「人を救う」のは自分の人生全てを賭けても難しい、逆に自分の人生を食いつぶされる可能性があると「多崎つくる」が教えてくれた。
この記事の話。
僕は一人の人生を救うためには、もう一人の人生が必要なんだと思いました。片手間ではカルト宗教とは戦えない。戦うなら、僕の人生全体を使う必要がある。
でも、僕には僕の人生があって、僕はこの友人のために自分の人生は使えない。それが、当時の僕の結論でした。
お母さんを陰謀論から抜け出させるためには、お母さんの不安や淋しさを丸ごと引き受ける必要があるだろうと僕は思っているのです。
それがどれほど大変なことか。あらためて書くまでもないでしょう。じーこさんや弟たち、父親の人生全体が問われるのです。
この結論には、何ひとつ付け加えることはない。
「まったくその通りだ」と思う。
「人を救う」というのは、相手に自分の時間を賭けて全人的に向き合わなければならない大変な作業だ。
少し話したから相手が救われる、というものではない。(その場合は、相手が「救われる」直前まで来ていて、その言葉が最後のきっかけになった程度に過ぎない。恐らく)
「救われる側」に「救って欲しい」という願望がない場合は、そうとう拒絶反応があるだろうし、相手の内部に土足で踏み込むことになるから、冗談抜きで「殺されるかもしれない」くらいの気概で挑まないといけない。
さらに相手の「救って欲しい」という気持ちが、ものすごくひねって現れる場合もある。勝手に「救い手」として選ばれて、ものすごく理不尽なことをされるケースもある。
「勝手に『救い手』に選ばれて、ものすごく理不尽なことをされたケース」が上手く描かれているのが、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だ。
シロは恐らく潜在意識下ではつくるに、自分のいる地獄のような状況から救い出して欲しいと思っている。ただ「救って欲しい」を訴えかける方法が「つくるに性行為を強要されたという嘘を言いふらす」だから、「救い手」からしたら何が何だかよくわからない。
「救い手」は一生懸命、相手のことを思っているのに、暴言を吐かれる、理不尽な対応をされる、無意味に傷つけられる、突然シャットアウトされる、裏切られる、ひどいときは暴力を振るわれる、こういう試し行動や揺らぎ行動みたいなものが延々と続く可能性がある。(というより可能性が高い。)
こういった理不尽な行動がなくとも、「自分がどれほど側にいて力を尽くしても、相手が回復(変化)しない無力感や罪悪感」に苛まされる。
シロのように、本人が抱えているものに殺されてしまうかもしれない。
自分が人生を賭けてさえ、まったく何も成果が得られないどころか「相手を逆に追い詰めたのではないか」という罪悪感しか残らないかもしれない、「自分がこれだけしたのに、相手は何も変わらない」という怒りに囚われてしまうかもしれない、もしくは人生を破壊されるかもしれない。
クロのように「あの子にとり憑いているものから逃げ出したかった」と言って、フィンランドまで逃げたとしても責められない。
だからこそかもしれないが、フィクションには「救われ願望」や「救済者願望」を満たしてくれるものが多い。
「多崎つくる」のように「他者が囚われた闇に対して、自分の思いがいかに何の意味もなく無力か」ということを骨の髄まで叩き込んでくれる話は珍しい。
つくるはシロが抱える闇の、ほんの余波を喰らった程度であれだけ病んだのだ。まともに喰らったらクロが言ったように「私のほうがおかしくなる」。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、シロが何に囚われていたのか、という「悪の根源」は最後まで姿を現さない。
自分も初読のときは「何だかはっきりしない話だな」と思っていた。
「悪」は「悪によって災厄に囚われた人」という形でしか姿を現さない。
表に現れて、目でははっきり見えて対処できるものではない、という発想も込められているのではないか。
タイトルの長さへの指摘ばかりが目につくけれど(ラノベっぽいとか)「悪に憑かれた災厄の連鎖と、それに対する善意や親愛の無力さ」を書き、逆説的に「そういう場所に人を追い込むことがいかに残酷なことか」を描いた凄い話だと思う。(「残穢」に似た怖さがある。)
ブログでほとんど同じ話を書いていた…。ちょっと違うからいいか。