは「芳根は柳達鉱を殺したがっている」という前提で話が進んでいるけれど、自分は芳根が柳達鉱を殺したがっているようには読めなかった。
自分の気持がよくわからず「本当に殺してしまっていいのか」と葛藤しているように見える。死んだあと、嘔吐するほどの衝撃を受けたのはそのためではないか。
芳根が柳達鉱に相対する態度は、作者が言う「サディスティック」どころか自罰的であり、罪悪感を持っているように見える。
李芳根の「罪の意識」を調和させる(ある種の)生贄だから、「吊り下げる恰好が十字架でなくて残念」と言われたのではないか。柳達鉱を殺すことを迷ったり、死んだと知った時に衝撃を受けたのも、自己の一部を仮託して罪を償わせることに躊躇いがあるからではないか?
話をまとめると、芳根は「ソファーに座り込んで」済州島で起きている出来事から目を背けていた。その結果、済州島が虐殺の嵐が吹き荒れるような状況になったことに強い罪の意識を持っている。
そのため、済州島で起きている悲惨な現実と芳根の内面は、主観的には同一世界と言っていいほど強くリンクしている。
この「同一性のある世界」で自分が感じる罪を贖って、調和をもたらさなければならない。
ドストエフスキーの世界なら、神と永遠が存在するので「罪なき人がすべての罪を背負う」ことで調和がもたらされる。「火山島」の世界には神がいない。
だから実際に罪がある悪い人間に罪を償わさなければならない。
だがそれだけでは「済州島の出来事」という現実の罪は贖われても、芳根の内的世界では罪が贖われない。何故なら芳根の内的世界で罪を贖ければいけないのは、芳根自身だからだ。
芳根の内部を調和させる方法は、作内では罪を犯しているとは確定していないことで芳根と同一性を持つことが出来る柳達鉱を罪人として殺すしかなかったのではないか。
柳達鉱が作内で『実際に罪を犯した』と明確に書かれていないのは、柳達鉱が「現実的に罪人である」と確定してしまうと、芳根の『罪の意識』を仮託できなくなる(同一性がなくなる)からではないか。
こう考えると「作者がインタビューで語ったことと作内描写の矛盾や違和感」がすっきり説明がつくし、シーンの説明としても筋が通る。
作者が「柳達鉱は嫌い」と即答している理由もわかる。
あのシーンの意味として何が正しいかはわからないけれど(そしてそれを決めることに意味はないけれど)少なくともインタビュアーと自分は「作者の解釈は違うのでは」と思っている。
「自分」では「語りえぬもの、語りつくせぬもの」があり、お話という枠組みの中でのみ、影絵のように浮かび上がるものもあるのではないか。
そう思った。
*「カラマーゾフの兄弟」との対比を軸にして、考えをもう少し整理してみた。